昨日から、エジプト大統領ムバラクが、カイロを脱出したという未確認情報がネットを駆け巡り、今朝のマスコミでは、確定的なものとして報じられている。
ムバラクは、結局29年間の独裁政権を追われた。
スイス政府は、ムバラクのスイスでの銀行口座を凍結したと発表、数兆円という蓄財も今後は勝手には使用できなくなるという点で、今までの亡命と違って厳しいものとなっている。
チュニジアもエジプトも、共通しているのは、ネット世論からリアルな政治行動へ接続され、軍が積極的な国民弾圧に向かわなかったという点である。
ここが、東欧の民主化革命と大きな違いで、中東の独自な歴史が垣間見れる。あるいは時代が銃口で国民の意思を圧殺する方程式が崩れたということなのか?
国内の動きでは、既存マスコミのエジプト国民の蜂起を報じないことにネット世論は苛立ち、前原外相がエジプト国民に対してエールを贈るよりもムバラクは退陣するといっているのだから、性急にならないようにと談話を発表したり、反応も理解も鈍かった。
前原にすれば、バックにアメリカがついているのだからアメリカの意向を尊重し、今後も新米政権へスムーズな移行を願ったのだろう。
アメリカのポチとしては当たり前の発言だった。しかしネツト世論からは猛反発があったが、同じポチのマスコミからはほとんど批判的な論調はみられない。
また自由主義の国のマスコミよりも、アルジュジーラが強烈なジャーナリズム精神で、治安警察の妨害を撥ね退けて刻々と世界にリアル情報を発信し続けたことも特筆に価する。
ネット世論が手放しに賛美しているが、わたしはアメリカの傀儡政権であるがゆえに軍が軽々しく動かなかったとみており、日本と同様軍は独自での判断能力をもっていないのではないのか。
アメリカCIAの情報分析能力は近年著しく低下しているため、この突発的反政府デモを予測できず、ハンドラーズよりオバマ政府中枢の意向が反映したのではないかとみている。
これは皮肉と言うべきで、結果オーライだったのではないか。
ガス抜きをして、衣裳替えをして再びアメリカの影響力を行使できる政権が、アメリカにとっては無難な選択なのだ。
その点では、鳩山から菅−岡田へスイッチすることが、アメリカの意向であったに日本と全く同様の構造をもっている。
そして、エジプト国民にはそういうアメリカに侵食されるアラブという感性が国民に残っているようで、フィフィさんのブログによれば、中東でもエジプトは一番自由であり、ただの独裁への抵抗というよりもアメリカ傀儡政権と言う点に重点は置かれているのだということだ。
日本には、それを感じられなくなった国民がほとんどであり、むしろエリート層が積極的にアメリカに包摂されることが国益だとPTTへの参加を推進している。
アメリカ的なるもので潤った結果、保身の強い中間層の存在によってアトム化された社会と、宗教共同体が色濃く残り、一種のパターナリズムを無意識に容認する社会の違いといってもよい。
若者やインテリは西欧型の民主主義社会を望んでいるということだが、はたしてムスリム同砲団との折り合いはつくのか?
フィフィさんの報告では、過激派ではなく国民の80%に支持され、キリスト教の窮民運動と同じような慈善団体であるそうな。土着の「アラブ的なるもの」の根源なのだろう。
恐らく中下の階層の支持が強いと思われるが、日本にあったアミニズム的神道を破壊して共同体意識を喪失した日本と同様な寒々さした「自己責任」の社会を招くのだろうか?
わたしの中で、「民主化というキーワード」が、まだそれなりに機能する社会への羨望と、ある種の懐かしさとでもいうものが駆け巡ったが、ぜひ日本のような「日本的なるもの」さえ感じられなくなった社会にして欲しくない。
しかしわたしは健全なナショナリストではあっても偏狭な民族主義者ではないから、ただアメリカに対抗してものを言っているほど単純ではない。戦後のアメリカにもたらされた自由も民主主義も貴重であり、日本の必要とする時代にタイムリーに機能したと思っている。
思想の原理と、社会のありようについていっている。
どこの国も歴史があり、グローバリズムという神の声によつて実生活者である国民の生活が経済的効率性の用具に落としこめるようなことは避けて欲しいということだ。
その国の国民の冨が、他国に合法的な装いのもとで収奪されないようねがっている、と言う意味だ。
貧しくても、いや豊になりつつ国民の紐帯を切らさな社会をチュニジアもエジプトにも願っている。
さて重信メイさんがツイッターで喜びを語っているが、獄中の重信房子の感想を聞いてみたいものだ。
あまり今のわたしには参考にはならないだろうけど。笑
アラブの人達と興奮している中でのとりとめもない雑感である。