年末年始ほど孤独老人にとって、始末に負えないものはない。
年末に、映画「どうしたらよかったのか?」を観た。
この感想を書こうと思いながらも、誰が読んで有難るものやら、と思ってぼんやりしているうちに年が明けた。
5日も誰とも喋らないと声を忘れる。頭の中は目まぐるしく会話しているのだが、人の名前は呼ばなくても頭が先に顔を映し出すから、名前を呼ぶことはない。すると別のシーンで名前がちっとも思い出せず、身もだえするのだ。
昨日は、恒例の哲研「保守とはなにか」宇野重規著だった。
宇野はネットの発言で観る限り、アホだと思っていたが、本はなかなか佳かったので、簡単に紹介しようと思ったが、いまさら保守を知っても、ヨレヨレの凡俗爺になってしまった元左翼には、猫に小判だからなーなどと思ったら、書く気もなくなった。
ひとことで言えば、エドモンド・バークを範にして、本来の保守概念でみていけば、日本に保守思想家などほとんどいない。
幸いにして、身近に良質な保守思想家の山﨑行太郎氏がいるから、彼の言説を咀嚼すれば、十分であろう。
宇野の唯一残念なのは、アカデミシャンを出ていない処だ。
アカデミズムの枠内でしか論じようとしていない。
あ、「坂の上の雲」始まったから、一旦停止。
旅順攻撃の前編、来週は旅順港閉鎖作戦だ。廣瀬が死ぬ英雄に祭り上げられるシーンだ。
司馬は、遺言でこの小説だけは映画化を禁じた。
しかし、それを破って司馬婦人とNHK菅が映像化をやっちまった。
司馬が懸念したように、安倍晋三は会う人ごとにこの小説を薦めた。
私も好きである。日ロ戦争がもたらしたものの、つまり植民地化を免れるための必死さや健気さと、以後反転していく帝国主義と国家統制のもとの弾圧のすさまじさを、見ることになるが、よいところ取りする司馬ばかりか日本人のノーテンキがよくでているからである。
明治人が西欧列強へのキャチアップしか頭になく、米国へのキャチアップしか頭になかった戦後の我々そのものである。
それが何とか達成を観た瞬間から、明治も昭和も、日本人は限りなく堕落してゆく。
つまり戦略というものが描けない知能欠陥民族(英国人談)だと、改めて自覚させてくれる。
司馬という作家も、国民も、ひっくるめてその様に了解すると、作品の価値が右派ナショナリストの絶賛も、リベラルの戦争反対の乙女チックも、超えた処で価値が解るのである。
少し横道にされた。
肝心の書きたかった憲法問題は改めて、ページを変えて出直すことにする。