日米安保と沖縄コメンタール 前篇(敗戦〜60年新安保条約) 望月至高著この稿は、前篇 敗戦〜60年新安保条約後編 72年沖縄復帰と日米安保この二篇で構成されている。あくまで法的構成をみていくもので、政治史ではない。■戦勝国の描く戦後秩序構想1941年於 大西洋上イギリス戦艦「プリンス・ウェールズ」時 1941年8月14日調印一、 両国は、領土その他の拡大を求めない。二、 両国は、当事国の国民が自由に表明した希望と一致しない領土の変更を臨まない。三、 両国は全ての民族が、自国の政治体制を選択する権利を尊重する。両国は、かつて強制的に奪われた主権と自治が、人々に返還されることを望む。四、 筆者省略五、 筆者省略六、 両国は、ナチスによる暴虐な独裁体制が最終的に破壊されたのち、すべての国民がそれぞれの国境内で安全に居住できるような、またすべての国の民族が恐怖と欠乏から解放されてその生命をまっとうできるような平和が確立されることを望む。七、 筆者省略八、 そのような平和は、すべての人々が妨害を受けることなく、公海・外洋を航行できるものでなければならない。両国は、世界のすべての国民が、現実的または精神的な理由から、武力の使用も放棄するようにならなければならないことを信じる。もしも陸・海・空の軍事力が、自国の国外へ侵略的脅威を与えるか、または与える可能性のある国によって使われ続けるなら、将来の平和は維持されない。そのため両国は、いっそう広く永久的な一般的安全保障制度(後の国連)が確立されるまでは、このような国の武装解除は不可欠であると信じる。両国はまた、平和を愛する諸国民のために、軍備の過重な負担を軽減するすべての実行可能な措置を助け、援助する。フランクリン・D・ルーズベルトこの調印がなされた時期は、ナチスドイツがヨーロッパ侵攻で連戦連勝の時期であり、日本開戦の四か月も前である。対ファシズム戦に勝利し、戦後の世界平和秩序を構想している点で、アングロサクソンの戦略性に驚くとともに、この時点でのリーダーの平和理念が極め1944年8月〜10月この提案は、翌年45年の国連憲章の原案になった極めて重要なもの。戦争の悲惨を骨身に感じていた世界の指導者が、高い理想主義的戦後世界を構想していたことが解る。ヨーロッパは一度ならずも二度も悲惨な戦火を経験し、崇高な平和理念を現実化しようとしていた。一般加盟国の場合は、独自に戦争をする権利を認めない、すなわち一般国家の戦争放棄である。戦争が認められる場合は、安全保障理事会(五カ国))が許可した地域安全保障の場合のみとする。安全保障理事会の五大国のみは、独自判断で加盟国から兵力を徴用し、軍事行動を行える。すなわち戦争の法的権利をすべて独占できるものとした。いわゆる世界の警察としての「国連軍」構想である。この構想は、現状の国家を超えて、いわば五大国の「世界政府」樹立を意味した。特に注目したいのは、この個別国家の交戦権剥奪と、五大国にコントロールされた「国連軍」の軍事的独占構想は、日本国憲法の九条に直接影響を与えている。2月3日。2月からは国連が初めて開催され、その2月3日には第1回国連安保理事会が開ま生かされると考えていたとしても自然なことのように思える。この事情を頭に置いて九条を読めばなんら不自然ではない。国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、いまや世界を動かしつつある崇高な理想にゆだねる。日本が陸海空軍をもつことは、今後も許可されることなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。国連軍創出のための国連軍事参謀委員会会合は1948年まで続いたが、米ソの対立で結局成果のないまま終了してしまった。結果九条二項は完全に宙吊りとなった。名前は聞いたことがあっても、宣言文を読んだことのある人は意外に少ない。わたしも50年ぶりに読んで、改め日本は世界の中で孤立し、普遍的理念を持ちえず敗北したのだと、思い知らされた。この敗北を抱きしめる勇気があるうちは、健全だ。現今のように政権が率先して敗北を否認するその行く先は、恐ろしいものがあると思っておかなければならない。二、 筆者省略三.立ち上がった世界の自由な人民の力に対する「ドイツ」国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対する先例をきわめて明白に示すものである。現在日本国に対する集結しつつある力は、抵抗する「ナチス」に対してもちいられたときに、すべての「ドイツ」国人民に土地、商業および生産様式を荒廃にいたらせた力に比べ、はかりしれないほど強大なものである。われわれの決意に指示されたわれわれの軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避かつ完全な壊滅を意味しており、また同時に日本国本土の完全な破壊を意味している。四、無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れた身勝手な軍国主義的助言者によって日本国はひきつづき支配されるのがよいか、また理性の道を日本国が歩むのがよいか、日本国が決める時が来た。五、筆者省略六、われわれは無責任な軍国主義が世界より駆逐されるまでは、平和と安全および正義の新しい秩序が実現できないことを主張する。したがって日本国の国民をだまし、彼らに世界征服の挙に出るという誤りを犯させた者の権力および勢力は、永久に排除されなければならない。七、そのような新しい秩序が建設され、また日本国の戦争遂行能力が破壊されるまでは、連合国の指定する日本国の領土内の諸地点は、ここで指示する基本的目的の達成を担保するため、連合国が占領するものとする。八、「カイロ」宣言の条項は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに、われわれの決定するいくつかの小島に限定される。九、筆者省略十、われわれは日本人を民族として奴隷化しようとしたり、または国民として滅亡させようとする意図をもっていない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられることになる。日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対するすべての障害を排除するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする。十一、筆者省略十二、前期の諸目的が達成され、かつ日本国民の自由に表明する意志に従い平和的傾向をもち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍はただちに日本国より撤退するものとする。十三、われわれは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつその行動における同政府の誠意について、適当かつ充分な保障を提出することを要求する。これ以外の道を日本国が選択した場合、迅速かつ完全な壊滅だけが待っている。■日本の終戦工作と沖縄ポツダム宣言も、世界秩序の理想と「普遍的理念」による日本再生を強く印象づける。そのため戦争責任者の懲罰と排除を明確にしている。一方、この理想主義が戦後修正されていくのだが悲劇的である。なかでも六、七、八条は、その後冷戦の開始にともない、日本の戦後に問題を残していく。六条は戦争犯罪者の政治社会復帰、七条は、占領から沖縄が抜け落ちて、植民地以下の、世界には類例のない米国軍事独裁統治が長く続く。八条は、沖縄を日本国から切り離し、「潜在主権」という法的トリックを用いてアメリカの施政権下に置いた。「潜在主権」とは、ダレスが法的に編みだした租借地のような、主権は残すがリース地域という意味である。このトリックで、沖縄県民の過酷な人権抑圧が平然と行われた。このことはまた後に詳述する。1945年2月14日、「近衛上奏文」という、天皇へ側近の近衛文麿が終戦を奏上した有名な文章だ。近衛は天皇に天皇制維持については心配ない、怖いのは敗戦ではなく共産革命であると述べ早期終戦をアドバイスしている。これに対して天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと終戦しない」と答えた。天皇も支配層も最も恐れていたのは、共産革命であり、国民の生命財産の破壊ではなかった。戦前、天皇制を否定したのは、ほとんどアナキストと共産主義者だけであり、昭和天皇と支配層が直接体験した1918年の元ロシア皇帝ニコライ二世と家族の処刑は恐怖以外のなにものでもなかったのである。これを裏付ける確定的な証拠は、8月6日の原爆投下を知っても決断せず、ソ連参戦の8月9日になってからである。前後した、戦果をあげて好条件で終戦を企図したい天皇は、沖縄を決戦場として激戦を敢行、日米ともに最大の戦死者を出していたが、ついに6月23日沖縄守備隊は壊滅。このとき沖縄県民は一三万人が犠牲となり内民間人は九万人、四人に一人が犠牲となった。45年7月12日、天皇はソ連に仲介依頼のため近衛文麿を特使を派遣することを決定、ヤルタ会談で既に対日参戦は確定していたのだが、そんなことは露ぞ知らぬ日本支配層は共産主義に恐怖しながらソ連に仲介させようとした。(日ソ不可侵条約があったためもある)。この時の天皇は沖縄の処遇に関して次のような認識を示した。「国土については、将来の再出発のことも考え、なるべく多く残すよう努力するが、最悪の場合、『固有本土』が残ればよしとする。沖縄、小笠原、樺太を捨て、千島は南半分が残ればよいとする」ということであった。■占領統治の開始1945年9月4日ポツダム宣言受諾による降伏文書調印を経て、GHQの占領統治が開始された。大きな政策は、真っ先におこなったものとして天皇の人間宣言と憲法制定であった。天皇の人間宣言は、民主主義を日本に移植するにあたって、GHQが天皇を国民コントロールのパペットとして利用するためであったということは定説である。天皇さえ押さえておけば国民は何でもいうことをきくとみなされていた。筆者の蒙昧を啓かれたのは、宣言文がGHQにより英文で提示されたものを翻訳したものだったということだ。しかも全国天皇行幸もGHQのアドバイスにより実施している。憲法については更に驚く。当時の衆議院憲法改正小委員会は秘密会で行われ、この議事録は1995年になって公開された。GHQが憲法草案を書く直前の1946年1月時点で、四六六人いた衆議院議員のうち三八一人(八二%)が公職追放となっており、憲法改正が審議された第九〇会帝国議会に向けた選挙には立候補できなかった。(増田弘『公職追放論』岩波書店)また護憲派によって評価されてきた民間団体「憲法研究会」の鈴木安蔵の民主的憲法案は、実は敗戦直後の1945年9月22日、GHQ対敵諜報部課長だったE・H・ノーマンの訪問を受け、新憲法の意向が伝えられていた。鈴木は「憲法問題の根本的検討の必要を痛感した」とのべている。憲法研究会での活動を開始する前に、すでにGHQ側の憲法に対する基本的な考えを把握していたことが、小関彰獨協大学名誉教授の研究によって明らかになっている。(『日本国憲法の誕生』岩波書店)」鈴木安蔵の憲法案が、日本人の作った極めて民主的憲法案で、これがGHQに影響を与えた、従って必ずしも押しつけ憲法でもないという日米合作説の根拠にされてきたが、事実は逆であった。戦後東大法学部教授の宮澤俊義は、民主憲法の権威として君臨した。占領政治が始まると丸山眞男らと東大内で憲法研究をしていたが、帝国憲法手直し程度のものだったようだ。GHQの憲法草案をみて驚愕として必死に意に添うように学説を作り変えていく。宮沢は天皇機関説の美濃部達吉の弟子でありながら、学的論理の反省もないまま、自然現象のごとく体制迎合をはかり「戦後民主主義者」の仮面をかぶった。宮沢は戦後を民主憲法の第一人者として栄達したのだった。これに対して美濃部達吉の学者としての偉大さはひときわ目をひく。次のように論じた。新憲法は、天皇の勅命により憲法草案が議会に提出され、天皇の裁可によって改正が成立することになる。しかし憲法前文では国民自らが制定するようになっていて、虚偽である。「民定憲法は国民代表会議を作ってそれに起案させ、最後の確定として国民投票にかけるのが適当と思う。現在のやりかたは虚偽であり、このような虚偽を憲法の冒頭にかかげることは国家として恥ずべことではないか」(1946年4月22日)。そして美濃部は枢密院の採決でひとり反対票を投じたのである。見事である。現在の安倍晋三首相は国会答弁で立憲主義を知らないことが判明して無知を批判されたが、憲法学主流派の学者もリベラル左派も日本は立憲主義だといいながら、実は憲法を書いた主体が誰かについては無頓着であり、論理的矛盾を指摘されれば内容がいいから誰が書いたかは二次的な問題にすぎないという。近代憲法は、民定憲法であるがゆえに立憲主義として存在しうるのである。権力に迎合した学説は、矛盾を抱えたまま、矛盾を問わないことで普及した。右派は立憲主義自体に無知であるばかりか、憲法は国民が時の政府執行権力を規制するものであるという近代法理論そのもへの無知によって、逆に政府執行権力が国民を拘束するものだと考えるから、政府の腐敗をチェックするジャーナリズムや国民を排除しようとする。なお、日本が1911年に批准したハーグ陸戦条約では、第四三条、占領者は絶対的な支障がないかぎり、占領地の現行法律を尊重する、と占領地の法律の尊重が規定されている。■世界秩序の形成占領後間もなくGHQの上に極東委員会が発足した。ソ連、中国が日本の占領統治に関与し、GHQは統治政策の内容を報告する義務を負った。そのためパペットとしての天皇温存をはかり憲法を速やかに制定すべくマッカーサーは、日本の戦後システムの完成を急いだ。もう一つは、1945年10月24日国際連合の「国連憲章」が発効した。こ「国連憲章」は、「大西洋憲章」を大幅に「値引き」した内容となり、特に国連軍構想は完全に消失し、新たに「集団的自衛権」が規定された。これは地域安定化のための相互防衛軍事同盟である。同盟国が攻撃されたら、一斉に他の同盟国が交戦を開始するというもの。安倍政権が実質解釈改憲で成し遂げた「集団的自衛権」は似て非なるものである。地域集団であるから抑止効果があるのであって、二国間では集団安全保障とならず、一方の戦争に巻き込まれる極めて危険なものである。なお、マッカーサーの憲法制定を国務省は知らず、アメリカ内部では日本統治、特に沖縄の扱いをめぐって国防省(統合参謀本部)と国務省の対立がみられた。すなわち、国務省は「大西洋憲章」「ポツダム宣言」に沿って、占領統治終了後は日本から軍を全面撤退させ、沖縄も返還させることを主張した。国防省は、日本の全土永久基地化、沖縄は分離米軍の独裁統治を主張し譲らなかった。これらを調整しながら世界の戦後秩序を形成した中心人物が国務長官ダレスであった。かれのキリスト教原理主義に立脚した世界観は強固な反共反ソ政策であり、ダレスの登場によって本格的な冷戦に突入する。日本は冷戦での反共防波堤の役目と、戦勝国からは米軍駐留によって再軍国主義と侵略の封じ込め対象国とされた。なお、国連=United Nationsは、「第二次大戦の戦勝国連合」の意味。これを単に「国連」とよぶのは日本と韓国だけである。第一〇三条国際連合加盟国において、この憲章にもとづく義務と、他のいずれかの国際協定に基づく義務とが抵触するときは、この憲章にもとづく義務が優先する。そして、今のところ国連を超える国際秩序は考えられていない。常任理事会(安保理)以外の一般国は、戦争を慎まなければならないと規定、軍事行動が許可される場合は常任理事会が承認する場合か、常任理事会自らが国連軍を組織した場合のみとされている。同時に次のような条文があることは、日本人は全員知っておくべきだろう。第五三条一項(後半)もっとも本条二に定める敵国のいずれに対する措置で、第一〇七条に従って規定されるもの、又その敵国における侵略政策の再現にそなえる地域的取決(地域的安全保障協定)において規定されるものは、関係政府の要請にもとづいてこの機構がその敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。第一〇七条この憲章のいかなる規定も、第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動で、その行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり、ま たは許可したものを無効にし、または排除するものではない。この意味は、日本の占領責任者アメリカ政府が、敵日本に占領施政でとった一連の措置を無効にしたり排除したりしない、と各国が合意しているというものである。すなわち第五三条とともに「敵国条項」といわれるもので、国連憲章は戦勝国の憲章であるから敗戦国日本には適用されないとしている。これらよって、日本は国際的に封じ込められている。沖縄と日本を未だに占領に毛の生えたような状態に置くタガとなっている重要な条文である。次に沖縄に直接影響する条文だが、長いので筆者要約で記しておく。七八条、国連加盟国となった国には信託統治制度は適用しない。八〇条 信託統治協定が結ばれるまでの間、関係国の法的権利はすべて現状維持のまま変更されない。八二条、沖縄は信託制度のなかの「戦略地区指定」とする。この「戦略地区」というのは、安保理の直接管轄として、信託統治協定が結ばれるまでは戦勝国責任政府(沖縄についてはアメリカ)が現状のまま法的権利を持つ、というもの。それによって太平洋の諸島や沖縄はアメリカの軍事利用を独占的に可能としたのである。なぜ「戦略地区指定」なのかというと、安保理管轄であるため、ソ連のクレームに対して拒否権を発動できたためである。問題は、日本が国連に加入する前も後もアメリカは一度も信託制度を申請せず、また日本が国連加盟後は、七八条によって加盟国は信託統治制度をみとめられないと規定、ここにアメリカの巧妙な沖縄支配が、サンフランシスコ平和条約とリンクさせて完成しているのである。巧まれた結果として復帰まで、沖縄は植民地以下の軍事独裁政権の下におかれることになった。■沖縄県民の法的地位終戦直後のGHQと日本政府によって、沖縄県民は植民地の人々と同様の登録が義務づけられた。また47年、天皇最後の詔勅「外国人登録令」が発令され、朝鮮、台湾人はいきなり「外国人」とされたが、ここに沖縄県民は含まれなかった。しかし「外国人」とされた台湾、朝鮮人は、自国へ立ち入り禁止とされ、同様に沖縄県民も沖縄県への立ち入りが禁じられた。そして51年、日本独立の講和条約三条で日本から切り離されて、外国人と同様の扱いの下、法務局で管理。翌年「南方事務連絡事務局設置法」により福岡法務局で出入国管理が行われるようになる。いわゆるパスポートが必要とされたのである。。日本の防衛問題は、アメリカの極東戦略のなかで規定されたことはいうまでもないのだが、アメリカ内部では必ずしも一枚岩ではなかった。マッカーサーは、沖縄を極東の軍事要塞化を前提に本土の駐留を継続することには否定的な考えを持っていた。天皇にも再軍備は危険であり、非武装中立が一番安全であると説得していた。「日本は東洋のスイスたれ」と周囲にも説いていた。占領が終結したら本土の軍隊はポツダム宣言どおり完全撤退を考えていた。しかし対日講和が論議され始めた頃、49年中国共産革命が成功し、翌50年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、沖縄永久使用・本土拠点基地化論に変化し、講和条件の絶対条件とした。ただしこの場合は、マッカーサーは国民投票を前提としていた。また国務省と国防省(統合参謀本部)の対立である。国務省は自由主義国策として、領土不拡大方針に沿って戦後世界秩序を主導しなければならない立場から、非武装化全面撤退で沖縄返還を考えていた。この対立を調整して、講和条約とその後の沖縄の地位を決定づけたのは、ダレスと昭和天皇である。天皇は恐怖感からひたすら反共防衛の駐留をアメリカに頼み、ダレスは法的根拠の制定を進めた。近年の研究で、天皇の発言と秘密交渉がアメリカ公文書から次々に判明した。シーボルトの記録である。首相吉田茂は、基地交渉は、借りる側からオファーし、貸す日本が持ち出すことではないと考えていた。また、中国革命と朝鮮戦争勃発で、日本の基地の重要性が高まっているという認識を持ちつつも、マッカーサーが既に本土拠点基地化に変化していることを知らず、従来のマッカーサーの意を受けた形で、「基地を貸したくない」と国会答弁で述べている。第二弾は「天皇の口頭メッセージ」といわれる次のようなものだった。講和条約、とりわけその詳細な取り決めに関する最終的な行動がとられる以前に、日本の国民を真に代表し、永続的で両国の利害にかなう講和問題の決着に向けて真の援助をもたらすことができる。このような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべきであろう。今度は日本政府もマッカーサーも頭越しであった。GHQ・日本政府とは別に天皇が二重外交を設定した。明らかに天皇の政治関与は憲法違反である。以後吉田とマッカーサーをバイパスすることで、天皇のマッカーサーの民主化(公職追放)政策への批判と、ダレスのマッカーサーの民主的占領政策の批判がみごとに同期し、反共のため人もシステムも、戦前復古路線へ向かわせるターニングポイントとなった。ありていに言えば、天皇は「反共防衛をアメリカにしっかりやって欲しい、そのためには公職追放を解除して戦前の天皇制イデオロギーをもった連中を登用して欲しい。そうすれば彼らは反共だし、日米の利益になる。吉田のように間違ったことを言わず、日本側から全土基地化をオファーすることができる。そのためには、反共意識の強い人々で諮問会議を設けよう」と提案したのである。マッカーサー・吉田に対抗する天皇とダレスの反共同盟が「闇ルート」として、講和問題だけでなく戦後の日米の二重外交による密約の初発となるものであった。翌51年4月、トルーマン大統領によってマッカーサーは電撃解任される。冷戦突入によって大西洋憲章、ポツダム宣言からの後退と、「日本の逆コース」の始まりとなった。ダレスの人脈は後の「ジャパンハンドラーズ」を形成し、日本の保守派への影響力を確保、利権を共有した。注意すべきは本来反共に対抗する自由主義は、全体主義や君主制となじまないものである。しかしダレスら反共主義者は、ついこの間敵として戦ったそれらを是認したことである。アメリカの自由主義が実はご都合主義であることを教える。従って普遍的理念の形をとっても、自国利益最大化のための自由主義であって、ソ連(スターリニズム)と相似をなしていた。なを、下って67年、沖縄返還交渉に入った佐藤首相とジョンソン大統領の会談をした折、佐藤は、天皇が沖縄返還によってアメリカの関与が低下することを懸念している、と述べている。この事実からも、天皇は沖縄を心配するより、本土防衛を優先的に考えていたことは明らかである。晩年1987年(昭和62年)、沖縄で開催される海邦国体出席直前に病に倒れ出席はかなわなかった。その折次の一首を残している。思わざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしをさすがに昭和天皇にも沖縄への仕打ちに忸怩たる思いがあったのではないか。(1)安保条約と行政協定安全保障条約は五条からなる簡単なものである。しかしとてつもない重い決め事である。前文(略)日本国に対する武力攻撃を阻止するために日本国内及びその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。(略)日本国が…平和と安全を増進すること以外に用いられるべき軍備をもつことを常に避けつつ、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸進的に自ら責任を負うことを期待する。日本が米軍駐留を希望した形がとられ、見事に昭和天皇とダレスの意向が結実した。また、傍線部分は、外敵と内乱に備え、日本は徐々に軍備を用意し日本が責任をもてと。第一条では、米軍の日本駐留は義務ではなく米側の「権利」と規定さている。したがって米側は、みずからの判断でいつでも「権利」放棄をして米軍を撤退させることができるのである。さらにこの米軍は、「日本国の安全に寄与するために使用することができる」のであって、ダレスが言うように安全を保障する義務を負ってはいない。しかし、他方において同じ米軍は、日本の「内乱」に介入し、「鎮圧」することができるのである。「ダレスがいうように」とは何のことか。「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障するいかなる条件上の義務も負っていない」と、発効まぢかの1952年1月号の『フォリン・アフェアーズ』誌上で述べていることを指している。権利というものは持っている方がいやなら権利行使(日本防衛)はしないというものである。第二条では、日本はアメリカの「同意」なしに「第三国」に、基地はもちろん軍隊の「通過の権利」もあたえてはならないことが規定されている。これによって、米軍による事実上の単独占領から単独駐留への「移行」が確認されたわけである。第三条では、米軍の配備を規律する「条件」が行政協定で決定されることが謳われている。52年2月に締結された行政協定では、基地を設置する地域を特定する規定(米比基地協定にさえ明記されている)が欠落した「全土基地化」の権利が米側に保証されている。さらに、(略)米軍には「治外法権」が保障されているのである。なお、米軍の駐留にかかる経費については日本は施設の提供以に「防衛分担金」を払わされることになったのである。第四条では、条約の有効期限について、国連やその他の安全保障措置が「効力を生じた」と日本ばかりではなく米政府も「認めた時」に失効すると規定されている。つまり、米側には、この安全保障条約によって日本を「無期限」に縛る権利が与えられているのである。第五条は、締結国と場所などを簡単に規定している。豊下楢彦氏は、「この安保条約は、以上みてきたようにダレスの最大の獲得目標であった『望むだけの軍隊を望むだけの場所に望む期間だけ駐留させる権利』を、文字通り米側に、〈保障〉した条約なのである。」と結論づけている。このなかで、第三条の規定する日米行政協定はさらに問題が多く、特に行政協定三条はアメリカ合衆国の五二番目の州を日本国内に設置したようにみえる。三条一項、合衆国は、施設および区域内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のため必要なまたは適当な権利、権力および権能を有する。合衆国は、また、前記の施設および区域に隣接する土地、領水および空間または前記の施設および区域の近傍において、それらの支持、防衛および管理のため前記の施設および区域への出入りの便を図るのに必要な権利、権力、および権能を有する。本状で許与される権利、権力および機能を施設および区域外で行使するに当っては、必要に応じ、合同委員会を通じて両政府間で協議しなければならない。60年安保条約改定後は「地位協定」と呼称が変わって現在にいたるが、占領期を踏襲した行政協定を再び設定している。新安保三条一項、合衆国は、施設および区域内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のため必要なすべての措置を執ることができる。日本国政府は、施設および区域の支持、警護および管理のため合衆国軍隊の施設および区域への出入りの便を図るため、合衆国軍隊の要請があったときは、合同委員会を通ずる両政府の協議の上で、それらの施設および区域に隣接し、またそれらの近傍の土地、領水および空間において、関係法令の範囲で必要な措置を執るものとする。合衆国も、また、合同委員会を通ずる両政府間の協議の上で前記の目的のため必要な措置を執ることができる。前半部分は、米軍基地内の絶対的権力を規定している。あまりに露骨な表現だということで、60年安保改定で文言の書き換えを行っている。つまり締結した日本政府自身が国民の批判を浴びると思っていたということだろう。後半部分の規定はさらにやっかいだ。「施設および区域」すなわち米軍基地の、「隣接する土地、領水、および空間」すなわち基地に隣接する日本のあらゆる空間を、「支持」すなわち軍事支援し、米軍の軍事行動のために出入りする絶対的な権利を保障します、と規定している。すなわち「治外法権」規定である。たとえば、横田空域という首都上空から富士山までの領空は、日本の航空機は侵入できない。オリンピックで羽田の発着便を増便したいが、そうすると横田空域の端をどうしても通過せざるを得ないため、米軍に申し入れしているが、現在までのところ許可は下りていない。しかし沖縄は更にひどく条約には関係なく、いつどこの土地へも、米軍がすきなようにブルドーザーをいれて基地を作ることができる。また沖縄は交通事故を起こした場合、必ず米軍側の立ち合いで現場検証をし、軍務中の場合と判断された場合は、警察は連行できない。などなど。こうした規定でなお米軍が支障を感じたときは、日米合同委員会で検討し、都合のいいようにどんどん法律を作っていこうと。それを70年間占領期と同様にやってきたわけである。なお、五条では基地間移動も自由に認めているため、「基地内は治外法権」、「基地外は軍務の場合は治外法権」ということになる。ありていにいえば、日本中自由に軍事行動してくれていいですよ、日本の法律はそれを万全にサポートします、といっているわけである。このような軍事条約はいまや世界で日本だけである。この交渉の時期、吉田首相は頻繁に昭和天皇に文書をもって説明の内奏をしている。マッカーサーの講和前までの完全撤退論に同調してきた吉田が、全土基地貸与論の締結に方向転換したことは解せない。おそらく昭和天皇の全土永久貸与論の「叱責」があってのことだったのではなかったのか。天皇の関与があったのなら憲法違反である。戦前の慣例のまま、吉田は臣下として天皇の注文に服従したのではないか。天皇のマッカーサー=吉田の頭越しの秘密外交での発言と活動から、共産主義の外からの侵攻と国民の内乱、天皇制の廃絶という単純化した恐怖感が大きかったと認められる。その点でも外交官のキャリアから、吉田はソ連が日本に侵攻してくるという単純な判断は持っておらず、天皇やダレスとは違っていた。(2)信託統治制度は詐欺的トリック第六条(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、かつ、いかなる場合にもその後九〇日以内に、日本国から撤退しなければならない。ただし、この規定は、一または二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として、双方の間に締結された、もしくは締結される二国間、もしくは多数国間の協定にもとづく、またその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐屯または駐留をさまたげるものではない。前半では、領土不拡大の原則とポツダム宣言の占領終了後の撤収を具現化しているようにみえる。しかし後段では、別個に軍事協定が結ばれた場合は駐留しても構わないとしている。いわゆる「三条地域」といわれる、単純にいえば、沖縄や小笠原など諸群島を国連の信託統治制度のもとにおくという提案がなされたら、日本は無条件で同意しなさい、という規定だ。信託統治制度は、領土不拡大の原則のもとに国連管理する。しかし信託制度の適用がない間は、戦勝責任国が現状のまま管理を継続できるとしているので、アメリカが軍事独裁統治することになる。しかもその場合、住民に対し「行政、立法、司法のすべての権力を行使できる権利をもつ」のである。信託制度が適用された場合は、将来の自治、独立のための福祉増進をはかることが義務付けられているが、軍事統制の場合の規定は何もない。アメリカは結局一度たりとも信託統治を提案しなかった。この法的トリックはダレスが巧妙に仕組んだ勝利であったといわれている。国連憲章はそれなりに平和への理想主義的理念を散りばめている。しかし先にみた「敵国条項」によって、「敵日本」への人権条項は全て適用除外とされている。沖縄はもっともかけ離れた法的にも現実的にも復帰までの二六年間「ディストピア」におかれたのであった。(とはいえ実際には復帰しても日本国憲法の適用はなされたが、ほとんど県民の日常生活は好転しなかった)ちなみに沖縄住民の様々な人権問題、例えばある日突然土地を徴用される、アメリカ軍属の住宅上空は危険なので軍用機は飛ばない、しかし日本の住宅密集地へは平気で飛ぶ。しかもしばしば墜落して死者のでる惨事を繰り返している。米兵のおびただしい少女も含めた強姦傷害殺人事件。終戦後間もない頃は、米兵が小銃をもって集団で毎夜毎夜女狩りを行った。抵抗する者はその場で射殺された。「切り捨てごめん」の完全な無法状態が続いた。ベトナム戦争中は、明日死ぬかもしれない米兵は荒れて、毎夜暴行事件を起こしても警察は見過ごすしかなかった。多発する人権問題は、国連へ訴えても、国連憲章の人権規定は効力を発揮できない。「敵国条項」は平和のために日本と最終合意した戦勝国アメリカの措置を、不都合だとして敗戦国日本の言い分を受け付けるわけにはいかないのである。現在国連は一般的な「琉球人」への人種差別問題として執り扱っているようだ。■講和条約・安保条約発効以後講和後も主権喪失に伴う沖縄県民の渡航の制限と戸籍喪失、沖縄在住者の外国での邦人保護規定除外、そして土地収用問題が依然続いた。講和条約は安保条約とセットであったが、沖縄には米軍事独裁統治が続いた。安保条約が発効すると本土の国民の生活過程に直接ひずみをもたらし、全国で激しい反基地闘争を巻き起こした。全国に展開する米軍基地へのデモ、住民訴訟、52年の保安隊発足、54年第5福竜丸事件(ビキニ岩礁の米軍水爆実験で漁民が被曝)、砂川基地住民闘争、57年ジェラード事件などが発生した。米軍も反米感情への配慮と軍再編の必要から海兵隊は核付きで沖縄へ移動することになった。このように本土では憲法下における人権や、表現の自由が保障されていたため、反米基地闘争が激化する一方で、沖縄へは米軍の移設が進み、人権抑圧と土地問題は深刻さを増していった。そんななかで沖縄が、自由と平和を守るためといいながら、軍事優先となって民主主義が全く機能していないことに日米両国民から大きな批判の動きが起きた。55年京大国際法教授の田畑茂二郎が正確な沖縄の地位を論述(「沖縄・小笠原帰属に関する法律問題」『ジュリスト』Ⅰ955・5・15)した。当時の下田条約局長が、沖縄は、日本帝国時代の中国関東州の租借地のようなものだと述べたが、それに対し田畑は次のように反論した。一、 中国に主権があった点で沖縄は租借地に類似している。二、 しかし、居住地住民は中国籍が認められ、中国人としての条約上の権利が保障されていたが、沖縄・小笠原住民には、日本国籍を認めた措置が取られておらず、従って米国が彼等を保護することが全然行われていない。三、 また、船舶の航行や停泊にも、租借地の場合のような条約上保障する措置がとられていない。四、 最大の問題は、租借地のように米国統治の期限が設けられていないことである。五、 一番の類似は、米国とパナマであるが、その条約でも最も違うのは、米国は損害の補償をせずして、土地の収用を行うことを禁ぜられている。だが沖縄は許されている。田畑は、こう論じて沖縄の法的根拠に対して根本的な疑問を呈したそして、大西洋憲章、カイロ宣言、ポツダム宣言にも生きている「領土不拡大の原則」に照らして、日本政府は連合国に対して正当で公正な要求をする必要があると結んでいる。翌56年日本は国連に加盟するとますます説明できない法的矛盾と、本土の反基地闘争と、沖縄の米兵犯罪多発などで激しい反米抗議がその後の安保改定と返還へ少なからぬ影響を及ぼした。■沖縄の土地収用問題戦時占領の継続状態であったので、米軍がどこへ基地を作っても、地料支払いも損害賠償支払いもなかった。農民の土地収奪は死活問題となった。農民の座りこみによる抵抗はしばしば起きたが、米軍は武装兵と戦車で蹴散らした。50年「琉球列島米国民政府に関する指令」が発せられた。土地所有権に関する裁判機構と談合の設定である。なんのことはない一応談合の形はとるが、応じなければ強制収容する点は何も変わらず、体裁をつくろったにすぎない。明らかに、米国憲法修正第五条「何人も正当な保障なく、私有する財産を公共の用のために徴収されない」に違反していた。またハーグ陸戦法規五二条の地料支払い、損害賠償支払いに違反、同四六条「私有財産ハコレヲ没スルコトを得ズ」に違反。批判と抵抗は激しさを増していった。講和条約発効後、1953年4月布告一〇九号土地収容令がでる。体裁は別として、実質は米軍の指定した土地は地主の意思に関係く権利を獲得できるものであった。この収用令がひどいとして、立法院は撤廃決議をおこなうと、お決まりの武装兵と戦車で強制収用を行い続けた。■「プライス勧告」と日本政府VS法務官僚56年沖縄代表団が渡米を許され、プライス議員の下院軍事委員会公聴会で土地問題を訴えた。これに対して、プライスは、54年1月のアイゼンハワー大統領の年頭教書「我々は沖縄における基地を無期限に維持する」を引用して、「軍事的必要性がすべてに優先する」と結論づけた。いわゆる「プライス勧告」である。沖縄人は日本人である。よって保護して住民の要望にそうよう努力しなければならない。この見解は横田喜三郎(東大教授)の法理論に依拠していた。国連憲章は、非自治地域(植民地)では統治国が住民の収奪を禁じている。したがって、アメリカはその原則で統治しなければならないが、同時に二条七項は内政干渉の権利を与えていない。注意喚起はいいが政府として公に改善要望をしたり押し付けたりするのは内政干渉となる、と解釈している。横田理論は、沖縄住民は存在が不確定だとすると、法的には無国籍者と認定せざるを得ない。政治的に未決定ということと、法的に未確定であることと同じことではない。講和条約の前も後も対人主権が事実上行使できないということであって、「沖縄島民の法的地位はきわめて明白である。すなわち沖縄島民は明確に日本国民」だと主張。であるから、アメリカ統治地域の沖縄住民は、在米日本人同様、外交保護権が行使されなければならない。しかも自発的に入国したわけではなく、父祖以来定住する島にアメリカの施政が勝手に及んできたわけで、しかも軍政である。「したがって日本国としては、在米日本国民に対するよりもより以上の重大な関心をもって沖縄島民の保護の責に任じなくてはならぬ」と外交保護権の行使を訴えた。そして平賀健太は結論として次のようにまとめている。「同胞が事実上いまなお占領状態から解放されずにいるという事態に目を掩うことはできない。」「政治的解決を図るにあたっては、沖縄の現実の事態が法的にいかなるものであるかを明確に把握しておく必要がある」と強調した。この約一週間後、鳩山一郎政権の内政干渉論に対して、法務省は「土地に関する法務省見解」を発表、ほぼ平賀論評に重なるものであった。画期的であったのは、「軍事的必要性がすべてに優先する」というプライス勧告への全面否定であり、政府のアメリカ追随と無責任を、正当な法理論で批判したものであった。さらに興味深いのは、東大法学部が、法的理論ではなく、政治従属的解釈の側にあるのは戦後一貫していると改めて認識できることである。また特筆すべきは、政府見解に毅然と法務省の一官僚が異論を公表する、そのスペッシュリティにおける知的誠実さである。なお平賀健太は裁判官となり、自衛隊基地訴訟については、原告住民側の訴訟却下を後輩にアドバイスしている。要するに反米愛国の真正ナショナリストの矜持とでもいうものだろう。現在沖縄基地問題に星条旗を振ってデモをし、アメリカと日本政府の支持を一方的に叫ぶ劣化したネトウヨではなかったのだ。「(米軍の)犯罪に対する処置が全部軍事裁判である。犯人の処置がどうなっているのかさっぱりわからぬ。これはある意味において治外法権であり、もう少し極端にいえば切り捨てごめん」だと酷評し、「沖縄においては軍事的に圧迫されておるから、いわゆる沈黙の抵抗以外にできませんが、それが日本に現れると、直ちに日本のナショナリズムを刺激する」と沖縄問題の位相を摘出している。いまの日本人で、沖縄の基地問題にどれほどの人がナショナルナな心情を痛めるだろうか。ほとんど無関心か、沖縄捨て石論または安全保障のためには「軍事優先」が当然と思っているのではないか。それは明らかに日本人の劣化というべきものだろう。さらに大橋は本質論を展開していうのである。■奄美群島返還と「スカイポリシー」さて朝鮮戦争休戦と講和条約の後、沖縄でも奄美でもますます住民の抗議活動は活発化していく。奄美大島では講和条約三条発効の52年4月28日を「奄美大島痛恨の日」と宣言。三条の無効化と復帰運動を激しく展開。沖縄でも瀬長亀次郎(人民党幹部・アメリカが最も恐れた男)らが、講和発効後も依然として戦時国際法規の軍事政権であると国連、アメリカ議会に調査団の派遣を要請した。折しも53年3月5日スターリンが死去し、フルシチョフのスターリン批判が出ると、アメリカ側に少し軟化の兆しがみられた。アメリカの軍事施政が共産主義者やアジアの民族主義国家指導者から、植民地主義だという宣伝材料を与える恐れがあり、印象を悪化する可能性があること、また奄美群島については沖縄程メリットがないので返還をする運びとなった。アメリカは、53年12月25日をもって奄美群島を放棄した。ただしクリスマスプレゼントだと喜べないのは、本土と同様治外法権の行政協定が適用されることになるにもかかわらず、それ以上の軍事活動の自由を日本が引き続き認める取り決めが、「秘密議事録」によって担保されていたのである。いわゆる「密約」である。しかしこの返還は、琉球弧の抑圧を世界の眼からそらし、日本人の九〇%が抱いていた反米意識の軽減を狙ったものであったから、沖縄人と奄美大島人には何の打開にもならなかった。むしろ、米国の無期限排他的軍事支配の枠組みを強化するものとなった。それは有名な「ブルースカイポリシー」といわれる次のような宣言である。つまり、空が青くなるまでは(共産主義の脅威がなくなるまでは)沖縄の返還はないという意味である。それが極東のみならず全世界の全地域に対象が拡大された。そして、54年1月アイゼンハワー大統領は、年頭教書において、「米国は沖縄の基地を無期限に維持する」と宣言したのだった。この宣言の重大さは、信託統治に推薦することをアメリカが放棄したことを意味した。また、56年日本が国連に加盟した段階では、国連憲章七八条「信託統治制度は、加盟国となった地域には適用しない」という規定との不整合をもたらし、ダレスのトリックは破綻した。法的根拠の破綻はその後の復帰運動の論点となっていった。なお、この奄美大島群島の返還は、沖縄と奄美大島の分断を意図したものでもあったので、問題を複雑化した。返還前の時代、奄美大島人は、鹿児島へは密航となるため職を求めて沖縄へ渡った。奄美大島は、「飢餓防止運動」がおこなわれるほど極貧であった。エンゲル係数は八〇%を超えた。復帰頃沖縄人口は七〇万人のうち奄美大島人は七万人で一〇%を占めていた。沖縄人は本土からは「土人」と差別されたが、沖縄人は奄美大島人をさらに差別した。この奄美大島返還と同時に、米民政府は在沖奄美大島人の一掃と人権剥奪を実施した。また公職からの追放、参政権剥奪、公務員受験資格剥奪、国費留学資格剥奪、銀行融資制限。公職追放では奄美出身の行政副主席立法院議長の泉有平、琉球銀行初代総裁、琉球開発金融公社総裁、琉球電電公社総裁などトップクラスの人材も追われた。権力内部でさえも、奄美出身の検察官でも二階級降格され、沖縄人と二割ぐらいの給与差を付けられた。この奄美大島人への抑圧は、沖縄人の米民政府への陳情によって実施されたものであることを知る人は少ない。「日本復帰と共に外国人となる大島人は一日たりとも、琉球政府や中央銀行の重要公務に携わらせる訳にはいかない、という如何にも割りきったやり方は、吾々には直ぐに真似ることはできないにしても、公私を微塵も混こうしない態度はある程度学んでよいのではないかと思う。(略)復帰後大島人は琉球政府の公務員にはなれない、というのは既に軍当局が明らかにしたことであって、最早これを問題にすべきものではない」。新規に規制するならまだしも、現職の生活を抱えた大島人を一斉に排除したのであった。丸山眞男ではないが、差別抑圧の移譲が、米軍事統制のもとに是認され、自ら分断を担った。■60年新安保条約の成立米空・陸・海の各戦争大学で教鞭をとったニコラス・サランティクスは、沖縄は植民地のなかでも「軍事植民地」であると規定している。57年から3年間沖縄総領事を務めたオルコット・デミングは、沖縄について「植民地主義も同然である。(略)植民地主義の哲学に世界中で最も強く反対する米国が、自ら外国の領域と住民を支配するということは異常である。」と覚書に書き記した。国務省内ではその後永きにわたり読み継がれた。日本の鳩山内閣は本気で日ソ国交正常化に取り組み、日ソ接近が急速に進んだ。また非武装中立の社会党が拮抗しており、アメリカは日本の中立化を危惧した。本土では相次ぐ反米基地闘争、57年1月にジェラード事件(群馬米軍基地で主婦を射殺した犯人ジェラードが微罪にすることを条件に日本への身柄引き渡しに米国が合意。執行猶予四年の微罪で釈放、92年密約であったことが発覚)が起きて反米感情が沸点に達し、10月はソ連が初の人工衛星に成功してソ連の威信は高まった。なかでも、58年那覇市長選挙で反米の旗手金次佐一が当選すると、アメリカは危機感を募らせた。ここに岸信介との安保改定の思惑が一致し、新安保条約への模索が始まった。満州国は自分の最高の作品だと嘯いていた岸は、A級戦犯釈放から首相に8年で駆け上り国権的ナショナリストとしての政策を掲げた。すなわち反共自由主義としてアメリカと安保条約を介して対等に立つこと。そのためにはアメリカから再三要求されていた軍事力を増大し、同時に再びアジアの盟主として協調しつつ君臨することであった。57年6月「防衛力整備計画」を策定し、陸自一八万人、海自一二万四千トン、空自一三〇〇機に増強を発表した。岸は、沖縄を含めた民主主義の強度を対等にすることではなく、あくまで反共軍事面での貢献をもって現行の安保条約と行政協定の条文上の双務性を確保しようとした。60年の改定安保を通常「新安保条約」といい、それまでのものと区別する。しかし現在は「新安保条約」が唯一の条約であるので「安保条約」といえば、「新安保条約」を指す。安保改定と復帰は混然一体となって複雑である。まず改定された新安保条約と地位協定をみて、後、沖縄復帰の関係を紐解いていく。なお、新安保条約と地位協定は、60年6月19日に野党と自民党反主流派の欠席のもとで強硬採決された。なお、岸内閣は、交渉前から、「ことばを少し変える程度」のものにすることを内諾していた。専門家による条約の要約のみを列記しておく。(昭和三五年六月二三日、条約六号)① 第一条、第五条、第七条で、安保条約が国連憲章の枠内で作られたことが示された。② 第二条で日本が「自由な諸制度を強化し」、「経済的協力を促進」すること、すなわち政治的・経済的協力を謳った。③ 第三条で、憲法の枠内での日本の防衛力の維持・発展を義務づけた。④ 第五条、米国の日本防衛義務と、日本の施政下において日本が米国(すなわち在日米軍)を守る義務を明確化した。⑤ 第六条で、日本及び極東の平和と安全のために米軍が日本の基地を使用できることを定めた。⑥ 第一〇条で、一〇年の固定期間経過後は、日米いずれかの通告により一年で失効するとの条約期限が設けられた。⑦ 旧安保条約に盛り込まれていた第三国条項と内乱条項が削除された。条約とは別に、「岸・ハーター交換公文」で、米軍の配備、装備の変更および「戦闘作戦行動」の基地使用の場合は、日本政府に事前協議することと拒否権を日本政府が持つことを確認した。また地位協定では、民事裁判権・請求権がNATOなみになる等、条約文上では改善が見られた。防衛分担金も廃止され、基地サポート費用だけとなった。「条約上」というのは、実際にはほとんど実行性がないものだからである。例えば「事前協議」は、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク攻撃など一度も事前協議はなかったというのが専門家の定説てある。核に至っては、密約によって核搭載艦船の寄港はフリーであった。しかも搭載艦船かどうかなど明らかにすること自体軍事上は論外である。さらに朝鮮有事の出撃は、事前協議の対象外と「朝鮮議事録」で密約が記録されている。条文上、煩わしい「事前協議」を米軍が受け入れた背景は、米軍統治の沖縄の存在があったからである。本土米軍が一旦沖縄基地を経由すれば、事前協議の対象ではなくなる。この件でも沖縄は本土の便利な「捨て石」であった。■新安保の評価と流布された俗説批判次に今でも評価が分かれている問題について。まず一つ目は、対等・平等に改定したという岸信介の評価があるが、反共自由主義陣営に日本を留めておきたいアメリカの基本戦略に沿って、日本が防衛整備拡大をする方向をとることは、安保条約のメリットを放棄するものであった。交渉結果をみるとどこにもパワーポリティツクスが働いていない。すなわち、アメリカの基地自由使用権はそのまま継続して、それまで日本の防衛を担保していた在日米軍は撤退して、そこを第一義的に日本が軍備増強して守る、これはパワーポリテックスからすれば対等でも平等でもない。アメリカは基地使用権が温存されたまま、日本側は防衛負担を抱えさせられたことになる。はやい話がアメリカの「基地ただ乗り」だろう。防衛の領域が明確化しただけで、アメリカの負担は何も増加していない。これは国権的ナショナリズムで条文上の「意匠」替えをしたに過ぎない。対等だというなら、基地自由使用権を縮小させるか、沖縄の返還を確保するとか、地位協定の治外法権撤廃をするとか、民権的ナショナリズムからくる国民生活の改善につながるものでなければ対等・平等ではなかったのである。二つ目は、米国の日本防衛義務だけが規定され、日本の米国防衛義務が規定されていない「片務的」なものだという見解である。日本はアメリカの「核の傘」により核保有国の脅威から守られているという「定説」がある。多くの米従属エリートと保守的な国民の常套句である。これはリアルな軍事に無知か、単なる信仰である。核爆弾の抑止は、地域紛争や極地戦では無効であるという単純な事実を見ていない。戦後の戦争は全て局地戦であり、規模の大きなものとして朝鮮戦争とベトナム戦争があったが、核爆弾は使用されなかった。日本の防衛の想定は基本的に局地戦としての「通常戦争」である。内乱と局地戦は日本が自主防衛する。同盟といってもアメリカは日本の局地戦に無条件に即応するわけではない。あくまで自国利益に従って憲法上議会の承認が必要となる。また核戦争の先制攻撃を受けたとき、日本は一瞬にして壊滅する可能性が高い。壊滅後にアメリカの報復攻撃があっても無意味である。またこの場合、アメリカは日本の敵国へ核の報復をする可能性は低い。なぜなら日本の敵国にはアメリカにとっては核の先制攻撃となるからである。その時は、核の全面戦争となってアメリカもほぼ壊滅する。特に原子力潜水艦の核ミサイル搭載が可能となってから、先制攻撃をして、敵国の陸上ミサイルシステムを壊滅しても、敵潜水艦からの核ミサイル発射によって、確実に自国は壊滅させられる。これが核時代の先制攻撃を無効にしているリアルな軍事なのである。従って現実には核爆弾は実際に使われず、特に局地戦である日本の敵国に対して、アメリカが報復戦で核爆弾を使用することは考えられない。従って、「アメリカの核の傘」に守られているという説はフィクションにすぎないのである。この言説は、アメリカ側の安保条約の過剰な権利を隠蔽する役割を担い、「基地ただ乗り」を糊塗して、日本防衛を一方的にするアメリカとアメリカを防衛しない日本という表象を形成した。結果「片務性」論として国民を迷妄に導いた。なぜこうした迷妄が俗説として普及したのか。岸内閣が倒れると、池田内閣は国民の政治性を薄めるため経済優先の「所得倍増計画」を目玉とした。この経済優先主義が成功し、国民生活が豊かになったのは、「非生産的な軍事支出を最小限にとどめて、ひたすら経済発展に励むことができた」という「安保効用論」を創作し、日米一体化の成果として安保体制を正当化した。また最大の輸出国であるアメリカとのパートナーシップを強調し、反米意識の低減を狙ったものであった。事実NHKの調査では、60年安保闘争前より二〇ポイント近く落ちて五〇%を割ったのである。当時の日本にとっては、本当の脅威は共産主義ではなく、アメリカとの関係に罅が入って、最大の市場を失くすことであったからである。アメリカの「お陰さま」論として国民には説得的に働いた。ただし何の恩恵も受けない沖縄を踏み台にして。一方アメリカにとっても、日本の軍事費負担が一定程度みられると、より広汎な財政負担へ要求がシフトし、日本はさまざまにうまみを引き出せる打ち出の小槌となっていた。ベトナム戦争は、基地の自由使用の特権とともに、兵站としての軍需物資の調達、野戦病院など効果を最大限に発揮したことでも証明された。この60年代半ばまでに、自衛隊の兵員は二四〇、〇〇〇、艦艇二〇〇隻、新鋭航空機九〇〇機を保有、これに対して本土のアメリカの兵員は約一五、〇〇〇、兵站部隊だけになった。これに伴い、沖縄駐留米兵は53年の二三、〇〇〇人が、約四〇、〇〇〇人と倍増している。沖縄は、本土とアメリカ双方の軽減に伴って負荷が増大するばかりとなった。(あとがき)この稿は研究書ではない。あくまで専門研究書を渉猟したアガルマムである。この稿を書く動機は、定年後地域のご老人たちとの交流があり、余りに自分達の生きてきた時代に無知であると痛感したためである。このように書くと、何を上から目線でと批判されそうだが、それは私の想像を超えていたのは事実である。思い起こせば、受験で日本史をとらなければ中学程度の大雑把な理解であり、日本史を選択したとしても、戦中戦後などは教師がほとんど教えなかったのだから無理からぬ話である。憲法も安保条約も読んだことがない人たちが圧倒的に多いのだ。同時にそれらに十分説明できない自分自身も同罪であって、自分の不勉強に腹立たしかった。手短に、サッと読んで大まかに理解できるコメンタールをまとめてみようと思い立ったのである。従ってこの稿が、老人や若者のカフェでの日常のお喋りに利用されることがあれば嬉しい。昭和の「戦後」から、大きく変質した平成までを、われわれの眼につきにくいところで為政者が何を決めてきたか、それによってわたしたちは何者になったのか。特に依然として「戦後」の負の遺産に苦しむ沖縄に焦点を合わせながら、歴然と客観的にわたしたちが拘束されている法の網の目を検証してみようと思った。個人史でいえば、わたしは昭和40年、高校二年生の時に、クラブ活動でベトナム反戦の雑誌を発行し、学内でささやかなベトナム反戦アピールを試みていた。当時はアメリカの激しいベトナム北爆で世界は騒然としていたので、時宜を得たものだった。この雑誌がどういう経由からか分からないが、当時のNHK教育テレビの眼にとまり、取材申し込みがきた。しかし高校生の政治活動を禁じていた学校側によって潰された。それも高教組の信頼していた教員たちが沈黙したのである。それ以降わたしはふて腐れ受験勉強を放棄、高三から司法試験を始め、学生の現役合格を目指した。入学後も法律解釈学に邁進し、一年生で憲法の論文を大学の研究誌に発表、稀有のことと若手教授たちに評価を得た。憲法学を修めると、どうしても九条の問題が大きなテーマとなる。学会の主流派は、今の護憲派の理論的背景になっているように、自衛隊は違憲、米軍基地は憲法違反、伊達判決支持、統治行為論による憲法判断忌避は否定、というものだった。そのなかで統治行為論だけは、日本国憲法の上位に条約を位置づけ、最高法規である憲法判断を放棄している点で、極めて論理的不整合を起こしている。つまり日米安保条約は憲法の上位法として存在し、米国の意思が日米合同委員会を介して超越的に国民を統治することを保障している。わたしはこれを知ってから、なーんだ法律では正義を実現できない、政治によっていかようにでもなるのかという、正しくも単純な考えにいたった。68年10月21日羽田弁天橋で、わたしと同年の山崎博昭は佐藤訪米阻止闘争で絶命。そのショックで学生運動に心情的に入って行った学友は多かった。しかしわたしはその時期憲法の論文を書き上げて、少し遅れて学生運動に係わる。論理的に詰め切った上の決断だった。半世紀を経て、加藤典洋の『戦後入門』(2015年)を読んでショックを受けた。わたしが学生時代に学んだ頃より情報公開が進み、学的進展がみられ、過去に置いてきた問題意識が沸々と甦ってきた。その頃のお粗末な情報では戦後のわたしたちの存在はまったく了解できないと痛感した。また安倍晋三政権の誕生から、法的運用の枠組みがガタガタと崩されていくのをみて危機感もつのった。今何が進行し、わたしたちは何処へ行こうとしているのか、それを見極めたい。そして安穏として生活保守に浸ってきたわたし自身への苛立ちは日増しに増大した。いわばこの稿は、安逸をむさぼり社会的コミットメントを怠ってきた懺悔録である。(参考文献)伊東祐史『戦後論』平凡社二〇一〇年岩沢雄司『国際条約集2018年版』加藤典洋『戦後入門』二〇一五年坂本一登『日本政治史の新地平』二〇一三年白井聡『「戦後」の墓碑銘』金曜日二〇一五年末波靖司『対米従属の正体』高文研二〇一二年新原昭治『日米「密約」外交と人民のたたかい』新日本出版社二〇〇九年福井紳一『戦後日本史』講談社α文庫二〇一五年孫崎 享『戦後史の正体』創元社二〇一二年矢部宏冶『日本はなぜ戦争ができる国になったのか』集英社インターナショナル二〇一六年山本章子『米国と日米安保条約改定』吉田書店二〇一七年矢部宏冶『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』書籍情報社
日米安保と沖縄コメンタール(下)前号では60年新安保条約締結までを述べた。後半は、70年安保条約自動延長と、72年沖縄返還までを条約を中心として見ていく。とはいっても60年以降の条約は大きな動きはなく、日米安保体制下のトラブルと国民の抗議行動を主旋律に展開した。即ち条約第6条を根拠に規定された日米地位協定によってもたらされた米軍の犯罪、土地収奪、事故、人権と生活環境の侵害、これらの国民の被害と抗議運動の激しさである。60年代は、冷戦の直中にあって、戦後処理としての日韓条約締結、ベトナム戦争のフランス敗退とアメリカ介入という情況が、反戦と自由と民主への希求を強くして世界的に大きなウェーブを興した。沖縄軍事独裁と米国傀儡韓国軍事政権の治世は非民主的問題として、また相次ぐ米軍の人権侵害として、それらへの抵抗運動が、ベトナム反戦運動への重要な環を形作った。沖縄復帰運動が激しさを増し、72年日本復帰に結実する。なお日米軍事同盟は、60年安保によって「基地貸与」にもかかわらず「日本防衛義務なし」という「片務性」を解消した。しかし積み残した問題を、平成の安倍政権によって解釈改憲と安保法制の強引な制定で最終的な仕上げがおこなわれたといえるだろう。ざっとおさらいをしておく。■60年安保改定と米国への従属60年安保改定時、岸内閣は、米軍支配下の沖縄・小笠原・グアムを日本の防衛範囲に入れる提案をした。この意図は、日本が集団的自衛権を準備し、それを行使する代わりに米軍の撤退を求めるという狙いであった。すなわち米軍を地理的概念を失くすことによって支援できれば、米軍は常駐する必要がなくなる。これに対して、アメリカのダレスは、冷戦下の憲法を改定して、集団的自衛権が行使できることが前提であると応じた。しかし基地撤去のみならず条約破棄を掲げて、国民の激しい抗議行動が広範に高まっている。岸政権は、条約の改定さえも危ぶまれる危機に陥っているなかで憲法改定どころではなかった。54年、嘉手納基地弾薬庫初の一九種類核爆弾持ち込み55年、ナッシュ報告書(米軍駐留国への原子兵器の持ち込みは自由でなければならず、また戦時に原子兵器使用に対しいかなる特別の禁止措置もとられないことが分かっていなければならない)鳩山一郎首相、本土核持ち込み容認発言伊江島核爆撃訓練地を強制収用、一三家族焼き討ちにする55年、沖縄、米兵による「ゆみ子ちゃん(六歳)強姦殺害事件」(「純真無垢な幼女が、一夜明ければ嘉手納海岸の砂浜に、狂暴な野獣の餌となり、草の葉を握りしめ、くちびるをかたくかんだまま無残なし体となって投げ出されていた。全く鬼畜の行為である。」、教職員組合抗議声明抜粋。事件詳細と沖縄性暴力殺傷犯罪については筆者『俳愚人blog』10年6月21日「米兵の強姦と殺傷」を参照)プライス勧告により、沖縄島ぐるみ闘争57年、ジラード事件(米兵が主婦を銃殺、密約裁判にかけ執行猶予つきにして米国へ逃がした)水戸市米軍機超低空飛行女性殺害事件(水戸米軍飛行場近くで、ふざけて超低空飛行をしたところ、女性の首と胴二つに切断され死亡。子息も重症。米兵は公務中扱いとされ裁判権を政府は放棄賠償金支払いのみ)立川基地拡張阻止砂川住民闘争58年、那覇市長選、初の反基地派市長当選米兵西部池袋線発砲乗客銃殺事件(走行列車へ向けて発砲、乗客学生死亡、犯人は国民の怒り沸騰のため公務中とできず裁判に、判決は禁錮一〇ヵ月と軽微)沖縄宮森小学校米軍ジェット爆撃機墜落事件(現うるま市宮森小学校へ墜落、一八人死亡(内小学生一二人)、二〇〇人以上が重軽傷を負う)これらは一握りで、沖縄も本土も米軍問題で騒然としていたのである。なかでも、米兵の婦女暴行事件の頻発はきりがなかった。こうした国民人権侵害の頻発に国民は強く条約廃棄のみならず軍事体制の撤廃を望み、反対闘争を展開した。いわゆる60年反安保闘争には、全国各地で述べ数百万人の反対行動があった。東京の有名な商店街の店主たちがシャッターを下ろしてこぞってデモに連日参加したという。こうした日本国民の反米反基地意識に危機感をもったのがマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)であった。彼は仏レジスレジスタンス運動を支援し、ヨーロッパの連合司令長官アイゼンハワーの外交顧問をした経歴をもつ有能な人物であった。彼は米国の利益は日本の「全土基地化、自由使用」にあるのであって、このままでは日本は「中立主義」ないし「非同盟主義」に向かう恐れがあると、ダレスの改憲条件を棚上げし、日米有事の協同対処という方向性での改定案を提起した。それによって、旧安保の不平等性を解消し相互防衛を実現し「片務性」を改善したのだった。が40年を経て、冷戦時代の感覚のままに、時代錯誤の首相が登場することによって、憲法解釈改憲と集団的自衛権の安保関連法が2015年制定されたわけである。ここに基地自由使用ばかりか、指揮権統一=米軍の下請けとして自衛隊が一体化した。世界の米軍は縮小撤退し駐留国の主権のもとに管理されているが、日本は二〇世紀型の国家間全面戦争を想定した防衛体制を敷き続けている。■60~70年、安保と沖縄返還へ攻防次にざっと70年までの政治情況を概観しておく。60年4月、沖縄祖国復帰協議会が結成された。自民党を除くオール沖縄の政党団体による。背景は、56年の米軍の大規模な「土地接収法」に対して「島ぐるみ闘争」が盛り上がっていた。本土でも初めて沖縄問題に関心が湧き、対米批判と返還論の政治動向が開始された。とはいえ本土では反安保闘争が大規模に展開されている時期であった。このとき安保という軍事同盟を問題にしていながら、社共のみならず全学連も沖縄解放がスローガンに入っていない。後全学連書記長島成郎は、沖縄が視野になかったと述懐している。いかに沖縄は遠い存在であったかを物語っている。61年政府、基地問題等関係閣僚懇談会設置。65年8月、佐藤首相沖縄訪問、戦後初の首相訪問であった。この時、那覇空港で佐藤はスピーチをした。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」。この年の暮、空母タイコンデロガが、沖縄沖で核爆弾搭載機を海に落下、パイロットと共に海の藻屑と消えた。核積載のまま横須賀へ一〇日間停泊。67年、佐藤訪米、ジョンソン大統領と両三年以内に返還を決定。小笠原諸島の施政権返還に合意、翌68年6月返還。68年11月、嘉手納基地離陸中B52大爆発事故。とにかく厄介なのは屋良選出後の沖縄の成り行きだ、沖縄ではきわめて急速にわれわれの問題が膨らみかねない。(略)沖縄返還の方式における新しい要素は、沖縄で始まりつつある返還に向けた圧力である。過去には、大物たち(米国と日本)が問題を処理し、沖縄の人間は両国の決定を素直に受け容れるというのがわれわれ自身と日本側の暗々裏の想定だった。だがこの想定は、もはや当てにならない。返還交渉への沖縄側の割り込みが二通りのやり方でなされうる。一つは扇動によるもので、それは米軍との公然たる衝突事件へと発展しかねない。もう一つは新行政主席屋良の大義にもとづく熱っぽい圧力を通じてだ。(新原昭治『日米密約外交と人民のたたかい』新日本出版)自民党と外務省はアメリカが手放すとは思えず、消極的であった。しかし佐藤は、政治的野心として、沖縄の戦略的価値を損なわず、極東の安全と返還は両立すると確信していた。返還を梃に日米の「イコール・パートナーシップ」をより強固にすること、国内的には社会党の勢力を削ぐ効果を狙った。また「アジアの盟主」たらんとして、66年、佐藤は東南アジア開発閣僚会議を開催し東南アジア諸国の歴訪に勤しんだ。こうした佐藤の復帰路線は、沖縄住民の解放ではなく、沖縄の軍事基地継続とその利用水準を維持することが狙いであった。したがって本土の基地は移設し、一層沖縄に集中することになった。安保条約と地位協定の適用がなされたが、それまでの沖縄の米軍使用権益を維持するためには、結局米国との密約を頻発せざるをえなかった。特に「非核三原則」に抵触する場合は全て「密約」によって従来の沖縄利用水準を保証した。それは本土持ち込みの場合にも効力を発揮したのである。国民に不都合は明らかにせず、基地撤去ではなく強化であるから密約が交わされたのは必然であろう。ベトナム戦争の兵站特需と同時に東南アジアへの日本資本の進出は著しく、明らかに日本資本のアジア諸国への「支援に名をかりた収奪」構造が完成し、日本は長期のいざなぎ景気に沸いたのである。それは軍事プレゼンスとセットであった。■ニクソンドクトリンと返還交渉と密約68年1月、ニクソン政権誕生。アメリカ側は、ライシャワー駐日大使が、沖縄の反米反基地闘争の爆発的盛り上がりをみて、ベトナム戦争継続に支障をきたすのではないかと危機感をもち、ワシントンDCへ見直しを具申した。米国とすると、70年安保条約の自動延長に支障をきたさないようにすること、またアジア同盟国の責任分担を拡大し、オーバープレゼンスを縮小したい意向をもって、70年に「ニクソンドクトリン」を発表したが、その方向にかなうものとして返還に着地していった。これは二つの面でアメリカの敗北を予感させていた。「ニクソンドクトリン」はベトナム戦争の出費が国力を大幅に減衰させていたことが背景にあった。また、沖縄の反米反基地闘争は、米軍事独裁に限界をきたしていることを露呈させ、日米軍事同盟自体に亀裂が入りかねないほど切迫していることをワシントンDCに突きつけた。69年11月、佐藤vsニクソン会談実施、72年に「核抜き、本土並み」返還決定。米軍基地の自由使用に関しての確認事項は、①事前協議制度には米国の立場を害さない。②韓国条項(韓国の安全は日本の安全、自由使用許可)③台湾条項(台湾地域の安全は日本の安全、自由使用許可)④ベトナム戦争中であり、米国に悪影響を及ぼさないこと以上を条件とした。また、大統領補佐官キッシンジャーと佐藤の密使若泉敬との「核密約」が交わされていた。長い間核爆弾は持ち込まれているのではないかという疑惑に終止符が打たれたのは、2009年になって佐藤の私邸の机から発見された密約文書である。国家の公文書が四〇年近く個人の机のなかに放置されていたことにも驚かざるを得ない。さらに「財政密約」も交わされており、現在まで米軍駐留負担経費が公然となされる点で先鞭をつけるものであった。米国は、沖縄に投資した全ての資産を回収する方針で臨み、佐藤は国民の反発を避けるために、虚偽の「無償返還」をアピールした。例えば一例として、協定上は米国支払い責任を明記しながら、土地現状回復費の四〇〇万ドルを日本側が負担した。1972年毎日新聞の西山太吉記者に外務省電文をスクープされ、国会で社会党が厳しく政府を追及した。西山記者と情報提供者の女性事務官は、公文書持ち出しで国家公務員法違反で有罪となった。■沖縄返還とその欺瞞71年6月、沖縄返還協定調印。71年6月、返還協定が調印されると、国会では社会党、公明党、民社党が欺瞞だとして返還交渉のやり直しを求めた。返還交渉反対のデモは全国で激しく展開された。東京と沖縄でデモ規制の警官二名が死亡した。公明、民社は、非核三原則と在沖米軍基地縮小を付帯条件として賛成に回り、社共は欠席のまま、11月中に衆参議員ともに通過して成立した。公明、民社の付帯条件は「密約」によって結局何も実現することはなかった。72年5月15日、沖縄返還。この返還は、沖縄県民がやっと国旗と憲法をもったという点で、慶賀すべきことではあった。しかし一方で米軍は一般部隊を撤収し海兵隊に特化する代わりに、自衛隊の配備が進んだ。日本側要求の基地3割削減も果たされなかった。また佐藤政権は、返還後すぐに手をつけたのが、首府の傍に外国軍がいるのは好ましくないとして、翌73年「関東計画」を実施。米国も経費削減をすすめられるとして、日米合意のもとに関東周辺六基地(立川・府中・朝霧・水戸他)を横田基地に集約。当然横田周辺住民の強い抵抗があった。77年横浜に偵察機墜落、子は死亡、母は六〇回もの手術に耐えて五年後死亡。本土の米軍からの被害は減らず爆音被害、基地拡張問題など住民の抵抗は続いた。米兵数は一万人減少した。一方沖縄は、「関東計画」のしわ寄せで基地削減は限定的で固定化された。復帰当日から三か月で、米兵犯罪は四三六件、うち凶悪犯罪(殺人・強盗・強姦・放火)が四四件。一県の米兵という限られた集団が、凶悪犯罪を三日に一件起こしているわけである。95年9月4日には海兵隊員による悲惨な少女強姦殺害事件(抗議集会は八万五〇〇〇人)が起き、04年8月の真昼間、沖縄国際大学構内に大型ヘリ墜落校舎炎上、大惨事になるところであった。現在辺野古埋め立て基地建設と同時に、あまり報道されないが、キャンプシュワブに隣接した辺野古弾薬庫(海兵隊唯一の弾薬庫)は大きな拡張工事が進んでおり、新たに一二の弾薬庫が新設されようとしている。また南西諸島(与那国・宮古・石垣)へ自衛隊の配備が着々と展開されてきた。この稿を書いている最中(6月6日)にも、昨日は小学生が米軍の手榴弾を拾って家に持ち帰り、あわや大惨事になるところであったと報道があり、今日は浦添市立浦西中学の校庭に米軍ヘリCH53Eの部品が落下していた、生徒の命が脅かされていると校長の怒り顔入りで報じられた。同様の事故は、17年普天間基地に隣接する普天間第二小学校へも、ヘリの窓枠が落下し児童の生命が危険にさらされた。この時は後から小学校を建てたくせに文句言うなと電話がかかってきたり、左翼のやらせフェイクニュースだとか酷いヘイトクライムがなされた。何度でも書くが、米軍による強制接収で住民は収容所に入れられたり追い出されたりした。基地ができ、元の住民たちが自分の土地や町へ戻って生活をしているのであって、その逆ではない。そうした本土のネトウヨたちの歴史無知や、同じ日本人としての同胞意識も欠落した分断は、長期の米国隷属を積極的に行ってきた日本政府のもたらした結果である。復帰して四〇年を経ても、米軍基地の七四%が集中し、日常生活に軍と戦争が散りばめられている。安全保障は国家と県民が逆立してしまっているのである。冷戦後は何度か縮小やグアム島移設案が出ながら、日本政府と外務省が駐留を懇請してきた結果であり、初発の「理念」なき返還交渉の結果が抑圧と人権侵害を構造化した。安倍も自民党も、冷戦終結したにもかかわらず、未だに国家間全面戦争が起こると頭がフリーズしてしまっているのだ。返還交渉が、「自由平等、人権尊重、社会正義の実現などの民主主義の基本原理」(69年11月21日佐藤首相ナショナルエクスプレス演説)という佐藤首相の演説は、ただの空文句であったと言われてもしかたない。佐藤が本気で沖縄県民にこれらを保証する気があったなら、この「普遍理念」を梃にあらゆる知恵と国家外交資源を駆使してパワーポリティクスを働かすべきであった。そもそも国際平和条約としての講和条約三条問題であるのに、国連へ提起もしていない。返還交渉の仔細が米公開文書で明らかになるほど、日本政府の交渉にもなっていない実態に驚くばかりだ。なぜ日本人は、「普遍理念」というものをもちえないのか、政治は「理念」の具体的実践のことであり、日本の政治が三流だと言われる意味が戦後外交をみていると残念ながら否定しえないのである。後年、屋良朝苗元主席は、復帰について、「胸に熱いものがこみ上げてきた。万感こもごもとは、このことである。」と述べ、続けて「復帰は終着駅にあらずして、新しいイバラの道への再出発」でもあったと述べた。復帰後も沖縄基地自由使用を合意した両政府の「五・一五メモ」(日米合同委員会関係文書)は、結局沖縄を基地の島として恒久化するものでしかなかった。したがって復帰運動はそのまま日米両政府への基地撤去闘争へ移行するのは必然であった。復帰後40年経っても基地の新設、自衛隊の展開という沖縄の軍事プレゼンスを強める動向は止まらない。講和条約発効の1952年4月28日は、沖縄が同条三条によって本土から切り離され米軍事独裁のもとに置かれたのだ。沖縄県民はこの日を「屈辱の日」として意思一致の表明としてきたにもかかわらず、安倍政権は「主権回復の日」と定め、2013年政府主催の記念式典を挙行した。上巻で六〇年安保改定の岸信介は、国権的ナショナリズムに終始したと述べたが、その後の問題が徐々に傷口を大きくした。安倍晋三首相は、実祖父の遺伝子を受け継ぎ国権的ナショナリズムの政策をより強固にするばかりである。「普天間も含めて基地はすべて強硬接収された。普天間は危険だから、危険除去のために沖縄が(辺野古で)負担しろと。こういう話をされること自体が、日本の政治の堕落ではないか」。(朝日新聞「事々刻々」2015・4・6日付)付記しておきたいのは、当時返還ではなく、沖縄「独立論」がごく少数派として存在した。その内実は国家の統治権の独立というよりは、沖縄の琉球処分に始まる差別的構造を解消するために、近代日本国家を相対化する運動であった。その意味から「独立論」は、「復帰論」の民族国家主義的色彩を批判的に克服し、構造的差別を脱っしようとする点で、「復帰論」とは一線を画するものだった。近年の沖縄「独立論」ないし「自立論」は違った拡がりをみせている。復帰当時の沖縄「独立論」は観念的な思想の問題という側面が強かったが、いまや統治権ないし自治権の実質的内容において「独立論」が現実味を帯びてきている。それには本土の人々が知らない、沖縄の基地が存続する限りもう成長はない、という経済事情と、沖縄の地政的条件によって本土よりはるかに国際的であるからだ。すなわち、基地依存経済から脱却して、観光産業に転換されつつあるためだ。元県知事の太田昌秀は次のように述べている。「一九六一年頃までは、基地収入は県民総所得の過半数の五二%を占めていました。その頃は、約五万五〇〇〇人の住民が基地で働いていました。それが日本に復帰した一九七二年頃になると基地は削減されないにも拘わらず労働者の数は二万人程度に激減し、基地収入も県民総所得の一五・五%に減少しました。現在は基地で働く従業員は九〇〇〇人で基地収入も県民総所得の四・六%から多い時で五・四%となっています。替わって観光産業、特にエコツーリズムをさらに保護育成する必要があるので、そのメッカに基地を作らせるわけにはいかないのです。」(『辺野古に基地はいらない』花伝社、佐野眞一著『沖縄戦いまだ終わらず』集英社文庫より孫引き)沖縄県庁の発表によると平成27年度の観光客数は、七、九三六、三〇〇人(対前年度比一〇・七%増)。過去五年年率一〇%増が続いている。このうち国内客と外国客の割合をみると、国内七九%、外国が二一%となっている。注目は外国客は前年比で六九・四%増という驚異的な伸びをみせているのだ。外国客の八割が近隣アジア諸国からの客である。こうした観光立県はますます顕著になっていくだろう。なにしろソウルは飛行機で二時間半、大阪と同じ距離なのだ。台湾は更に近いし、中国、オーストラリアなども更に増えていくだろう。これは観光だけでなく、アジアのハブ都市になれる可能性は十分あるだろう。基地さえなければ、無限の可能性を秘めている。「私たちは〇・六%の土地に七四%の基地があることに対して悲鳴を上げているんです。もうよしてくれと言っているんです。そういう悲鳴がどうして対決になるんですか」、「こういう国は民主主義の国ではないと思います。」(佐野眞一『沖縄戦いまだ終わらず』集英社文庫)その発言を聞いて、会場は「読売帰れ」コールで騒然となったという。自民党の保守政治家が、ここまで言う沖縄県民の背負ってきた歴史の過酷さを噛みしめる必要があるだろう。当然現在の諸問題は予測できたはずなのだが、日米両国の復帰についての政治的総括は、共にウィン・ウィンであったと喧伝された。日本政府は太平洋新時代の幕開けだと自賛した。成果としては、「対等協力関係」を構築、失った領土を平和理に回復した世界的に稀有な成果、アジア諸国への日本進出の下地と影響力確保、などとした。米国は、返還は大成功であったと。日本の負担分担を加速させることができたこと、沖縄核密約、韓国条項、台湾条項を設け、基地機能を拡大し、明確にして維持可能とし、自由使用を永久化できたと誇った。いずれにしても、日本政府は70年安保条約自動延長への布石が打てたことだっただろう。前年の小笠原諸島返還と沖縄返還確約で69年12月の衆議院議員選挙では自民党の圧勝、社会党の大敗をもたらした。■尖閣諸島問題紛争が表面化したのは、2012年野田義彦首相民主党政権の国有化からだろう。前年の中国船の領海侵犯は年間三件、翌年は六三件に跳ね上がった。引き金を引いたのは石原慎太郎東京都知事(当時)だ。石原は、自衛隊常駐と中国との戦争を煽った。野田に尖閣訪問と中国戦は構わないのだと述べた。そして東京都が購入するとして募金を募り一五億円をあつめた。一気に中国との緊張は高まり、APECで胡錦涛主席は野田首相に国有化反対を強く主張し釘をさした。その二日後9月11日野田はあっさり国有化する。以降中国国内の反日抗議はすさまじい勢いで展開され、収拾がつかなかった。米国保守新聞『ウォール・ストリート・ジャーナル』は、日中対決の挑発は、石原都知事(当時)であり、尖閣の購入が中国の挑発になることを承知していた、と報じた。そもそも返還時尖閣はどのよう処理されたのか。戦後処理でいわゆる三条地域として沖縄と同様に米軍施政下に置かれ、米軍の許可なく日本人は立入りでできなかった。米軍は二島を1979年まで射撃訓練場に利用してきた。つまり沖縄の米軍基地の扱いなのである。このことは尖閣は1895年他国が領有権を主張しない時代から一貫として日本領土として認定されてきた流れを意味している。ところが政府は、訓練で利用されなくなっても返還要求していない。地位協定にある利用しなくなった施設は返還するという規定を守らず、請求放棄してきたのである。混乱し始めるのは、60年代後半、国連下部組織が周辺に海底資源が存在することを明らかにすると、中国、台湾がにわかに領有権を主張始めたことである。米中国交正常化を前にした時期で、米国は中国に配慮して、1971年沖縄返還協定とともに尖閣諸島の復帰(施政権)は認めるが、「領有権」は「中立の立場」をとると表明した。佐藤栄作首相は、マイヤー駐日大使との会談で、「日本の領土であることを明確にして欲しい」と要望したが、マイヤーは「管理権は返還するが、主権については他国も主張するだろうから、米国は論争に巻き込まれたくない」と返答した。佐藤はこれに抗議どころか、「米国の立場は極めて論理的かつ明快」だと了承したのである。そして1972年日中国交正常化のおり、田中角栄首相と周恩来首相が棚上げ合意することで膠着状態となってきたのである。すなわち尖閣問題とは米国の無責任と政府の怠慢の二重唱に原因があるのである。現在日本の懇願によって、米国は、オバマ前大統領が安保五条(施政下は共同防衛する)を適用はするとしながら、話し合いによる解決を安倍に厳命したとされる。それはたとえ大統領府が約束したとしても、議会が、他国の無人島紛争の戦争を承認するかは分からないからだ。米国の巻き込まれたくないという心情がありありだろう。さらにTVでよく見かけるジャパンハンドラーズの代表格ジョセフ・ナイは、さんざん反共防波堤に日本を作り上げておきながら、日本のナショナリストの暴走と安倍靖国参拝を憂慮すると論稿を発表して、「田中周合意」に戻すよう提言、尖閣海域は「海洋エコロジー」の保護地域に設定してはどうかと沈静化に必死なのである。マイケル・グリーン(元ブッシュ政権東アジア担当大統領補佐官)は、米国は「どちらが刺激するような引き金に指をかけたかという点」で判断する、同盟国といえども日本を支援するとは限らないと述べている。これが米国の今後も変わらない政策とみておくのがいいだろう。石原慎太郎ら右翼は、米国へ抗議もせず拝跪するだけだ、無責任極まりないというべきだろう。さて、米軍駐留のもたらす市民への影響は、法的根拠としては安保条約第六条の規定による「日米地位協定」の治外法権的諸規定である。本来は「地位協定」を詳細に検討したかったが、紙巾の都合上むづかしくなった。そこで基本的に日本の国柄を規定している法的問題を二、三だけ説明しておく。法学部の学生は必ず学ぶ重要な法律問題だが、一般の人で知る人は少ない。1957年7月、米軍立川基地の拡張工事に反対するデモ隊が基地内へ数メートル侵入したとして刑事特別法で七人が起訴された。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。いわゆる59年3月30日の「伊達判決」である。この民主的判決は以降の護憲運動や学生運動の原点となった。ところが高裁を抜きにした最高裁への跳躍上告がなされ、同年12月16日田中耕太郎長官は一審破棄、憲法判断を回避した。すなわち、主権国としての自衛権はもっているので、「九条の規定は日本国が指揮管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の主旨に反していない。他方で、日米安全保障条約のような高度の政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない。」一審に差し戻され1961年3月7日、東京地裁岸裁判長は全員に有罪をもって二〇〇〇円の科料に処した。再び原告住民より上告されて1963年12月7日、最高裁は上告を棄却し、有罪確定で終結した。これを「田中判決」の「統治行為論」という。現在の日本国家の主権放棄を司法が判断した有名な判決である。2008年新原昭治氏(国際問題研究家)が米国公開文書の中から発見したのである。詳細の経過は省くが、一審伊達判決(違憲判決)の出た翌早朝、マッカーサー駐日大使は藤山外相と会い、最高裁への跳躍上告を提案し閣議決定を求めた。翌年の安保改定が迫っているなかで日本政府は全面的に同意した。そしてハーター国務長官の伊達判決潰しの最高裁工作によって、最高検も田中耕太郎最高裁長官も、米国の用意した法理論のままに上告棄却を命じていたのである。更に全容を発見した末波靖司氏(ジャーナリスト)は次のように整理している。田中長官は要するに対米協力者(スパイの暗号名を持っていたかどうかまでは判明していない)。一つは、日本国憲法前文の平和主義、国際協調の精神にかなっており、米軍駐留は平和主義に沿うものである。二つ目は、九条2項は、日本の自主的な指揮権の行使できる戦力のことであり、外国軍隊はそれには該当しない。2項は「日本国が締結した条約及び確立した国際法規はこれを誠実に遵守する必要がある。」規定している。「誠実に遵守する必要がある」と規定はしているが、憲法と条約のどちらが上位にあるかについて明示されていない。法律解釈学の一般解釈は、憲法が上位にあると解するを妥当としている。ところがこの砂川最高裁判決以降、高度の政治性を有する条約は、条約が上位にあるという「説もある」というもっともらしい説として流布されるようになった。しかし憲法が上位にあるという一般解釈が主流である根拠としては、主権在民の直接的反映の重み─すなわち憲法は国会の決議と国民投票によって改定される、それに比べて条約は内閣による行為を国会が承認することで足りる、この重みの違いが憲法を最高法規としているのである。しかし日米安保条約だけは、「高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断は」司法審判に馴染まないと、判断を放棄したのであった。つまり三権分立を破壊したのである。安保条約や原発問題など、アメリカとの政治的背景をもったものは、日本の法律より優越させること、またそれらを運用する官僚をも超越的地位に置くことになり、国民はアンタッチャブルとなった。これが「統治行為論」といわれるものである。ありていにいえば、官僚のケツ持ちは米国がしてくれるから、日米安保関連は自民党が存在する限り、政治家でも自由にならないのである。鳩山元首相が、辺野古基地を沖縄県外に移設しようと試みても、米国に超越的に保証された外務、防衛官僚によって潰されたのは、このような自民党と官僚の長年の対米従属が構造化されているためであった。異常というしかない。■「常時駐留なき安保」基地の存在はフィリピンの指導者たちを米国の政策や利益に従属させ、米国による内政干渉をまねく」と制定委員会は主張し、「外国軍基地の原則禁止」を憲法の条文としたのみならず、領土内への「核兵器の貯蔵と設置」も禁止した。この結果1991年米比基地協定の期限切れにともなって、終了を米国に通知した。そしてマルコス政権下で結ばれた外交協定を全てを白紙に戻し、粘り強くかつ強靭な対米交渉を行った結果、暫定的にスービック海軍基地は存続を認めそれ以外の日本の基地に匹敵する広大な基地を奪還し米軍をすべて撤退させたのだった。しかし現在米比相互防衛条約は存続しており、共同の軍事訓練もおこなわれて対等の相互防衛を約束しているのである。これは小沢一郎や鳩山由紀夫ら旧民主党政権が目指した「常時駐留なき安保」方式であり、フィリピンは既に二〇年以上前に成し遂げてしまっている。このフィリピンの事例から米国は駐留国の憲法と国民意思(政権)を無視できず、主権を侵害することはできないことを明確に示している。もっともフィリピンが新憲法を制定し、対米交渉結果がでるまで、軍によるクーデターが起き(おそらくCIA工作)、ジャパンハンドラーズで有名なあの猛牛のようなアーミテージが激怒して様々な恫喝をしたことは付記しておくべきだろう。■「日米地位協定」の非対称性この稿では本来「地位協定」を書きたかったが紙巾も尽きているので、少しだけ紹介しておく。日米地位協定は、「安保条約第六条にもとづく基地ならび日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」をいう。60年岸政権新安保条約の締結と同時に結ばれた。占領期と同様な全土基地使用に対する日本の支援と管理義務を定めていた「行政協定」を焼き直したものである。一条から二八条まで、かなり詳細に米軍と日本の基地管理、軍人、出入国、情報提供、関税、租税、裁判権、経費負担など、詳細を極めている。基本的に、米軍基地は治外法権であり、米軍人と関係者はイミグレーションを通さず入出国が可能である。米兵が犯罪を犯し基地に逃げ込めば日本の警察は容易には逮捕できない。麻薬を米兵や家族が軍用機で横田基地に持ち込んでも分からない。沖縄では交通事故でも沖縄県警だけでは処理できず、MP立会いの下、公務外と判定された場合にのみ県警が拘束できる。公務か否かは米軍の判断次第であるから大方米軍の有利な運用になる。基地周辺では、本土も沖縄でも共通して爆音問題(爆音は列車走行の横に立ったと同程度)で住民が何度も訴訟を起こしているが、損害賠償は認められても航行差し止めは認められたことはない。外国軍だから、司法の及ばない第三者なのでどうこういえないという。これを「第三者行為論」という。日本国民が被害を受けても政府は救済する権限を持っていないとしている。オスプレイは二一県一三八市町村の上空を飛ぶ。東京の住宅密集地域も訓練エリアである。国内の飛行高度は航空法第八一条(最低安全高度)で国土交通省令で定めた最低安全高度を守るよう定めている。その航空法施行規則第一七四条は、人家密集地域の上空では、当該航空機より六〇〇mの範囲の最も高い障害物の上端から三〇〇mの高度を義務付けている。また人家のない地域は一五〇m。ところが米軍機はこの航空法の大部分が適用除外となっている。訓練マニュアルでは一律「平均」一五〇mとしており、「平均」であるからもっと低く飛んでいるわけである。一説によると六〇mともいわれている。しかも機銃の銃口は、民間人を敵に見立てて向けられているのである。これら軍用機が墜落した場合どうなるか。大きな事故は68年九州大学構内へ、また近年では沖縄国際大学へ墜落した。九大の場合は、日曜日で建物が大破炎上しただけで、学生に被害はなかった。沖縄国際大も夏休み中で学生の被害はなかった。問題は、墜落した場合、日本の警察など公的機関が検証から排除されしまうこと。米兵が事故現場を管理し、マスコミ含め一切の立ち入りを排除してしまうのだ。軍事機密と放射能汚染を隠蔽するためである。本土の場合は日米共同の検証が行われてきたため、沖縄県民の激しい抗議の結果、日米当局は調整した。だが日本警察が事故の外側を規制して、米軍が内側を規制することを取り決めた。これでは沖縄方式を日本が公然と認め、それを全国化する最悪の結果をもたらしただけである。こうした日本と米軍の諸問題を調整する機関として「日米合同委員会」が設けられており、月一回、日本の各省庁の官僚と米軍人がともに各四〇数名が会議をもち法務省が仕切っている。注意すべきは、米国はすべて制服の軍人であり、日本側は政治家は入っていない。また米国務省は、国家間協議を軍人が担うのは好ましくなく、この仕組みを解体したがっていることである。さらに、地位協定の軍管理問題だけでなく、あらゆる分野の多岐にわたる要求を日米で調整する機関となっている。筆者も現役時代、新聞協会に下ろされた民需の要望を開発する仕事に携わった経験があるが、そんなことまで米国の要望に応えなければならないのかと、唖然とさせられたものである。他の米軍駐留国のように、自国の捜査権、裁判権確保や、米軍基地立ち入り調査権、国内法規適用などを確保し、差別的取り決めを撤廃して、主権回復を図るべきだと強く思うのである。日本人の自主的奴隷状態は子孫のためにならないだろう。この地位協定を締結する時、米高官が「この協定を締結した日本側の担当者は刺し殺されるだろうな」と呟いたエピソードが残っている。それほど米国からみても主権侵害の差別条約なのである。冷戦後米軍の兵力は25〜30%削減された。在沖米軍は、経費負担の半分が日本もちであるので経済的利点の寄与を強調していた。在沖海兵隊をカリフォルニアに戻すのは戦略上可能だが、経費が二倍に跳ね上がり、議会からは部隊縮小命令は明らかだったので選択肢にはなりえなかった。沖縄で不要なものは米本土でも不要なのだ。基地としての沖縄評価は、米軍内では低かった。実弾射撃などは他国地域でやる必要があったからだ。沖縄撤退の報告書もかなりあったが、同盟国の親密度という「政治的価値」を選択していた。もちろん日本政府が容認すれば本土がよかった。海兵隊も沖縄より本土の訓練場の適正を高く評価していた。しかし基地の場所決めは日本政府にあるのが政治的現実であった。93、94年当時、沖縄の適正評価の低さに加え、米兵犯罪の多発、日米地位協定が問題化し、抗議から外交問題へ発展するなど対応に追われた。海兵隊としては一〇〜一五年以内に沖縄から去らなければならないと明記していた。(略)海兵隊が支持した移転案は、規制の多いグアムよりオーストラリアだった。幅広い訓練が可能で言語も同じだ」。そして今のトランプ政権は、変化を好まず、(辺野古の・望月註)軟弱地盤問題が指摘されても国防省はとめないだろう。」(要旨抜粋)この証言から、日本政府は大事なチャンスを逃してきたこと、抗議行動の激しさがいつも日米両政府を動かしてきたこと、沖縄は適正訓練場ではなく日本の経済的負担に価値があるだけだ、ということである。気がかりなことは、オスプレイ配備によって、本土上空の訓練飛行に六ルートを設け、横田基地の住宅密集地が訓練域となっていることである。さらに秋田と山口へ、ミサイル迎撃アショアがハワイとグアムを守るため設置され、ますます「日本全土基地化」が進行していることである。■70年安保最後に七〇年安保条約自動延長について簡単に記しておく。もっとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締結国も、他方の締結国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。60年岸内閣が締結した日から起算すると、一〇年後は、70年6月23日。これ以降は日米どちらかが終了通告してその一年後に失効する。日米両政府とも延長以外の選択肢はないものとしていたようだが、それぞれがその先をどういう形にするかは明確でなかった。自民党は、「固定延長(一〇条改定し無期限)」か「自動延長(現行のまま)」か検討した結果、「固定延長」の方が、政治混乱と外部からの革命工作に隙を与えないと主張。しかし米国は、条約の再改定は、日本の政治的混乱をひき起こす恐れがあること、また改定条約が米議会で承認されるか不透明であるとして、「自動延長」を主張。結果自民党内は「自動延長」が多数派となり採用された。今改めて注目してよいのは、保守読売新聞(69年10月15日付)が、日本の安全は極東の緊張緩和にかかっており、安保の長期継続は、中国をめぐる冷戦を長引かせるのでそのまま支持するわけにはいかない、と主張した。保守を任じる読売らしく、米国からの自立と独自安全保障に未来を押し拡げようとしている。今のネトウヨは、保守の本来の立ち位置はどういうものか学ぶべきだ。さて問題は、安保反対勢力の方である。60年の時のように焦点の時限がないなかで、闘争は自ずと「安保体制」そのものと「個別闘争」をつないで盛り上げる方法をとらざるを得ない。スケジュール闘争を脱皮して、果敢に闘ったのはいわゆる新左翼諸党派、全共闘、反戦青年委員会の若者たちであった。「体制」そのものに反対するわけだから、自ずと日米両政府の行っているベトナム戦争への反対闘争、学問の軍事産業連携反対、学園の前近代的残滓による権威主義解体、大学のマスプロ教育による産業予備軍の排出反対などがリンクしていた。また、千葉県三里塚では、政府が農民への告知も同意もないままに、成田空港建設に着工しようとした。農民の建設反対に学生たちは連帯し支援闘争に入った。以降三〇年にわたる死闘がつづけられたのである。65年日韓条約が締結された後、三派全学連(社会主義学生同盟、革共同中核派、社青同解放派)が結成され、数々の私学の学費値上げ阻止闘争や街頭闘争が進められた。無党派の学生組織も合流し、やがて多くの大学に全共闘が結成され、学園のストライキ封鎖と街頭闘争が全国津々浦々まで地響きを立てたのである。「六九年の世論調査で、四九%もの国民が、安保条約で日本が戦争に巻き込まれる不安があると回答する中(NHK、一九八二)、社会党などの野党は、日本を戦争に巻き込む危険があると安保条約を批判し、政府・与党に攻勢をかけた。七〇年安保は、大学紛争やベトナム反戦運動と連動しながら展開された。社共両党と距離をとる「新左翼」による六九年一〇月一〇日の統一行動、一〇月二一日の国際反戦デー、一一月佐藤訪米抗議闘争などの運動に、六九年の一年間で約六九五万人が参加した。七〇年に入ってからも三月に開幕した日本万国博覧会(大阪万博)を横目に、社会党、共産党、新左翼などによるデモが相次いで実施された。またべ平連は、六月一日から七月三日まで毎日デモを行った。七〇年一月から六月までの間に、約二八〇万人がデモに参加した。(『朝日年鑑』一九六九年版、一九七〇年版)」この良書が残念ながら最も肝心な闘争を漏らしてしまっている。六七年一〇月八日、佐藤栄作首相の南ベトナム軍事政権訪問の阻止闘争である。羽田空港へ首相の専用機離陸を阻止するため約二〇〇〇人の学生が実力で阻止に向かったのである。旧来のスケジュールによる「抗議闘争」ではなく、「実力阻止闘争」である点で画期を成すものであった。すなわちヘルメットとゲバ棒(角材)で「武装」したのである。警備の機動隊の壁は厚く、狂暴を極めた。混乱の中で京大一回生の山崎博昭が、弁天橋上で虐殺される。死因については、警察は学生らの運転した装甲車にひき殺されたと発表し、学生側は機動隊の過剰警備によるものだと、対立した。常識的に考えて、小さな狭い橋上の装甲車の配置、圧倒的多数の機動隊の狂暴な規制は、死者が出てもおかしくないと最初から想定できたはずである。60年安保の樺美智子虐殺死をふまえれば、警備の過失であることは常識的見解となるはずだ。吉次公介は、闘争最中の72年生まれの若手研究者であるので、当然文献渉猟に頼ることになったのだろう、山崎博昭の死が漏れてしまっている。同時代を生きた者には、彼の死が与えた衝撃と闘争の盛り上がりは計り知れず、生涯忘却することのできない名前なのである。学者のテクストから漏れると、漏れたまま公的言説として流布し、山崎の死は史実から消去されてしまう。改めて記しておきたい。なお、この闘争の詳細を知りたければ、既に多くの書籍が出ているので簡単に追体験ができる。ここでは政治的側面からは、三上治著『1969年代論Ⅱ』(批評社)、東大闘争の記録としては、島泰三著『安田講堂』(中央新書)、思想的基盤としては、鹿島茂著『吉本隆明1968』(平凡社新書)、小坂修平著『思想としての全共闘世代』(ちくま新書)が確かである。恣意的なデフォルメした書籍や党派の「大本営発表」もあるので、掲書で十分だろう。また、戦後史を通覧するなら、福井紳一著『戦後日本史』(講談社α文庫)をお薦めする。長年予備校と大学で教鞭をとられてきただけに、平易な解り易い文体で、通常は支配層中心の扁平な記述になりがちだが、この書は庶民の抵抗史を織りなすことで立体的な歴史書に成功している。一例をあげるとベトナム戦争の記述である。「ホー=チ=ミンを指揮者とするベトナム独立同盟(ベトミン)が抗日運動をおこなっていきます。そのようななか、一九四四年から四五年にかけ、ベトナムは凶作洪水で非常に厳しい飢饉となります。(飢饉とは、社会的要因を含んだ自然災害を意味する)。そのように飢えた占領地ベトナムから、日本は徹底的に食料を奪います。そのときの日本の収奪による虐殺に等しい餓死者の数は約二〇〇万人で、原爆を一度に一〇発落としたくらいの死者数になります。」またYouTubeでは映像も残っている。若い世代は、未来を担おうとする闘うフランスやアメリカや香港の若者がかっこいいと思うなら、またそんな闘争は関係なかったという老年世代も、自分の生きた時代を棺桶に入る前に知っておくのもいいだろう。お薦めしておく。70年6月22日、佐藤政権は安保条約の期限切れと自動延長を発表、反安保対闘争は敗北に終わったのである。しかし、一年ごとの自動延長である。国民がその気になれば、いつでも見直しも、破棄も可能であることを忘れてはいけないだろう。(あとがき)再度確認しておくが、この稿は研究論文ではない。専門家の知見を借用してコンパクトにコメンタールにしたものである。戦後占領期を経てなお、半世紀以上たっても外国軍隊が駐留し、治外法権と主権を放棄した司法判断をもっている国家とは何か。しかも初発の冷戦体制は消滅したにもかかわらず、その体制を維持することは、あまりに国家の理念も外交も無能と言うしかないのではないか。「9・11」以降、国家間戦争ではなく、テロを中心とした「マイナー戦争」に変質してきている。国家群vsテロ組織であれば、国家安全保障は軍を縮小しても警察との新たな混成であり「グレー部隊」でなければ対応できないのは事例をみれば明らかなのだ。日本は国家としていくら軍備を充実しても、原発がある限り数発のミサイルか、数人のテロリストで壊滅する脆弱な国家なのである。それを仮想敵国を設けて、外交努力もせず、血税を湯水のごとく軍備につぎ込む価値はあるのか。明治期、英米の代理戦として戦費を提供され、革命前の脆弱だったロシアなど、複合的な好条件は捨象して、日ロ戦の美化された、成功体験の記憶だけにすがった、「大鑑巨砲主義思想」だろう。不都合な現実を見ない「お花畑」の日本人の悪癖ではないか。筆者は、当面、少なくともフィリピン方式=「常時駐留なき安保」を成し遂げ、近未来に「東アジア集団安全保障体制」を目指しても、国民がやる気があれば充分可能だと思っている。(完)(参考文献)伊東祐史『戦後論』平凡社二〇一〇年七月一六日岩沢雄司『国際条約集2018年版』加藤典洋『戦後入門』二〇一五年二〇一五年一〇三〇年坂本一登・五百旗頭薫『日本政治史の新地平』吉田書店二〇一三年一月一二日坂本一登『日本政治史の新地平』二〇一三年一月二一日白井聡『「戦後」の墓碑銘』金曜日二〇一五年一〇月二七日末波靖司『対米従属の正体』高文研二〇一二年六月一〇日新原昭治『日米「密約」外交と人民のたたかい』新日本出版社二〇〇九年福井紳一『戦後日本史』講談社α文庫二〇一五年七月二二日孫崎 享『戦後史の正体』創元社二〇一二年八月一〇日矢部宏冶『日本はなぜ戦争ができる国になったのか』集英社インターナショナル二〇一六年矢部宏冶『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル二〇一五年矢部宏冶『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』書籍情報社一六年五月一六日若泉 敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文芸春秋二〇一〇年一一月一〇日山本章子『米国と日米安保条約改定』吉田書店二〇一七年(編集発行『奔』2号2018年12月31日、3号2019年7月31日所収)