■(続)政治イデオロギーとしての奇兵隊−菅総理の誤認と類似


これは昨日(10月12日)のページ(http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20101012/1286845179)のつづきです。
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激しい内戦の末、慶応元年には長州藩は「侍敵」(武備恭順)へ一本化されていく。

晋作の倒幕派が藩政を握ってから奇兵隊どう変化したか。

晋作にとって問題は、奇兵隊が藩政への発言権を高めたことである。
創設したはいいが、奇兵隊が藩政の中枢へ食い込んでくることは、そのまま封建秩序を崩壊させていくことになる。

高杉は、国内規律も立て直したので、諸隊の中の「土民は農に帰り、商夫は飽商いを専ら」にすべきだと、佐世八十郎に手紙を書いている。
要するに、武士以外は外してしまえといっているのだ。
この佐世八十郎というのは、後の萩の乱を起こした前原一誠のことである。

前原は、干城隊のリーダーなのだが、晋作と同様八組の上級武士である。

さらに手紙ではホンネを吐いている。
「弟(晋作)も八組の士。
もとより八組の強き事を欲し候えば、やむをえず奇兵隊など思い立ち候事にござ候」。

「干城隊振興にあいなり候は、大幸の至り候」。

上級武士の干城隊を諸隊の指揮隊として、諸隊はその指揮下にいれよといっている。

そして、山口(当時の藩政地)に諸隊が集結し藩政への圧力となっているから、征伐軍に備えて藩内各地へ分散してしまえというのである。

しかし、晋作の封建秩序建て直しもうまくいかなかった。
諸隊は、「御親兵」と称して、山口へ強引に分隊を送りつけ、藩政への圧力と監視を強めた。

同じ八組の井上聞多(馨)は、晋作に「諸隊の兵、大いに驕り、統制すこぶる困難の事情ある」と手紙でぐちっている。

また、奇兵隊は外敵の危機に武士も庶民も一丸となって自発的に立ち上がったという尤もらしい風説があるが、これも捏造されたものだ。

実体は藩からの各村への強制的割り当てがあったというのが史実のようだ。
それは、庄屋の次男が多く入隊しているが、割り当てに困った庄屋がしぶしぶ自分の息子を差し出しているのが文書に残っている。(庄屋古川順三家の記録)

「庄屋は、当時の知識階級で、危機意識が高かったから自発的に参加が多かったのだとのもっともらしい解釈があるが、これはあくまで俗説にすぎない」と一坂氏は切って捨てる。

そして晋作は第二次長州征伐の最中に喀血し、慶応三年四月に下関にて病没する。

臨終間際、薄れる意識のなかで、「船はいずれへ着き候か。百姓の蜂起気にかかり、山口へただ今より出浮候」とのうわごとを残して逝ったと「楫取(かとり)家文書」には書き残されている。

建武士としての自意識と、自分が発掘した勃興してくる庶民エネルギーとの間で、戸惑っている晋作の姿が浮かび上がってくる。

これはちょうど今、菅直人が庶民出身をアビールしつつも、総理に上昇しきったときに、実は自分のなかの大卒の知識人で且つ又エリートであったという自己意識が、結局真から庶民の立場に立てなくなっていったことと非常によく似ている。

一旦トップの座につくと、戦後55年体制の中で確立した既得権益層に通じる自分と、政治的野心に利用した「庶民」との狭間で、方途を見失っている菅直人だ。

さて、晋作の亡き後、奇兵隊戊辰戦争で大きな働きをなして、山形有朋のもとで日本帝国陸軍のモデルとなっていく。

しかし一方で、論功行賞からも漏れて悲惨な末路をたどり、先に述べた前原一誠萩の乱など、封建武士団の崩壊への最後の抵抗の一端を担う。

明治二年十一月、藩は2000人ほどを常備軍として残し、3000人を解散する。

このときの論功行賞は、極めて不平等なもので、武士が優遇され庶民は容赦なく排除された。

そこで叛乱が起き「脱隊騒動」がおきるのだが、脱退兵1800のうち農民商人は1300を占めている。
かれらの多くは、農家の次男以下で家に帰っても田畑はなかった。瀬戸際の境遇が命懸けで戦う強い奇兵隊をつくったはずだ。

しかし用済みになった兵士に「賊」の烙印をおして、武力で鎮圧していく。
この明治3〜4年にかけて、「賊」とされた叛乱首謀者は厳罰に処せられ、刑死者だけでも100人を超えたと記録されている。

この処罰に納得いかない者は、刑場で暴れ喚(わめ)き抗議したが、、武士の役人は鉄棒でめった打ちにしてぐったりしたところで首を斬り落とした。
そして首級は晒された。

晋作が、結局封建武士としての自意識を解体できぬまま、庶民を政治的道具として処遇した思想は、こうして悲惨な奇兵隊史を残した。

晋作が四民平等を唱え、「人民軍」の奇兵隊を組織したといった、政治的イデオロギーに満ちた俗説は、いまや正しく書き換えられなければならない。

わたしたち全共闘世代も、司馬史観を信じ込み、そのように素朴にカッコいい存在として奉っていた。菅直人だけではないのだ。反省しなければならない。

司馬史観や後の日本近代史を全面的に肯定する史観が、俗説であるということをキチット認識しておかなければ、これからの時代を見通すときに、大きな過ちを犯すことになるだろう。

なお、一坂太郎氏の報告によれば、山口県庁の県外向け広報誌への寄稿を依頼された折、この奇兵隊の「脱隊騒動」について書いたところ、カットされてしまったそうである。

結局こうした歴史を捏造し、史実を隠蔽していくのは官僚役人なのだ。
明治も今も日本は根底のところで何も変わっていない。