高浜原発運転中止の大津地裁判断と文化左翼の「停止運動」の陥穽

司法判断として、原発停止は歓迎する。
一方で、先日の毎日新聞の伝えるところでは、福島廃炉作業の現況は大幅に遅れ始めている。
原因は、

1.作業員が不足。
2.作業員高齢化で若者の作業員が補充できず技術継承ができない。
3.大学の核研究志望者がほぼゼロとなり、専門家が絶滅する危険。

これらは当初から予想され、東電にも経産省にも大丈夫か何度も念押しされた問題である。
そのたびに十分足りている、心配はないと回答してきた。

まっかな嘘であった。

筆者は、情緒的な反原発運動を文化左翼が煽ることを戒めてきた。
特に大衆の不安を煽り、倫理主義として運動化することは一種のファシズムであると、吉本隆明の発言の哲学的本質を解説しながら述べたが、加藤典洋、瀬尾育生、辺見庸の諸氏以外ほとんど同意をみなかった。

科学は科学で克服するしかない、という見解を近代主義だと罵倒するような無知が東大教授のなかにもいて、文化左翼の見事な堕落っぷりをみせてくれた。

私たちは、忘れがちだが、原発も危ないが、核爆弾はもっと危ない。原発の付き合いを止めても核爆弾の付き合いは続くのである。現状動いている原発廃炉にはすくなくとも一世紀はかかるだろう。また放射能半減期は130万年だ。

「ニュークリア」はどちらも同じ原理なのだ。

さて文化左翼どもよ、停止運動はいいが、その見返りにこのままいけば除染も廃炉も核爆弾への対処もできない人的技術的停止も同時に起こりうることを認識しているのだろうか。

科学と哲学の問題を、倫理主義に還元することの蒙昧をしるべきであり、識れば責任ある「停止」とは、どのような条件でなければならないか言わずして、言論ポジションだけ確保するようなことであってはいけない。
それは公共性のある言論ではなく、言論商売人だ。