「新しい」というキャッチフレーズに浮遊する現代の学生運動SEALDs問題

いよいよメッキも剥がれてきたので、これまでの筆者の分析と懸念が間違いでなかったようなので、前提の解説はぬきにする。

先週の田原総一郎の番組「朝なま」で、SEALDsの奥田代表が出演したようだ。
憲法9条に関して軍隊保持かどうかという田原の問いに、奥田は断定は避けたものの、軍隊保持はあってもよいと回答したと。
どのような軍隊かにも明言はしなかったようだが、この発言が物議をかもしている。

筆者にいわせれば、何を今更と思うのだ。

彼は過去に朝日のインタビューに、自衛隊合憲でいきたい、と明言している。

SEALDsのヘイトスピーチと「敵対者」12万人ブロックを公言した悪名高い野間らは、以前から9条2項は廃棄し国防は武力によると主張している。

SEALDs全体が運動の中心をを担っているメンバーのような考えかどうかは知らない。しかし、もし無条件に軍隊保持に改憲するならば、それは戦後の平和主義を根底からかえるものであり、それを学生運動の中心課題に据えるということの重大性を当人たちも、運動を賛美してきた文化左翼たちも解っているのだろうか。

大衆の素朴な「攻められたら怖い、自衛隊が守ってくれるようにしないと」というマインドに応えるには、都合がいいかもしれないが、自民党の9条改憲とどこがちがうのか?

護憲派のこの大衆の問いにリアリティある回答をもてていない欠陥が確かにあるのだが、だからといって国防軍を持てば解決するというほど、日本の憲法は浅い理念ではない。

筆者は9条改憲は、空文化したものを実質的に平和主義に徹底する改定ならばしてもよいと思う。
しかし9条は憲法前文の理念を生かす意味で、変えようがないのである。

もし前文の理念をより徹底しながら、そして戦後保守政権も内閣法制局も認めてきた「専守防衛」を守りながら、軍事的な守りも必要だというなら、二つの方向しかない。
一つは、護憲のまま自衛隊存置でいく。集団的自衛権を止めて現実的な集団安保条約を推進していく。
二つ目は、SEALDsの主張のように、9条2項は廃棄、国防軍を明記する場合。
筆者はそれをする場合は、別項に、加憲が必要だと考える。
自衛隊は解体し、国民皆兵とするスイス方式をとる。
国防軍明記ならば、良心的兵役拒否明記と経済徴兵制をとらないこと。
そして何より国防軍保持の現実的要件は、近隣諸国との信頼回復を徹底できた場合にしか成立しない。信頼回復とは、冷戦時代のアメリカのコントロールであいまいになってきた、旧植民地諸国への国会決議による日本政府独自の謝罪である。

新しい運動と持ち上げてきた小熊英二高橋源一郎内田樹らは、今後どうコミットしていくのか。
筆者は、一定程度の政治改良運動として評価はしてきたが、与することはない。
こんな文学を内包しない稚拙な運動は、一種のネオファシズムであり、文化左翼のようにやるべき時に売文屋と学者に納まって何もしなかった負い目から運動を自己のロマンの対象にするようなこともしない。

することは戦後民主主義擬制を撃ち続けることだけである。