俳句批評、鈴木純一「反解釈(?)リアルとテロル」−豈48号別冊

(前略)

  他者という地獄を生きて吾亦紅   至高

「他者という地獄」というのは、相手が真の他者ではなく「自己のコピー」としてあらわれる現代社会をさします。そこでは真の他者と出会うことは難しい。反復する自我の連続(コピー)は、三面鏡に顔を入れると経験できますが、

  合わせ鏡の無限空間夏蝶来    至高

これは無限という時間を、空間が繰り返す連続性のメタファとしてとらえることです。

時間はとらえがたいものなので、わたしたちはそれを運動や空間的なもの、速さ、長さ、幅におきかえとらえます。無限に反復する空間は、永劫に連続する時間の比喩ですから−

  ことばの生み出す「過剰」が繰り返されること、それを僕たち
  は通常「時間」と呼んでいる。

時間は無限反復され、推論は時間をかけて重ねられ−

  たっぷりと考えへて嘘冬牡丹   秦夕美

虚を実に、有を無に、無いものを有るものへ、既に存在するものを未だ存在しないものへ、現在を未来へと転換し−

  ことばは、そこに呼び寄せられる「過剰」の連鎖を、「未来」
  という時間性として、そこにあらしめる

自己の価値(意味)が、他者との交換の中に潜在(ヴァーチャル)しているように、現在を「潜勢としての未来」に置き換え、交換します。

(以下略)


(評注)
鈴木純一氏の意欲的な批評で面白い。
内容の当否は別にして、こういう現代思想を下敷きに俳論を語る切り口がいかにも「豈」風で、チャレンジ精神は貴重だといわねばなるまい。


大方は首肯しうるものだが、「ことば」の理解や、「季語と記号」の対応連関や「他者」に、基本的誤認と無理があるようにも感じられたのだが、それらが未消化からくるものか本人のオリジナリティからくるものなのか、少し解りにくい。


特に、リアルの把握が、「真の」とか「本来の」といった措辞にみられるように、一種の「疎外論」的把握がなされているのが気になった。
今の「リアル」ということをあるべきものからの「逸脱」として語られるのか?
「本来のあるべきもの」という先験的措定は、ある種の形而上学を誘導しはしないだろうか?


リアルがオリジナリティやコピーといった、反映論的なロジカルタイプとは異なて、現にあるものの関係性として把握する小生の立場からは、よく理解しにくい感じを持ってしまう。
そこはしっかり検証して見る必要があるように思った。


いずれにしても、至高の句を採り上げ小気味よく捌いてくれていることには謝意を述べておく。この至高への評言では、上述の部分以外はほぼ同意できる批評というべきである。


鈴木氏のような俳句批評の「外部性」(俳句を俳句であらわない)を持ちえているのは、俳人数多あれども数は少ない。また「豈」だからこそ許されるチャレンジであろう。
鈴木氏の活躍が楽しみである。


なお、秦由美子女史の一句には、いつもながら「うーんうまい」とつぶやいしてしまう。


(注)
句作者「至高」は、出典当時は本名記名になっているが、ここでは俳愚人の責任で変えています。