川勝知事の電撃辞任劇があほくさくて何も言う気がしなかったが、辞任となると勝手なことを独断でするなと怒り心頭にきた。
川勝の思考方法は、過去の失言から見るに世代的古さにまみれている。
二項対立からどっちが優位性があるか、ないしは弁証法的図式から、優位性を導くから、どうしても本質論ではなく状況論レベルでは単純に貶められる側が措定されてしまう。
この学者の「性癖」のようなものだ。
しかし、今回の新入社員の祝辞問題は、目くじら立てるほどのことではない。
私は当初から「弁護」論をツイートしてきた。
川勝が弁明したように、明らかに読売記者にここぞと切り取られた。
よく読めば、だらだら長たらしい比較・比喩の文脈は、職業の貴賤を述べたものではない。
「知性」がどこにかかるかは確かに、読みようによっては農業や酪農を小ばかにしているようにも「読めなくもない」。
しかし、県職員の頭脳労働者として、頭脳に磨きをかけるようアドバイスしたなかで、
職業的な本質を挙げているにすぎない。
そりゃそうだろう、新人職員に知的労働をないがしろにして、日々鳥の餌やりや、稲作やお茶の生育に励んでくれと言うバカはいないだろうし、川勝は明確にそのような肉体労働を勧めていない。
昨今の記者は、勉強不足だから、問題の真相へ錐を揉みこむことができなくなっており、このような軽薄な「言葉狩り」がスクープの主流になっている。
「知的」「知的労働」「肉体労働」などの語は、それ自体価値表象を伴っているが、同時に区別の単純な意味の場合もある。
例えば、統計のカテゴライズのように区別のための分類基準だけの場合もある。
新聞社は今回解釈したように、常に価値表象として「知性」を使い、区別だけの使用は一切ないのだろうか。私の経験上そんなことはない。
こうした言葉は、「文脈依存」的に規定されるのであって、どのような場合も無条件に「知性」>「肉体」という価値表現となるわけではない。
むしろそう直観してしまう「世俗的支配イデオロギー」の方が問題なのだ。
もしそうでないと言うなら、新聞社は、「知性」「知的」と置いたなら、反対に当該の群の対比群を無言に差別したと読み、抗議するからそのつもりいていただきたい。
なお報道でコメントを取ったのが、JR東海社長、群馬県知事、愛知県知事、長野県知事であったことが、川勝たたきの背景を如実にかたっていた。
そして、読売は保守メディア利権の急先鋒である。リニア利権派の露払いを果たしたのである。
新聞社は、吉村知事の「玉川徹万博出禁」発言を放置し、冗句扱いにして一緒に嗤っているが、権力がメディア規制の発言する方が民主主義の破壊にはもっと重大な問題だろうと思うのだがー。特定の個人名を挙げ、物理的に意のままにするぞと脅しをかけるえげつなさに、関西の記者たちはどれだけ執拗に追求しただろうか!
吉村知事はいつ辞めるのですか?