俳愚人 blog

無名著述家、無名俳人、著書数冊

新党「中道改革連合」をどう扱うかー

そもそも「中道」が政党のスローガンとして成り立つのか、という問題がある。
政治理念を顕わす言葉ではないし、他人が相対的にさして使う概念だからだ。
ま、そもそも論は横へ置いておいて、中道改革連合を批判の余地はあるが、否定しないか。
 私は、従来から松下政経塾と富士政治大学出身政治家は一掃しなければ少しも佳くならないと述べてきた。
彼らはもともとCIAから金をもらって日本の左派解体のミッションを受けた末裔だから、めんめんとその流れに身を寄せた鵺の存在が自民党を右から支えてきた。
それが表通りを歩くようになった野田代表であり連合吉野会長や玉木代表である。
彼らは、決定的なシーンでジャッジを握り、自民党政策に加担した。
プチ改革を掲げ、いかにも日本の改革をするように見せかけながら、日本のアジア的劣性遺伝子からくる構造改革は手を付けない。
その意味で野田らは、左派として立民党を立党した原点から、左派をはぎ取り右派でまとめ上げるという立民党潰しを結果する。
比例も公明党員を上位におくようなので、公明は全滅から何とか回避するだろう。
選挙の予想屋をするのではない。
共産党やオールドリベラルのようにコミンテルン方式で批判をしても、階級意識もなくなり冷戦が解体し、世界の人々が文化価値観政治に変質した中で、2大政党だとか、左派が人民の味方だとかいうテーゼでは進まなくなった、その混迷が米国であり欧州なのだ。
左派の矛盾は、多様化を言いながら多様化した人民の、あるいは多様化した世界の国家の多党化を収拾するアジェンダを提示できない。
多様化を認めれば認めるほど混迷するのだ。
理由は、人民の生活や格差を解決する政策を極右が訴え、分解した中間層の「下」を回収しようとしているからだ。
いまや、「命や生活を守る」理念は極右の専売特許になっている。
英仏独を見れば極右が第一党、第二党となり、本来なら政権を掌握する。
しかしかろうじて政権にどこもついていな。
理由は、冷戦時代には考えられもしなかった左翼と中道・保守が連立し、極右を抑えこんでいるからだ。
今や、「上」「下」の分断問題にだれがアジェンダを提示するのか、それが問題になっているのだ。
言ってみれば、「クソ」をゴミ箱に入れるに、汚い「雑巾」でふき取るのか、コミンテルン図式でクソに「唾」をはいて、クソも雑巾も批判はするが、通り過ぎて残すのかといえるだろう。
正当性はアピールできても「クソ」と「雑巾」は残る。
「雑巾」に「クソ」をふき取らせ、一緒にゴミ箱へ捨てる、政治の実効性を担保することはできないか。
欧州を理想化するものではないが、「クソ」の封じ込めは無しえている。その市民の闘いと連立の仕方は、これから本格的にやってくる右翼排外主義、民主政の作法を破壊していくポピュラリズムの参考になるだろう。
「人民」「市民」はいまだに私もよく使うが、文脈次第で、「国民」と同様実体はないのだから、スローガンでしかない。
そうはいっても、共産主義運動のテーゼー左右対立から左派の強化と内戦(政権交代)という大きな枠組みでは生きていて、フランスなどは20以上ある左翼政党団体が大同団結した。
結果、第一党の極右国民連合を抑え、3位マクロン与党中道派との連立を果たしている。
フランスは日本共産党みたいな天皇制とは違うのである。
日本に左翼が消滅した中で、饅頭の皮が必要なのである。
新しい左翼の萌芽は、市民運動、協働組合運動の中から、ミニシュバリズムとして期待している。
かつての党派はサンディカリズムと小ばかにしたが、「下からの」革命こそ「下」を見捨てない政治が可能だと思う。
何故なら、行政権の肥大化で民主主義などほぼ消し飛んでいる日本は、市民の波打ち際での攻防戦が必要なのである。
バルセロナ市民は憲法まで制定している、まさに自治都市国家の伝統だろう。
丸山眞男は戦後政治の市民の「主体」確立を説いたが、どうすれば実践可能かは言わなかった。学的な理念先行となった。
いま、私たちには可能性としての「主体」形成は、行政権力との波打ち際での攻防によって前進するのではないか。
大阪にいて維新の愚劣さにさらされると切実に思うのである。