安倍極右政権に沈黙する国民が、アメリカ大統領選に民主主義の危機を語る不思議。

トクヴィルは、アメリカ民主主義は権利の平等、機会と条件の平等が基本的な法であると述べた。
合衆国が移民の波に洗われながらアイデンティティを維持できたのは、起源において異なるものを平等にする民衆力を備えていたためだと。

これがアメリカ人の基本的コモンセンスである。

だが、今回の大統領選でトランプに熱狂するアメリカ人は変質したのだろうか?
あの排外主義政策に、いともたやすく雪崩れる国民は、もはやアメリカではなくなっているのだろうか?

しかし、一方で自称民主社会主義者のサンダースも若者層に熱狂的支持を得ている。なにしろ2000円〜5000円くらいの個人献金500万人に選挙資金は賄われているとのことだ。この個人献金までして自分たちの政治をつくろうという市民の参加意識は、日本人にはまねのできないことだ。
1950年代のマッカーシズム社会主義者は根絶やしされたともいわれていたが、どっこい細々といきていた。
それが大統領選の勝者と目されるヒラリーを脅かしている。

このバランスがアメリカなのだ、ともいえる。

日本は世界で極右政権の安倍政権が顰蹙をかっているにもかかわらず、アメリカのような国民のバランスは表出していない。
わずか17%程度の得票率で、全税金をほしいままにする権力を国民は善しとしている。

それを考えると、トランプが共和党で勝利しても日本人が驚くのはお門違いというものだ。

筆者の考えでは、トクヴィルの考えはアメリカ民主主義の本質をいいあてているが、同時に危うさを表現できていない。

「起源において異なるものを平等にする」が、同時に民主主義の陥穽でもある。
平等は「法の下での平等」であって、実体としての人間の差異を平等にはしない。

ナチズムが、また日本のアジア植民地政策が、そこに眼をつけ民族に優劣を固定化した排外差別主義により、ホローコストや強制連行や人体実験を国民あげて推進協力したのであった。

したがって絶えずその原理に、民主主義を崩壊させる内的論理を抱えているのである。

近代が国民国家を手に入れ、民主主義を共同観念とし公人教育を義務化した。民主主義を絶えず左右の全体主義からまもる意識的努力を国民に負わせているのはその陥穽に陥らないためである。
民主主義は、国民の政治参加と、絶え間ない努力の上にしか維持できないことを歴史的に人類は20世紀に経験してきた。

ファシズムは、まじめな中間管理職層が推進し、
ファシズムは、日常の支配イデオロギーを内面化した真面目な善男善女が完成する、
とはよくいったものだ。
主体の放棄、空虚な「私」。

いまトランプの熱狂をみていると、かつてのマッカーシズムを知っていながら、アメリカを盲目的に民主主義国家だと幻想する私たちの愚かさを知らされる。

そのわたしたちは残念ながら、もう排外主義右翼政権を黙々と支持する国民になっていながら、自国よりアメリカ大統領選に民主主義の危機をみて、一喜一憂するという不可解な国民でもある。