■東京都教師側を罵倒する「愚者の楽園」--「君が代斉唱不起立訴訟」

君が代不起立、処分取り消し=「懲戒権を逸脱」―教職員ら逆転勝訴・東京高裁
時事通信社 - 03月10日 16:03)

 卒業式などの君が代斉唱では日の丸を向き、立って歌うと定めた東京都教委の通達に違反し、懲戒処分を受けた都立高校の教職員ら168人が、都を相手に処分取り消しと慰謝料を求めた訴訟の控訴審判決が10日、東京高裁であった。大橋寛明裁判長は「処分は重過ぎ、懲戒権の範囲を逸脱している」として、請求を棄却した一審東京地裁判決を変更し、処分取り消しを言い渡した。

 都教委が通達を出した2003年以降、処分を取り消す判決は初めて。通達そのものについては「合憲で適法」と判断し、慰謝料請求は棄却した。

 大橋裁判長は「不起立は歴史観や信念に基づく、やむにやまれぬ行動だった。式を混乱させる意図はなく、実際に混乱はなかった」と指摘。通達以前の処分と比較し、「かつては式を妨害しても、懲戒より軽い訓告しか受けない場合があった。処分は妥当でない」と述べた。

 訴えていたのは03〜04年度に戒告や減給の処分を受けた教職員やOBで、「通達は思想良心の自由などを保障した憲法に違反する」と主張していた。

 大橋裁判長は同日、都内の元公立小教諭ら2人が起こした同様の訴訟でも、懲戒処分を取り消す逆転判決を言い渡した。

 式での国歌斉唱をめぐっては、教職員らが通達に従う義務がないことの確認を求めた別の訴訟で、東京高裁が1月、通達の強制を違憲だとした一審判決を取り消し、請求を退けた。通達以前の1999年にピアノ伴奏を拒んだ音楽教諭が懲戒処分取り消しを求めた訴訟では、07年の最高裁判決が校長の職務命令を合憲として、処分を認めた。

 大原正行東京都教育長の話 判決は大変遺憾で、内容を確認して対応を検討する。 

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1530213&media_id=4


高裁判決は妥当であり、処分そのものの不当性を指摘したことは正常な判断だった。

本来なら、都通達そのものが違憲判決でなければならない。

そこまでは無理であったとしても、実務的にも現場の許容度を線引きしたという点でなかなか考えられた判決。

なぜ国旗への国民の態度強制が問題なのか。
情緒的日本人には、国家とか共同体の論理的構成に頭がついて行かないのだが、近代国家は極めて論理的に構成されている。

自由主義国家は、自由を基調として国民がそれを幻想(観念共有)とすることで成り立っている。
したがって実体のあるものとして、国家は触ったり舐めたりすることはできない。

それではみんなが困るので、自由を基調としたシンボルとして国旗を用いようということになる。
それを大事にして、敬礼したりお辞儀したりしようとする。

つまり国旗への敬礼は、自由主義国家は自由そのものにたいする尊厳に敬礼しているのである。
従ってこの国旗をいただく国民は、自由が保障されなければならない。

ゆえにこの国旗(自由の観念的共有の記号)への態度の自由が保障されず、国家の執行権力によって国民に一定の態度を強制する国家は、自由は看板だけで中身は全体主義国家である。

日本は、生神さまとしての天皇を元首とした情緒的な時代が90年ほどあったために、未だに主権が国民にあるという観念に乏しく、国民は憲法に規定された自由が時の執行権力に恣意的に制限されるのは当然だと考える。昔のオトナが、その観念を再生産するので、いつまでも国家権力としての国旗や官僚、すなわちお上の記号には絶対的服従だと勘違いしている。

例えば憲法が、国民に対する国家権力の服務規程だと知らず、国民が守らなければならない義務規定だと勘違いしていることと同類である。

アメリカ連邦裁判所の判決も、星条旗焼却事件ではその行為を無罪としている。
理由は、自由の国家は、国民がその国家に対してどのような態度をとるかも自由でなければ自由社会ではない、というもの。
わたしは、アメリカへの批判ばかり書いているが、こういう点はアメリカを深く尊敬している。

そうした基本的思想を前提に、日本の刑法は、日の丸毀損への罰則はもうけていない。外国国旗へは不敬行為として罰則は規定しているが。

やはり国旗への尊敬の念は、黙って頭をたれるようないい社会を皆でつくるしかないのだ。

なお、個人的には教員のこうした旧左翼的対応は評価しない。
しかしこれは今の天皇陛下も言及しているが、先の大戦を通して日の丸にいい感情をもてない人たちがいる限り、無理強いしてほしくないと極めて国民感情に配慮した注文をつけている。とても智者の発言だと共感している。

その不幸な時代の日の丸は、国民に自由ではなく抑圧を、家族の希望ではなく肉親の殺戮へ、国民に強要した観念の象徴だったということだ。
従って、こうした運動自体は、時間とともに集合的記憶が薄れるにつれて自然に消滅に向かうだろう。

天皇陛下が配慮するその痛ましい国民の記憶や感情が薄れていくことと、社会が弱肉強食を容認し、個人利益の最大化だけが幸せだと想い、政治家が劣化している社会が進行していくことと、どこかで関係しているのではないのか、と危惧しているのだが。

国歌や国旗は、その時代の国民意識に翻弄されやすい。だが人類が獲得した崇高な自由の原理だけは踏まえられていなければいけないと思う。