■河村市長と改革派名古屋市民への期待とエール

無効署名、約1万人分を「有効」に=住民投票実施の公算―名古屋市選管 (時事通信社 - 12月14日 23:03)
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これは名古屋市民の熱意と河村市長の作戦勝ちだろう。

このトラブルは、もともと選管事務局の認定に反して、選管管理委員が慣例を破り、今回だけ有効票の基準を厳密にしてハードルを挙げたことによる。

つまり市議退任者が占める管理委員会が、河村市長の政策潰しを図ったわけだ。
守旧派が総がかりで、改革の旗手河村市長潰しに躍起になっているとうことだ。

だが市民は市長を支持している。

国政と違って、減税という判りやすい政策から入っていくため市民が支持できる。市長の上手いところだし、菅内閣の閣僚らとは違って人心を掌握することに長けている。
それは河村市長が、中小企業の社長で苦労人でもあるからだろう。

もちろん、地域委員会と市議会との関係の未整理や、ただのパフォーマンスだという批判もあるよだが、市民は実感として市議会に不信感をもっている、あるいは民意を反映していないと思っていることは事実で、それがこのリコール票に結びついたのだろう。

でなければ、初の市議会リコールなどに発展することはなかっただろう。
この展開は今後の地方自治体の行く末に大きな道標となるように思う。

地方自治体は、知事、市長だけが事業起案権をもっているため、自党派の事業案を実現させたいために、勢い知事や市長にとりいるために馴れ合うことが多くなる。なあなあで運営されている自治体がほとんどである。

今税収が落ちた中で、それでは立ち行かなくなってきた。
多くの自治体が、苦慮しているのが議員報酬や県市職員の給与と退職金の相対的負担増である。

民間と比較して、給与が高い。
これはよく解っていない反対意見があるが、個人別に民間と比較すればそれ程高くないというものだ。
それは経営観点が欠落した意見で、間違いである。

民間は、管理職手当てが支給される割合は従業員数の約15%程度だ。しかし官庁はほぼ80〜100%が、年功序列で昇進し支給される。そのため、給与支給総額でははるかに高額になるのである。
それに比例してまた退職金も高額となる。

例えば、わたしの市でも今期最大の問題が起きている。
平成21年の退職者は150名いて、退職金総額は50億円だそうだ。そのうち20億円を借入が決定している。
金利2%で借入期間が10年、利息負担は約2億円にもなる。

一人頭平均3400万円の退職金である。民間でいまどきこんな高額はほとんどない。

役所の欠陥は民間では当たり前にもっている退職給与積立金制度を持ってないため、税収から直接年度支払いせざるを得ない点である。
世情の景気動向に連動しないため、今のように税収が落ち込むと勢い予算を圧迫する。

一度決まった金額は公務員給与法を変えないことには減額できない。
そこで、麻生政権下で退職金起債を法制化したためどんどん借金しなさいということになっている。


もうひとつは、特定目的基金(文化施設建設、借金返済、美術品購入など特定目的の積立金、また市民からの寄付金)から起債借入をしていることである。

起債借入というのは、将来の目的のある投資のための債権を発行した長期借入のことだ。
これを特定目的基金から、目的外であるにも係わらず、予算不足を穴埋めするためにまわしてもってくる方法なのだ。

そのため、本来市民の寄付などどで積み立ててきた実際にはあるはずの基金の金が無くなっているというのだ。
つまり財布が二つあって、片方から市の財布へ移し変えて使ってしまうわけだ。

この目的外使用の基金繰り入れは麻薬のようなもので、この繰入金は借金にも関わらず一般会計では歳入扱いされるため、基金は無くなるわ会計ではごまかしになって実態をみえにくくするわで大変な問題なのだ。市民を欺く巧妙な詐術である。

これらの問題は大方の自治体に共通しておきている由々し事態である。

河村市長の改革が何処まで市民の支持を受けて進展していくのかは、実は国政以上に重要になるだろう。

それは市民の本当の成熟と智恵が試されることになり、毎日の生活に直結した問題を市民が解決能力を持てるかが問われるからである。

そこでは、顔見知りの市民どうしが馴れ合いを許されなくなり、また自分達の選出した政治家に対して責任をもたなければならなくなるからだ。

そして、公務員給与法一つ変えるのにも、中央政治と官僚との闘いを避けるわけにはいかなくなるため、市民のなかで革新派と守旧派がもっと明確な対立として先鋭化し、それが日本の将来のかたちを決めていくだろう。

明治政府が曲がりなりにも安定するのは明治20年頃だ。
反動の「安政の大獄」から数えると40年はかかっているわけだ。

しかし明治維新の前半は、実質的には先進的な藩の藩政改革に費やされている。

それから考えると、自民崩壊から新たな国造りはまだ始まったばかりだ。紆余曲折も一時的反動もまだまだあるだろう。

政党は何処も一緒だ、だれが総理でも変わらないなどと舐めたことをいうニヒリズムを排して、執拗な改革へ向けた市民の執念が、これから本当に必要になると思う。その情念の途切れた方が負けである。