さいたま市公民館の俳句弾圧事件、京大俳句弾圧事件再びか?!

集団的自衛権の行使容認に反対するデモを詠んださいたま市内の女性(73)の俳句について、同市大宮区の三橋(みはし)公民館が6月末、毎月発行する「公民館だより」への掲載を拒否していたことがわかった。女性は俳句サークルの会員で、毎月、会員互選の1句が掲載されていた。女性は「サークルと公民館は別組織。掲載拒否は表現の自由の侵害だ」と批判している。


 掲載を拒まれたのは「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の句。女性や公民館によると、句は6月下旬に選ばれ、1日発行の7月号に掲載予定だった。だが直後に、公民館の職員から女性に「集団的自衛権で世論が割れているときに、一方の意見だけ載せられない」と連絡があった。その後、公民館だよりの7月号の俳句コーナーは削除された。


 引間(ひきま)正己館長は取材に「公民館が選んだと誤解を受ける」と説明。公民館を管轄する市生涯学習総合センターの小川栄一副館長は「集団的自衛権について色々な意見がある中で掲載するのは、偏った表現と受け取られかねない。妥当な判断だった」と話した。


 公民館だよりは市の予算で毎月2千部を発行。公民館のある三橋地区の6自治会に配布し、各町内会の回覧板で回すなどしている。



     ◇


 〈表現の自由に詳しい右崎正博・独協大学法科大学院教授(憲法)の話〉 公民館は地方自治法に基づく公の施設で、利用は正当な理由が無い限り拒んではならない。公民館だよりも同じだ。今回は表現の内容に基づいて掲載を拒否しており、表現の自由を保障する憲法に違反すると言わざるを得ない。「意見が分かれているから」と排除してしまえば、話し合いの場を閉ざしてしまうことになる。
(朝日デジタル2014,7,5)

このさいたま市の言論封殺には驚愕した。

もうここまで来ていたのか、私たちの市民社会は!
この70年の戦後の営みは風塵とかし、いま廃墟となって近代の諸原理がファシズムの嵐に飲み込まれようとしている。

さいたま市は、国論を二分する問題では、片方の意見や主張は、行政権力で制限できる、という見解をとる。
では、そうした国論を二分したまま国家政策として下達されたものは、ノンタッチという原則で中立性を貫いたのか?
消費税値上げはどうだったのか?さいたま市だけ消費税はないのか?国論を二分した片方の意見によって決定された政策を実施していないか?
あるいは、合法性を付与されてしまえば、国論を二分したままであっても片方の意見は存在することを抹消しても構わないのか?

俳句表現ではさらに問題なのは、そもそも作者の政治主張と、詠まれた作品内容が一致しない場合もある。この作者の意図に関わらず、国民的論議になっていれば作品の表出を封殺してもよい、という根拠はなんだろうか?法的根拠はあるのかないのか?
憲法表現の自由を守る義務のある公務員が、民主主義を保証する義務のある公務員として、それを明らかにしてもらいたいものである。

要するに国論を二分する程大事な問題への市民のコミットメントや表現を封じることは、先進国の民主主義と表現の自由とは全く逆行し、そもそも論議を旨として解決する民主主義の前提を崩壊させる。これは犯罪である。

何度もいうが、これが中国北朝鮮化なのである。

昭和17年特高は西東三鬼ら15.6名を治安維持法違反で逮捕。世に言う京大俳句弾圧事件である。「昇降機静かに上る雷の夜」を共産主義が盛んになっていくことを願った作品だと罪をでっち上げた。

戦争がおわると、俳人が100名以上投獄され、獄中辛酸を舐めていたことが判明。
それも新興俳句系ばかり、虚子『ホトトギス』系は一切なかった。

何を隠そう、この『ホトトギス』系の小野撫子が密かに特高官僚と結託、でっち上げの指南をしていたのである。

今これを私たちは笑って無茶なことしやがる、と思うが、さいたま市の封殺はどうだろうか。

のちの世代が知った時、奇妙な話だと思うか?公務員の間違いだっというだろうか?
それとも、作者が反逆罪で投獄されている時代に成り果てているだろうか?

私は間もなく死ぬからいいけど、どちらにするかは生き残った人たちの知恵で、どちらにでもなるということだ。

それにしても、近代的憲法を切望してきた明治維新の功労者や、戦後の民衆は、こうも安安政治家役人が憲法をないがしろにする姿に何と言って嘆くだろうか。