年末年始は葬送の儀式か?

新年明けてバタバタしてきた。

12日(日)は、現象学研究会が、そのエコールの泰斗竹田青嗣西研両氏を招いて開催。

全国から、エコールの諸氏が参集。

竹田さんが、いよいよ「欲望論」第三巻の書下ろしを構想し、その概要発表がありました。

「政治社会」編、本人は従来の原理論を越えるものになると気焔を吐いていました。

ま、期待して待ちましょう。

 

インフルエンザらしく、何も手につかず、食事をするのがやっとだ。

薬もないらしいので、わざわざ医院に行く気になれずじっとうずくまっている。

寝室に父の書が掛けられている。

書家だった父が晩年床の間に掛けていたものだ。

「心恒不退」。

苦しくなったとき、これを反芻して気力で乗り切る。

 

生きていると思ってた人が、亡くなっていたと知るのも年末年始の風物だ。

老人の晩年は、新年がいつの間にか葬送の儀式になってくる。

孤独老人の始末に負えない年末年始w

年末年始ほど孤独老人にとって、始末に負えないものはない。
年末に、映画「どうしたらよかったのか?」を観た。
この感想を書こうと思いながらも、誰が読んで有難るものやら、と思ってぼんやりしているうちに年が明けた。
5日も誰とも喋らないと声を忘れる。頭の中は目まぐるしく会話しているのだが、人の名前は呼ばなくても頭が先に顔を映し出すから、名前を呼ぶことはない。すると別のシーンで名前がちっとも思い出せず、身もだえするのだ。
昨日は、恒例の哲研「保守とはなにか」宇野重規著だった。
宇野はネットの発言で観る限り、アホだと思っていたが、本はなかなか佳かったので、簡単に紹介しようと思ったが、いまさら保守を知っても、ヨレヨレの凡俗爺になってしまった元左翼には、猫に小判だからなーなどと思ったら、書く気もなくなった。
ひとことで言えば、エドモンド・バークを範にして、本来の保守概念でみていけば、日本に保守思想家などほとんどいない。
幸いにして、身近に良質な保守思想家の山﨑行太郎氏がいるから、彼の言説を咀嚼すれば、十分であろう。
宇野の唯一残念なのは、アカデミシャンを出ていない処だ。
日本の保守思想として、丸山眞男福田恆存は出てきても、戦後の論争の中心となった小林秀雄も橋川文蔵も吉本隆明江藤淳も取り上げられていないところだ。
アカデミズムの枠内でしか論じようとしていない。
ま、そんなことはどうでもいいのだが、今日ちょっとひっかっかたのは、創価大の憲法学者の解釈である。
あ、「坂の上の雲」始まったから、一旦停止。
旅順攻撃の前編、来週は旅順港閉鎖作戦だ。廣瀬が死ぬ英雄に祭り上げられるシーンだ。
司馬は、遺言でこの小説だけは映画化を禁じた。
しかし、それを破って司馬婦人とNHK菅が映像化をやっちまった。
司馬が懸念したように、安倍晋三は会う人ごとにこの小説を薦めた。
私も好きである。日ロ戦争がもたらしたものの、つまり植民地化を免れるための必死さや健気さと、以後反転していく帝国主義と国家統制のもとの弾圧のすさまじさを、見ることになるが、よいところ取りする司馬ばかりか日本人のノーテンキがよくでているからである。
明治人が西欧列強へのキャチアップしか頭になく、米国へのキャチアップしか頭になかった戦後の我々そのものである。
それが何とか達成を観た瞬間から、明治も昭和も、日本人は限りなく堕落してゆく。
つまり戦略というものが描けない知能欠陥民族(英国人談)だと、改めて自覚させてくれる。
司馬という作家も、国民も、ひっくるめてその様に了解すると、作品の価値が右派ナショナリストの絶賛も、リベラルの戦争反対の乙女チックも、超えた処で価値が解るのである。
少し横道にされた。
肝心の書きたかった憲法問題は改めて、ページを変えて出直すことにする。

新年に聴くサヘル・ローズの深く重たい平和へのコミットメント

新年早々、サヘル・ローズの圧倒的な迫力のある話を聞いて、イヤー参った。
昔TVで変わった子がいるな、ぐらいにしか思わなかったが、よくここまで語れる大人になったなと驚嘆した。
機関銃のように語られる言葉は、ヘタな学者や批評家より深く、体験に裏打ちされているだけに、圧倒的説得力がある。
このチャネル主催の「たかまつなな」とは何者なのか全く知らないのだが、われわれ老人世代とは違ったアプローチをする若い世代が確実に育っているようだ。
ひとつ年を越せば、ひとつ学べた。
 生きていることは有難いことだ。
 

2024年読書履歴。

2024年読書履歴。
欲望論下       竹田青嗣  〇
ー以上、現象学研。
<私>を取り戻す哲学 岩内章太郎 〇
 ジョン・ロールズ  玉手慎太郎  〇
現代思想入門    千葉雅也   〇
目的への抵抗    國分功一郎  〇
訂正する力     東浩紀    ✖
保守主義とは何か  宇野重規   ▲
他者と生きる    磯野眞穂   〇
ー以上、「哲学鈍行列車」読書会。世界の名著読書会。
来るべき民主主義  國分功一郎  〇
新し左翼入門    松尾匡    ▲
アフター・リベラル 吉田徹    〇
優生学と人間社会  米本昌平他  〇
現代思想講義    船本亨    ▲
サンデルの政治哲学 小林正弥   〇
津久井やまゆり園  佐藤幹夫   〇
哲学とは何か    竹田青嗣   〇
自由と普遍性の哲学 西研     〇
監獄の誕生     Mフーコー  〇
ハンナ・アレント  川崎修    〇
戦争倫理学     加藤尚武   〇
新・戦争論     笠井潔    ▲
ひとびとの精神史6巻 杉田敦   ▲
市民社会と理念の解体 小坂修平  〇
戦後保守党史    冨森叡児   ▲
ナチズム      村瀬興雄   ▲
ロシア革命     池田嘉郎   ▲
世界史の構造    柄谷行人   〇
虹の鳥       目取真俊   〇
ザイム真理教    森永卓郎   〇
書いてはいけない  森永卓郎   〇
創造と狂気の歴史  松本卓也   〇
昭和を送る     中井久夫   〇
統合失調症をほどく 中井久夫   〇
統合失調症と暮らす 中井久夫   〇
統合失調症は癒える 中井久夫   〇
ー以上、自習読書。
東アジア反日武装戦線50周年講演会 太田昌国&望月至高
(関連書籍、資料の読み込み)
市民政治パーティー講演
ー以上、イベント。
論考単品ものは、除いている。
昨年と比べ、洋物と古典が減った。
哲学鈍行列車は、若手の希望優先での選書。一回読み切り。
若手の関心と書き手のチェックにはいい。
自習図書は、時事ネタと精神医療改革に引きずられているので、ランダム。
来年の主眼は、洋物、サンデルとアメリカ政治、メルロ・ポンティ、ネグリ・ハート、ポール・メイソンあたりが決まっており、70以降の思想を相変わらずノタリノタリかな。
個人的テーマは、
第一に、人権論=ロック、カント、ルソー、アレント
第二に、精神病院の解体、精神病患者解放の「政治」活動の模索。
 
竹田さんの指定本が何になるのか、それにもよるなー。
まともな論文を5年ぶりに一本ぐらい書かないといかんとも思う。
もう根気もPC打つ体力もなくなって、どうなることか。
皆さんもよいお年を❣
 
 
 

既存メディア=TBS「報道特集」がSNSデマに敗北したことを、なぜ裏づけたか❣


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TBS「報道特集」(2024.12.25)が、SNSによる斎藤元彦勝利という「デマ」選挙に反撃。
コンパクトにまとめられた佳い映像だが、私に言わせれば遅きに失する。
つまり、斉藤陣営の公選法違反と愚民選挙を暴いてはいるが、ほぼ証拠や、証言や、空気の流れが確定した段階で報道されているにすぎず、決してSNSの評価を相対化できているわけではないのである。
 SNSの「デマ」拡散に、既存メディアの遅滞性が敗北していることであって、これは識者が安全パイを握ってから保身の中で発言するというポジション保持に起因している。既存メディアのこうした批評性の劣化が招いているといえるだろう。
愚民のデマには、必ず先導者がいて、権力や行政が旗を掲げない限り、彼らがやたら動き出すことはほぼ無いのがデマ事件のパターンである。今回もまさにその典型的パターンであろう。
既存メディアのやるべきは、即応性の確立である。
ニューヨークタイムスでは、トランプの討論会で、その都度トランプのデマを討論中に潰していった。
報道特集」も、結局フリーの智大氏や無名の(私などは善く知っているが)物書きに、ソースの発掘は頼っていることがよく見える。
報道特集は、ちゃんと智大氏のようなフリーを出演させて、ジャーナリズムの著作権を守っている点で、立派である)
無名の愚民を補足できるのは、無名のジャーナリストたちであり、彼らのスピードが既存の情報空間を変質させている。
真偽については四六時中現地に入るばかりか、最大の武器は全国に散在する無名の当事者からのリアルタイムのファクトを手中にできるからだ。
既存メディアのように、記者が特権化した記者会見だけで記事を書いているわけではないのだ。
すなわち、デマ愚民に即応して瞬時にデマを追撃し、撃破しているのは、こうした無名のフリーランスたちなのだ。
(もちろんデマでもいいからといい加減に報じているわけではない)
ただフリーには、糊口をしのぐために、極端な無意味なパフォーマンスに堕ちっていて、質の悪い連中もいるので注意が必要ではある。
TBSはよくやったが、これからが大事だろう。
本来は、選挙期間中に、デマを撃ち、総務省見解が出る前に、選挙違反が発生していることを、精力的に報じるべきであった。
この反省がなければ、再び既存メディアは敗北をし続けるだろう。
この報道の内容そのものについては、時間が無くなったので改めて検証しよう。

面会を自由にする権利を認めようー精神病院の面会制限は人権侵害である❣

現在私たちは、喫緊の課題として、精神病院の入院患者にスマホを持たせよう、という運動を開始している。

院内の閉鎖性が依然として続くなかで、滝山病院ほか多くの病院の虐待事件が起きた。開放性をすすめ、患者の社会的関係性を維持するためにもスマホは大切なツールとなる。さしたる理由もなく多くの病院が禁止している。解禁した病院では、特に問題も起らず、家族や友人とコミュニケーションが取れて、本人の自己治癒にも大きな力を与えていると報告されている。

なによりも、院内の虐待がスマホによって防止できることは明かになっている。この度の法改正によって、虐待に関して「通報の義務化」が規定された。それを実効性あるものにするためにも、ぜひスマホは必要なのだ。

多くの病院が必死の抵抗をし、医療関係者は些細なことを理由に黙殺している。

そして、いま一つ、下記の記事にあるように、病院なのに理由も定かでないまま、面会が制限されているのだ。なぜこうも日本の精神病院は閉鎖しようとするのだろうか。

病人でなくとも、家族、友人とのコミュニケーションを阻止されたら精神に変調をきたすだろう。患者を救済できるのは、病院にぶち込んだ外の私たちだけなのだ。

以下高木医師の話を拡散しましょう。

しゅんちゃんええぞ!【「面会制限やめよう」の投稿が炎上 それでも主張する医師の信念】小国綾子 毎日新聞 2024年12月25日

 コロナ禍以降、病院や施設で長く続く「面会制限」に対し、緩和を求めている医師がいる。京都市で約20年間、精神疾患の患者が病院ではなく地域で暮らせるよう、チームで訪問支援してきた精神科医、高木俊介さんだ。制限緩和が進まない背景に、日本社会のゼロリスク志向を指摘し、こう断言する。「面会は人権であり、ケアである!」【聞き手・小国綾子】

■全国の面会ルールを調べたら

 ――高木さんは全国の病院の面会ルールを調べ、SNS(ネット交流サービス)などで公表していますね。

 ◆医師や看護師ら仲間と、全国すべての大学病院について、公式ホームページを情報源に、それぞれの面会条件を調べました。多くがまだ「15分まで」「30分まで」といった時間制限や「2人まで」といった人数制限を採用していました。「週2回まで」など回数制限も散見されました。中には全面禁止の病院もありました。そして多くが食事禁止、マスク着用を掲げていました。コロナ前に戻して病院は極めて少数派です。次に、全国の日本赤十字病院も調べましたが、同じ傾向でした。

 そこで仲間とともに「コロナ後の医療・福祉・社会を考える会」を設立し、面会制限の緩和を求めて病院に働きかけようと計画しています。

精神科医だからこそ ――精神科医療が専門の高木さんが、なぜ、面会制限を問題視するのですか。

 ◆むしろ、精神科医だから、ですよ。この国で人を強制的に入院させる法律があるのは、精神疾患感染症だけです。歴史的に見ても、精神科病院を変えようという運動の中心には「病棟の開放化」と「通信・面会の自由」がありました。

高木さん(右)は精神障害者の雇用を目指し「京都・一乗寺ブリュワリー」を設立。また、農福連携のクラフトビール「ふぞろいの麦たち」の企画にも、松尾浩久さん(左)とともに関わった=京都市中京区で、川平愛撮影

 閉鎖的な精神科病院で虐待事件が繰り返し起きることから分かるように、外の目が入らないと患者のネグレクトや虐待が起きやすくなるのです。

 精神保健福祉法では、面会を制限した場合には、患者や家族などに理由を通知するとともに、病状に応じてできるだけ早く面会の機会を与えることが規定されています。しかし、法律に規定があってもなお、精神科病院の入院患者は外部と接触する機会を奪われがちです。今でも面会者が入れるのは面会室のみで、病棟には入れてもらえない病院が多いでしょう?

 ――そういえば、看護師らによる虐待事件が発覚した東京都八王子市の滝山病院もそうでしたね。

 ◆精神科医療における「通信・面会の自由」の運動の歴史を知っているからこそ、今なお続く「15分間」や「親族2人まで」のような面会制限が漫然と続くことの問題性を強く感じたのです。それで今年夏、SNSで「面会制限をやめよう」と投稿しました。すると「炎上」しました。多くは、「面会によってウイルスが持ち込まれたらどうするんだ」など、医療現場の医師や看護師からの反論でした。

 しかし、コロナ禍初期の面会禁止はやむを得なかったとしても、厚生労働省が面会確保を呼びかけ、コロナが感染症法上の5類に移行して久しい今なお、多くの病院で面会制限が続いているのは二つの点で問題だと思います。

■人権であり、ケアである

 ――どんな問題ですか。

 ◆一つは患者の人権問題です。親しい人との面会は大切な幸福権です。

 もっとも、「面会は人権だ」と言うと必ず、「入院患者が感染しない権利(健康権)を侵害するのか」という反論が起きるんですね。これでは人権と人権の闘いになってしまう。

新型コロナウイルスの感染防止のため病院の入り口には面会制限を知らせる紙が張ってあった=東京都杉並区で2020年4月10日、椋田佳代撮影(画像の一部を加工しています)

 しかし、お互いに「人権棒」で殴り合うようなことは無意味です。その時その時の状況に鑑みて、判断することが大切です。

 今のように感染が落ち着いている状況下では、家族や親しい人と自由に面会する幸福権が優先されるべきですし、また、面会が自由にできないことは「大事な人のために生きる」という動機を患者から奪い、ひいては患者の健康権をも侵しかねません。

 そして状況に応じた制限を行った場合には、患者と面会者にその理由と制限の期間が納得のいくように説明されねばなりません。人権を制限するという重大な行動に、手間ひまを惜しむようなことをしてはいけないのです。

■面会がケアとなる理由

 ――もう一つの問題とは?

 ◆それは、家族や親しい人との面会は、患者にとって「ケア」だということです。面会制限は、ケアの制限につながっています。

 親しい人との面会は、本人が「治りたい」と思う動機付けに欠かせません。また、入院によって突然社会から遮断された患者にとっては、家族や会社の同僚などとの面会で「俺はこの子たちの親なんだ」とか「この会社に必要とされているんだ」と感じることで、社会の中に自分の位置を保つことにつながります。治療法を誰かに相談することで、患者本人の気持ちに添った治療選択もできやすくなります。

 逆に、面会を制限されると、入院患者は治療方針について医師らの言いなりになってしまいがちなのです。これは家族も同じです。患者本人とじっくりと話し合う機会がないと、医師からの説明に「はい、はい」とうなずくしかない。その結果、医療者と当事者とがていねいに治療方針を決めていくプロセスが失われてしまいます。

 病院だけではありません。長期の面会禁止で介護施設入居者の認知機能が落ちたという話

コロナ禍で何度も聞きました。面会はそれ自体が「ケア」なんです。

■見え隠れする病院の本音

 ――高木さんの作成した全大学病院の面会ルールの一覧表を見ると、時間制限や人数制限のない病院がある一方、今でも面会原則禁止や「週1回まで」など厳しい制限を敷く病院もあります。このように対応が分かれているのは、なぜでしょう。

 ◆大多数の病院はコロナ禍に採用した面会ルールを見直すことなく、漫然と面会制限を続けているのだと思います。なぜなら実は「その方が楽」という側面もあるのではないでしょうか。面会は、医療従事者の仕事を増やしますから。家族の話を聞いたり、家族の意向を医師に伝えたり。面会制限の背景に、仕事を増やしたくないという病院側の本音もあると感じます。 そもそも、「家族のみ」という条件の科学的根拠は何なのでしょう。15分、30分という短時間で大切なコミュニケーションが取れるでしょうか。海外から一時帰国したのに、入院した家族に1日15分しか会えなかった、という話も聞きます。

 子どもの面会禁止は、親が我が子に会えないとか、高齢者が孫の顔を見られないとか、つらいルールです。「食事禁止」というルールにしてもそうです。病院食に食欲が湧かない患者でも、家族が思い出の詰まった食べ物を持ってきて一緒に食べることで、食欲を取り戻すこともあるのです。

 ――感染予防と面会との両立を模索し、オンライン面会を採用した病院や施設もありましたね。

 ◆まったく面会できないよりは、オンラインでも面会できた方がいい。しかし、オンラインには、やはり限界があると思います。ふれあいこそが大切だから。

 例えば、食欲がなく、食べられず、点滴で対応するしかない患者さんがいたとします。ここに家族が面会にやってきて、本人の好きな食べ物を家族の手で食べさせてあげる。これはパソコン画面で「食べなきゃダメよ」と家族が呼びかけるのとは全然違います。リアルな面会は、栄養管理という治療にだってなりえるのです。

「会えない」弊害はほかにも

 ――病院だけでなく、さまざまな施設でも面会制限が残っています。

 ◆例えば、障害者施設でも面会制限は大きな問題でした。特に知的障害の人のいる施設で面会や外出を制限した結果、それまでの生活リズムが崩れ、極端に閉じこもるようになったり、親と定期的に会えないことで大きなショックを受けてしまったり。家族との面会が生きがいのような人もたくさんいるので、そういう施設ではケアが大変だったそうです。「会えない」ことその弊害は本当に大きいのです。

 また、障害者の自立支援の現場でも、病院の面会制限によるダメージが今も続いています。病院に長期入院している筋ジストロフィーの人たちが地域で生活できるよう自立支援している団体があるのですが、その団体はコロナ以前は、入院先の病院に何度も面会に行き、外出や外泊を重ねながら、地域移行を支援していたのです。 ところがコロナ禍以降、多くの病院が面会を「家族のみ」に制限しています。そのため、支援活動がまったくできないままなのです。観光客でにぎわう東京・浅草の雷門前。マスクを外した人の姿も目立った=東京都台東区で2023年4月29日午後1時32分、幾島健太郎撮影

ロックダウンには終わりがあるが

 ――それは深刻ですね。一方、海外の病院ではとっくに面会制限などない、と指摘されています。

 ◆ええ。仲間がアメリカなど海外の事例についても調べてくれています。病院のスペースの問題で人数を「同時に2人まで」などと制限している例はあっても、コロナ禍の「面会制限」はとっくに解除されているようです。

 日本は海外のような厳しいロックダウンを経験しませんでした。それは良かったけれど、それゆえ「終わり」が見えなくなってしまった。法律によるロックダウンには終わりがありますが、日本の自主的な行動制限には終わりがないのです。

 日本だけで面会制限がだらだらと続いている一番の理由は、日本社会のありようによるものだと思います。

なぜ行動制限をやめられないのか ――どういうことですか。

 ◆コロナ前から、日本社会ではいわゆる「ゼロリスク志向」が強まっていました。「何かあったらどうするんだ?」と。そこにコロナ禍が起きた。だから日本社会では「弱者を守るため全員が我慢しろ」という空気が醸成されました。

 私はリベラル派を自認していますが、むしろリベラルな人たちの間で「ゼロリスク志向」が高かった印象があります。

 面会制限の問題についても、いわゆる人権問題に熱心に関わってきたリベラルな人たちの方が反応が悪いんです。むしろ「弱者を守るため全員が我慢すべきだ」と言う。善意や正義感で「ゼロコロナ」を求め、行動制限をむしろ求める人が多かったように感じます。

精神科医の高木俊介さん=京都市の「たかぎクリニック」で2024年11月23日、小国綾子撮影高木さんが設立した「京都・一乗寺ブリュワリー」の店舗の壁には「近寄ってみたら、みんなおかしい」という言葉が。社会が寛容になればどんな重い精神障害者も一緒に地域で生きていける、と高木さんは語る=京都市で2024年11月23日、小国綾子撮影

 行動制限をやめようと声を上げることは、弱者を危険にさらすことになってしまうと考え、なかなか声を上げられない。だから日本では、行動制限がいつまでも解除されなかったのではないでしょうか。

 もちろん、病院の安全は大事です。しかし、より大きな人間としての幸福や、社会のゆとりを失ってはならない。面会制限はやめるべきだと思います。

人物略歴

たかぎ・しゅんすけ 1957年生まれ。京都大医学部卒業。「精神分裂病」の病名を「統合失調症」へと変更するよう発案した。精神科病院や大学病院の勤務を経て、2004年、たかぎクリニックを開院し、重度の精神障害者の地域生活をチームで訪問支援するACT(包括型地域生活支援)を始める。また、精神障害者の雇用を目指し、クラフトビール醸造所「京都・一乗寺ブリュワリー」を設立した。現在同ブリュワリーの会長でもある。