■新自由主義者と官僚の代弁機関に堕落した菅内閣

呆れてものも言えない、お正月。
国民を裏切って、完全に官僚と官製知識人の戦略に絡め取られたことが年頭演説ではっきりしてきた。

オバマ大統領の年頭方針演説と比べ、わが国の総理は何処を向いて政治をしているのだ?

オバマは、
1.景気浮揚を引き続き上昇軌道に乗せる、
2.そのための大産業構造の転換を推進する。
3.それにより、雇用の創出を拡大する。

と、国民生活を中核に置いた政策に焦点を絞っている。
オバマは、自分の政権の歴史的使命を自覚している。

オバマ政権とは、ブッシュ政権時代の新自由主義ネオコンという戦争屋によって進行した国民生活の弱肉強食による富の偏在と失業、また戦争経済による財政赤字を解決する、という国民の期待を担って誕生した。

諸要因によりうまくいかずに支持率を下げているとはいえ、公約のベクトルは変更していないことがこの年頭方針から理解できる。

それに比べて菅総理はどうか?
民主党政権が、国民に約束し、政権として付託された公約のベクトルは影も形もみえなくなっている。

民主党政権誕生要因は、アメリカに押し付けられた国民資産貢納戦略を遂行する小泉新自由主義市場原理主義)にによって、中間層解体と格差社会の是正を国民の圧倒的多数の期待によって成立した。

それを放棄し、仙石、前原らの小泉政策を継承を政策とする凌雲会に引きずられ、連動する親米官僚による乗っ取りが完了したことが推測される事態が進行してきた。
それを踏まえると、菅総理の行動がすべて合理的な動きとして見えてくる。

開口一番にいったことは、小沢金と政治問題であり、消費税問題である。
相変わらず二匹目のドジョウを狙って、マスコミとタッグマッチで国民生活の改善には一切関係ない問題を年頭方針としているのだ。

菅総理の狙いは、小沢を血祭りにあげることで、B層の支持率を取り付ける、そして党員活動停止から政党助成金の無配を実施し、締め上げることで自己権力を磐石にすることだ。

しかし多くの国民は、既にマスコミの虚偽報道の犯罪にきずいており、小沢は無罪であり、検察のつくりだした冤罪だということを知ってしまっている。
菅内閣はその冤罪に加担し、己の支持率浮揚を図ろうとするなんとも小汚い意図をもって小沢を利用している。
誰かが指摘していたが、自民党公明党が言うならわかる。彼等はいざとなれば人権や法の下の平等などをかなぐり捨てて、党利のために動く政党だからだ。

しかし民主党の菅や仙石はリベラルのポーズを採ってきたのではないのか?

金問題に決着を付けるというなら、小沢陸山会の軍資金で議席数をとり政権交代をなした、菅内閣は解散して金を使わない選挙をやり直すことから始めなければ論理矛盾ではないか。
恐ろしいのは、こういう子供でも判る理屈をメディアも官製知識人も知らぬふりをして、自分達の既得権を菅内閣に代弁させることで、菅内閣のこうした国民への裏切りの追求を封じる取引を官僚・マスコミ・執行部の談合により遂行していることだ。

そして、今や完全に官僚内閣へ変質した菅内閣は、財政は事業仕分けをやったがそれでは解決しないと、事業仕分け増税の禊としてしか位置づけなくなった。
ここでは詳説しないが、それには半分以上の嘘があるだろう。

何度もいうが、複式簿記にしてみればそのカラクリはすぐ解るはずだ。
なぜ財務省は嫌がるのだ。

また、何故わずか一年足らずで、経済成長戦略をいわなくなったのだ?
成長戦略よりも、なぜ増税なのだ?

財政赤字は、実際には2010年度は結局法人税収入が微増して単年度では増えているではないか。成長戦略こそがその中心的論議にすえられなければならないはずだ。

それを菅総理は、法人税の引き下げをしないと企業が逃げて行くいくからと強権発動したと自慢したが、では日本より高いアメリカは企業がみんな逃げていったのか。景気のいいアップルもグーグルもマイクロソフトも、倒産したGMも逃げ出したのか。
バカも程ほどにして欲しい。

国民を脅しにかけて、増税の布石を打つことがリーダーシップではないだろう。

これらは、国民抜きの、官僚と国家のための官僚政策(財務省)に乗っかった結果であり、完全に経営戦略論の欠落と無策を官僚に突かれて、官僚の恐喝と洗脳により代弁機関に成り下がった結果である。

民主党員の不作為の罪は、この戦略論のない菅という男を総理につけ、明確に社民政策を掲げて邁進する小沢の排除に加担したことである。

今からでも遅くは無い、民主党菅総理を引き降ろすか、少なくとも党内抗争をやめて、小沢が当初描いた挙党体制を構築すべく小沢幹事長として出直すことである。

自民党公明党の低レベルな攻撃に立ち往生するようでは、この閉塞を克服することなどではしない。
小沢が心配するように、民主党がだめなら次は間違いなくネオナチス政党しか登場しないということだ。このことは近年のヨーロッパをみればわかることだ。

今の尖閣事件のように国家主義をマスコミが煽る時代が、わずか70年前だったことを思い起こさなければならない。