激戦の地ダナン、米朝和解の地となることを祈る。

ダナン、この地名を聞いて私の信念に微妙な罅が入ったことを記憶している。アッと叫ぶ驚きだった。

米朝首脳会談の地に選ばれたのがダナン。

TVでは、素晴らしい保養地、ハイテク製造基地などと近代的都市だと紹介している。
ダナンが、ベトナム戦争北ベトナム南ベトナム政府との勝敗を分かつ目安とされた都市である。

たしか1968年だったと思うが、北ベトナムのテト(旧正月)攻勢の主要攻撃都市とされ、北ベトナムが占拠した。

勝利した北ベトナム軍が、路上で南ベトナム政府関係者から協力民間人・聖職者らを大々的に処刑していった。

米兵や南ベトナム軍と同様の残虐さで、後頭部に次々に銃弾を撃ち込んだ。
その処刑写真は世界に配信され、私はそれまで心情的に植民者米国と闘う北ベトナム政府・南ベトナム民族解放戦線を支持していた。
それは高度のモラルと美しいベトナム像を伴って。

しかし、あとで、北ベトナム軍が南ベトナム政府協力者リストを事前に用意し、路上で罪状を読み上げるとその場で処刑を実施したということ知った。

戦争は共におなじような残虐なことをするものだ、国家単位でどちらが善かといった、幼稚な青春期のロマンチシズムを自分で懐疑し始めた端緒になった。

おそらく当時の学生としては、高校時代のベトナム反戦活動のおかげで、ベトナムの歴史にはかなり精通していた方だったと思う。
ダナン、この地名をきくと私の青春の不安定さや孤絶を思い返す。

TV制作の今の現役世代は、ダナンがベトナム戦争の熾烈な戦場であったことを知らないのだ。

その後、米軍と南ベトナム政府が制圧され、北ベトナム社会主義に恐怖した多くのベトナム人がボートビープルとなって脱出し、米国へ渡った。

私はなぜか北ベトナムの独立を正当なものだと思いながらも、個人的な心情としては、ボートピープルに心がうたれた。

サラリーマンを始めた頃、レコードなどめった買ったことはなかった私は、ドーナツ版買って欝欝と何度も聴いた。
それがカーン・リーの『美しい昔』だ。それから私のカラオケ十八番となった。

ダナンが和解の地にならんことを。

 

【追記】後日の報道によると、結局首都ハノイに決定した。

辺野古住民の本音と複雑さーNHKでもいい取材をするではないか

辺野古の人々は米軍基地を建設にどう向き合ってきたのか。

一番大事な問題が、大文字の「辺野古基地建設問題」ではなかなか見えてこなかった。

NHKは、四か月の現地潜入取材から、建設反対派と推進派の取材を日常性の中にカメラを据えて、本音を活写している。

両者とも、実は⋯。

 

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統治者安倍総理の無知は、国民の無知でなければよいが⋯

適菜収tweet

安倍晋三ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、「どうだ」とばかり(に)たたきつけたものだ」 ↓ ポツダム宣言は7月26日。原爆投下はその後。義務教育レベルの知識がすっぽり抜け落ちているんですね。アレは。。。

 

 

このように適菜氏はtweetした。
このソースは、2015年『Voice』7月号のようだ。
 
この安倍総理の歴史無知というか、捏造歴史ばかり読んでいるため、頭が錯乱しているのかよく解らないが、政治家でしかも最高責任者の総理大臣が、これでは日本国民はどこへ連れていかれるのか本当に空恐ろしくなる。
 
ポツダム宣言、1945年7月26日 米英華3加国による宣言。
原爆投下広島、    8 月 6日
ソ連満州侵攻、             8日
    長崎、           9日
天皇終戦検討下達、    9日
 
の順序で歴史は進んだ。
ポツダム宣言は原爆投下より1ヵ月も前。
※なお、『奔』所収の拙著『日米安保と沖縄コメンタール』P46では、ポツダム宣言の日が、誤植で5月となっています、この場で7月26日に訂正させていただきます。
 
ちなみに沖縄守備隊壊滅にもかかわらず、本土決戦を継続していた天皇が、やっと終戦を決断するのは、8月9日。日にちとして原爆投下が原因のように思われているが、間違いである。
侍従長の日記から、8月8日のソ連宣戦布告満州侵攻を受けてと天皇が述べたと記している。
天皇がどれほど共産主義を怖れていたかである。
原爆投下には屁みたいなものだという認識でいた。それは1975年10月31日、記者会見で「原爆投下は広島市民には気の毒であったが、止むを得ないものであった」と述べている。
これが戦争遂行最高責任者のいいぐさかと呆れるが事実である。
 
 また、多くの国民が、ソ連が日ソ中立条約を破って侵攻したと国際条約違反を言い立てる者もいるが、それは昔の教育である。4月5日にはソ連から一方的に日ソ中立条約の不延長を通告されている。
 
少しでも政治に携わる者は、これくらいの知識は持っていないと、外交でつまずくことは必定だ。
事実、安倍総理は、四島返還から二島どころか主権はロシアに残したまま経済協力投資支援を行おうとしている。
日本の悲願である四島返還どころか、実質一島も帰らない可能性があるのである。
少なくとも、領土問題や外国人移民受け入れ問題というような、国柄に関わる問題は、しっかりした説明と論議をして欲しいものだ。いくら政権与党でも、選挙で何の公約ににもなっていないのだから。
 
他にも民主主義と統治の基本認識に重大な汚点となった、「立憲主義」が何たるかをしらなかったり、統治権者として失格だろうと思わせる「無知」ぶりは枚挙にいとまがない。
 
だが、この安倍総理ポツダム宣言の無知ぶりは、ご近所の人々、地域のシルバーセンターのご老人たちと話してみれば、日本人の平均的無知を代表しているともいえる。
安倍総理ひとりを責められないのが実態である。だからこういう低劣な政権が代表として選ばれているともいえるのであるが。
 
問題は、知らなかったことに、素直に知らなかったので、学びます、と言えばいいことなのだ。
 
日本人の、とくに現代史を学び損ねた大人たち用に筆者が発行している『奔』新春号では、「日米安保と沖縄コメンタール」を40頁にわたって特集している。次号へも続編を載せるのでさらに戦後史―特に少しなじみのない条約を中心にみていくように書かれている。とっつきにくいかもしれないが、専門書からのアガルマムとしているので、信憑性のあるものである。
 
安倍総理の無知を嗤うのは簡単だが、それが選挙民たる国民の平均的知性を形作っていると思うと、危機感はつのるのである。
 
筆者のこの記事で、もう一度戦後史を学んでみようと思った善良な国民の方には、次の本を紹介しておく。良書である。
 

立憲民主党は民意を尊重して政権獲得統一戦線を形成する責任がある。

立民党のサークル的仲良し体質を厳しく指摘してきた。

小池百合子に排除されたくらいで、いじけて、仲良しクラブに安心している場合ではないのだ。

あの程度の政治抗争で、数の論理にこりごりだという傲慢さ。
国民の期待に見向きもしない。
国民の税金をもらっている重責より、己のプライドや、傷つきたくない優等生体質は、安倍政権を放免しているのだ。

傷ついても、選挙に落ちても、安倍打倒の戦略を提示するのが、野党第一会派の責務ではないか。

わたしは、島泰三の『安田講堂』(中公新書)を以前読んで感動し、東大闘争の質的革命性を改めて理解したものだ。

島は、本郷学生隊長として安田講堂に立てこもった当事者らしい。
この書でなにを驚いたかというと、東大生がストライキ権を確立するために、実に誠実に、地道に、クラス討議をへて多数派工作をおこなっているのである。

各クラスの決議数まで検証しているが、実に素晴らしい民主主義である。

世間的には、少数の暴力学生が勝手にやったたことになっているが、闘争の基盤は、クラス討議を重ね、多数派を形成しているのである。
自分のコミュニティーで、少なくとも合意形成を作り上げていることである。

ついでに紹介しておくと、島は八番館の共産党によるバリケード解除の暴力部隊(何の決議も経ていないという意味で)が、機動隊と同時並行して襲っていることを証言している。
最首悟らが徹底抗戦で撃退している。これを知って少し最首悟を見直したものだ(笑)。

立民党は、極めてセクト的である。
ハリネズミのように優等生的である。
知的大衆は立民党を支持するようだが、それゆえに戦後民主主義派の大衆の中での上滑りと、権力基盤の形成に失敗しているように思う。
自分と同じことを言わなければ、ダメダと思っているようでは政治家失格だろう。

地方をみてみたまえ、
自民党JC・利権団体と創価学会共産党系団体しかないではないか。じつに厳しく汗をかくことが必要なエリアだ。

ここに立民党が闘わなくなった労組を持っていたとしても、何にも政治的に回転していない。

安倍政権は、民主党政権交代選挙敗北の得票数より更に120万票も減少しているのだ。
全国的には野党得票数は自民党とほぼ同数であることからみても、民意の反映という点でみれば、明らかに野党の怠慢と責任は明らかであろう。

政権交代しても、公約の半数もできればいいところだと思っておけばいいのだ。
それは元民主党政権が、今の時代では左派政権などといってもその程度だと証明したのだから。
唯一、安倍と安倍的政治手法(新自由主義とそのアリバイとしての復古主義)だけは除去できれば、今の議員の質からみて上出来だろう。

添田馨著『クリティカル=ライン』は現代詩批評の高峰だ!

添田馨著『クリティカル=ライン』をやっと落手。
とても美しい装丁で好感がもてる。

目次をみるだけで、書の密度がずっしりと伝わる。
今は流行りの「すごーい」が思わず口をつく。

目につくところをさっと読んでみるが、難しい。
まさに詩人なんだろう、ことばの魔術師というべきか。
わたしのような社会科学あがりの者にすると、ことばの意味を消化していくのにとても骨が折れるが、ひとつの表象を鮮明にして、胸に深く刻むとはこういうことなのだろうなと改めて魅了される。
いや、こんな結論めいたことを言えるほどまだ読みこなしていないから、ことばのシャワーに圧倒されているといったほうが的確だろう。

吉本隆明原発論は、とても頷けるものだった。
ほとんど同意できるものだ。

吉本の異論を正確に意味を咀嚼されておりながら、しかしどこかで、あまりに原理的すぎて、反原発の庶民感覚、デモの人々に寄り添っていないのではないかと疑問も吐露している。

この辺りも優しい人なのだなと感心した。
おそらくこんなナイーブな感受性をもった添田さんは、社会運動や政治運動で、ドロまみれになって、憎悪と不信の訣別や暴力の磁場を経験したことはないのだろうとも思えた。
外れていたら申し訳ないので訂正する。

わたしも震災直後に少し長めの吉本原発論を書き留めた。
瀬尾育夫の言語論に幻惑されて、書きはしたが自分で納得できなくて某詩誌掲載後、今はお蔵入りにしている。
添田さんの説明で蒙を啓かれた思いだ。わたしは、ベンヤミンやハイディガーの言語論にうとく、そちらに引っ張られすぎてて混乱した。吉本言語論に素直に沿っていった方がよかったことを教えられた。

その後も吉本の生涯の核問題を、わたしのように引っ張り出して実証的に論じたものはないように思う。

なかでも、敗戦直後に書いた『詩と科学の問題』を押さえた論考は、瀬尾と築山登美夫ぐらいだったと記憶する。

この短いコメント『詩と科学』が重要なのは、吉本の原点であり、この核を含む野放図な科学に人間が逆襲されるだろうという直感は、吉本の原点を印したものだからだ。決して近代科学主義者ではない。

また、核のふたつの『異論』より、ストレートに語られているのは『情況への発言』で、本音でストレートだ。
これらを読めば吉本が原発推進論者でもなく、原発と彼なりの「今のところ」安全のようだから、それなりに付き合うしかないという微妙なニュアンスを含みつつ、
・安全への極限の対策がない限り原発はダメ
・推進/廃棄ともにイデオロギーである限りではどちらにもくみさない。(事故の4〜5年前のこと)
・その判断は、四つか五つの次元の違うレイヤーを総合化する必要がある。(レイヤーを列挙している)
・今の原発は事故を起こす場合もある。その時は住民救済はこのようにすべきだ(補償問題などいくつか挙げている)。

これらを押さえると、添田さんが吉本は「原理的」にすぎるという言い方も解り、また「状況論的」には納得もできるのではないか。決して「原理的」だけでもないのだ。

吉本は、事故直後の感想として、これだけ近い場所なのに、なぜか情報というか全身で感受できるようなものがなく、遠い処の出来事であるような感覚に戸惑ったといっているが、これは
理解できる。
関西にいると、特にそれは感じた。
わたしたちは、それ以前の阪神大震災の方がリアリティーがあり、意地悪くいえば、あの時東京の連中はこれほど震災を親身に語ったのかと訊きたい。

原発事故が加わったことがより深刻なものにしたことは解る。
しかし、ともに地方と都市の問題を抱えて、都市は繁栄してきた。原発電力もしかりである。

長くなるので結論をいうとこういうことだ。
吉本の反原発デモが一種のファッショ的意味をおびるよという意味は、
現象的には、反原発派が地元推進派を叩き、正義はわれらにあるというが、
では地元の復興を早くするための補助金が欲しいという対立を解消できるのか。

原発誘致のときも、都会と同じような豊かな生活を望んだ結果だっただろう。それをわたしたちは黙認してきた。

震災地の地方の人々が、相変わらず都会と同じように豊に暮らしたいという望みを、「倫理的」に「あきらめなはれ」といえるかどうか。
もちろんでは再び原発推進をやろうということではない。
ではないが、反原発派の不安感情と「倫理」で、被災地や地方は都会より貧しくあれ、「正義」のために「悪」を止めろと断定してしまっていいのか。

すなわち反原発派の思想のなかに、こうした地方・被災地の人々をも包摂する「原理的」思想が組み込まれているのか。

わたしたちが、「悪」だと決めつけたものへの「正義」の対抗的運動だけで解決するほど、素朴で単純な世界に生きてはいないのではないか。

これは原発の抱える多岐にわたる複雑な問題ばかりだが、根底にある原発反対は、推進論を原理的に包摂できるか、という思想の問題である。

 

情況論でしか思考しない多くの反原発派に、解り易くいえば、「倫理」を政治過程として落とし込むなら、原発は止める、だけど原発現地には、向う何年かの補助金に代わる廃止支援金を配慮せよ、その間に代替え産業を国家を挙げて育成しよう、というスローガンがなぜ出てこないのかという意味だ。こういうことを言うのはわたしぐらいのもので、即原発廃止派は自分達の意見に同調しなければ単純に推進派のレッテルを貼って叩くだけである。

 

「倫理」の善悪正義論で混乱しているのは、課題山積みのなかで、現地住民の分断を結果させているだけである。

都市と地方、被災者同士の分断、被曝者同士の分断を生み出している。

わたしたちは、誰もが本当なら原発は止めたい、できればなくてもいい、と思いながらも被曝現地が推進に向かうことを、「だめな人達」ど叩くだけでいいのか。


わたしが、惑いながらもそんな風に考えている。『クリティカル=ライン』は、おそらく今の詩人の最高峰なのだろうことは、門外漢のわたしにも直感できる。

多くのひとの精読により、多くの論議を期待し、わたしもその環に加わりたいと思った。

東大安田講堂決戦の日があった⋯1969年1月18,19日

何を思ったのか、読売テレビ辛坊治郎が、東大闘争を報じた。

小熊英二がやはりコメンテーターとして、シャシャリでてきた。

この男の誤った事実認識が、カルチュラルスタディーとして流布されることを危惧してきたが

手っ取り早くマスコミはこの男を使うのだな。
「高度成長のひずみが出た」、
えー?
「最後は立てこもったり、逮捕されるものだといったことが運動だと思われてよくなかった」⋯
おいおい、そこかい(笑)

最首悟が、にやにやしながらステロタイプの解り易い話にしていた。82才になったと感慨深げ。

スタジオには元活動家田崎史郎がいて、
「世の中に何かしなければと思っていた。しかしあのやり方では世の中は変えられないと思ったので止めた。」
「それでこういう仕事になったのかもしれない。」
それは「良識」のある青年の反省だ。
そこまではいいとして、
自民党官邸から金をもらって、代弁に努めて、世の中変えているつもりか? 

普通の市井のしがない庶民として、
なお改革と「知」を手放さない生き方が、
元活動家には意外に難しかったのはなぜだ?

元活動家がそれぞれの分野で出世していったが、
小生はそれを倫理的にとやかくいわない。
どのような人生も自由だ。

良し悪しの基準は、「知」を手放さなかったか、それだけだ。
その意味で、山本義隆は、全共闘のヒーロー(少ない典型)である。

「文徒」―今井照容氏の百田尚樹「日本国紀」批判蒐集が参考になる。

【記事】増刷するごとに内容が変わる百田尚樹「日本国紀」

百田尚樹のベストセラー「日本国紀」について、作家の中沢けい次のようにツイートしている。
百田尚樹『日本国紀』は増刷のたびに内容に改変を加えているそうだけど。昔の活版印刷だったら、とっくに経費で会社がおかしくなっている。40年前、写植印刷の芸誌なんて信用できないって言われた。その頃、写植を使っていた芸誌は『群像』だけ。あとは活版印刷。本物の活字だと版そのものを作りなお(さ)なければならない事態が生じる場合もある。経費増大。電算写植からDTPへ。それだけ印刷にかかる費用も手間も安価になった。今頃になって『写植の印刷なんて信用できない』って言われた理由が分かった気がして苦笑。こんな事態を考えていたわけではないだろうけど」
https://twitter.com/kei_nakazawa/status/1069794217180848128
https://twitter.com/kei_nakazawa/status/1069795270810947584
例えば「ろだん」なる人物が主宰するブログ「論壇net」は「日本国紀」について言及したエントリを次々に公開している。
「【朗報】『日本国紀』、こっそり「男系」の誤りを認め修正」によれば初版では「日本には過去八人(十代)の女性天皇がいたが、全員が男系である。つまり父親が天皇である」とっていた表記が第4版では「日本には過去八人(十代)女性天皇がいたが、すべて男系である。つまり父親を辿ると必ず天皇に行き着く」と改められていたわけだが、「ろだん」によれば、この変更は百田が「公式に『男系』の定義が間違っていたことを認めたということ」になる。
https://rondan.net/5090
「論壇net」の「【速報】『日本国紀』、無断転載箇所を第5刷にて大幅改竄」は、次のように指摘している。
「まず、『日本国紀』(p. 53)にある仁徳天皇の逸話が、大阪新聞に掲載された真木嘉裕氏の意訳からの無断転載・改変であると報告されていました。本箇所について第5刷では、真木嘉裕氏の意訳を参照した旨が追記されました」
「またフランシスコ・ザビエルと、ルイス・フロイスを混同している箇所があり、加えて、その箇所も先行する日本語訳から無断転載している状態でした(pp. 149-150)。この箇所に至っては2ページにわたり大幅に書き改められました」
「ろだん」は版元たる幻冬舎の責任にも言及している。
「しかし幻冬舎の対応は極めて不誠実です。発売後わずか二週間(第1刷:2018.11.10、第5刷:2018.11.28)ほどで内容が改竄され、しかも現在書店では改竄前の第1刷から、改竄後の第5刷まで並んでいる状態です。通常ならば第1刷から第4刷までは回収・交換・返金するのが筋ではないでしょうか? 以上の件について幻冬舎は未だ沈黙を守っており、倫理的に問題があると考えます」
https://rondan.net/5459
「ろだん」は「【続報】『日本国紀』、第5刷で次々と改竄【ゴールデンブック、コミソテルソ】」では、こう指摘している。
「『日本国紀』第1刷(p. 379)の「ゴールデンブック」に関する記述が第5刷でごっそり改変されています。
この第1刷にある『ユダヤ人脱出に尽力した、樋口季一郎・安江仙弘・杉原千畝三者の名前がゴールデンブックなる記念碑に刻まれている』という記述が、これがWikipediaを中心に保守ブログなどで喧騒されてるだけのデマ情報であることは、刊行後かなり早い段階で指摘されていました。この指摘を受けての修正だと考えられますが、第一発見者であるHiroshi Matsuura氏への謝辞は『日本国紀』のどこを見ても確認されません」
https://rondan.net/5529
「ろだん」は追及の手を緩めない。「【悲報】『日本国紀』、第5刷でこっそり改竄するも、かえって重大なミスを犯してしまう」では、こう書いている。
百田尚樹『日本国紀』は、内容の錯誤のみならず、Wikipediaなどからの無断転載箇所が多数見つかり『日本コピペ紀』『日本ウィ紀』と揶揄されたり、こっそり重刷時に「改版」の指示なく内容まで書き換えてしまったりとお騒がせが続いています。
今回紹介したいのは、第5刷の時に書き替えられた『ゴールデンブック』の箇所が、かえって重大なミスを犯しているという指摘です
https://rondan.net/5628
更に「ろだん」は「【日本コピペ紀】長岡京Wikipediaコピペ疑惑」や「『日本国紀』、第5刷で慌てて改竄するも資料を熟読しなかったため再修正が必要に。第6刷以降で再び改竄か?【フランシスコ・ザビエル】」をエントリしている。
https://rondan.net/5657
https://rondan.net/5672
編集者兼ライターの「Yukinobu Muromachi」も版元の責任が問われていると考えているのだろう。
「これはヒドイ…。機械翻訳と批判されたアインシュタインの伝記本だって、出版社は自主回収して、訂正本を送ってきたぞ。幻冬舎がいかにダメな出版社か、よくわかる」
https://twitter.com/y_muromachi/status/1069216567534075905
能川元一のツイート。
「ちなみに『日本国紀』のような本に欠けているのも、歴史を構造的に把握するという姿勢。右派の歴史本が往々にして(特に人物に焦点を当てた)トリビア集みたいになるのはそのためだと思う」
https://twitter.com/nogawam/status/1069511634828189697
早川タダノリもツイートしていた。
「増刷で誤植の訂正にとどまらず内容を変えてしまうとは、『日本国紀』の『ウィ紀』化は本当だったとしか。今後同書から引用する際には、論中の出典URLを表記するときの『最終アクセス*年*月*日』みたいに、『最終アクセス第*刷』って入れるしかないじゃん」
https://twitter.com/hayakawa2600/status/1069164957567053825
当然、編集者にも責任があるはずだ。「日本国紀」の編集を担当としたのは有本香である。こんツイートも投稿されていた。
「有本さん、朝日新聞の”誤報・訂正ページの検索回避タグに関するお詫び記事”に対しては『この記事で納得しますか?』だの『単なる誤報の後処理と軽く見ないでください』だの啖呵切っといて、ご自分が関わった日本国紀の間違いに関しては、購入者に知らせもせず”こっそり”修正してても平気なんですねぇ」
https://twitter.com/ryuryukyu/status/1068361086204698624
作家の津原泰水も呟く。
「謝らずにこっそり直し続けるって業界初かも」
https://twitter.com/tsuharayasumi/status/1068466396277858304
五月書房新社の編集委員会委員長にして元朝日新聞記者の佐藤章のツイートである。
「価格をつけて出版市場に流れる『書籍』ー幻冬舎の『日本国紀』の帯に『私たちは何者なのか』とある。答えを与えよう。剽窃者、盗作者あるいは恥知らずである。無知なネトウヨならいざ知らず出版界にいる限り最低限やってはいけないことは知っていよう。最低線の責任は果たせ」
https://twitter.com/bSM2TC2coIKWrlM/status/1069539257767718912

 

(ソース)

https://teru0702.hatenablog.com/entry/2019/01/11/071837?fbclid=IwAR1_Wn3mVDPJIKH4YTi4tMDjeBnAy_6XDriGtPpBKzrZuAlxNtiVmFTDkqQ

 

【参考】

秦郁彦氏、『日本国紀』の意義を評価する(論壇net) 

https://rondan.net/11905?fbclid=IwAR2pFQtEZKCdDq5nIst5zlUZI4a04Z8mhbV_RPTxTTA6w_D6H-LHY2XPRGc

 

 


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