時間的余裕もないので、とりあえず識者からの発言もあり、この辺で私見を思いつくままにまとめておく。
■高市大臣の無知か批判派潰しの偏向か
報道・表現の自由に関して、高市総務大臣が2月8・9日の衆院予算委員会で、政府の再三の忠告にも是正されない場合は、「放送法4条違反を理由に電波法76条に基づき停波を命じる可能性に言及した」。
この解釈が過去の政権とも専門家報道従事者とも解釈が180度異なっていることに反対意見が噴出した。
この高市発言のいかがわしさは、政治権力が電波を許可しているのだから、ときの権力が自由におとり潰しできるという、現内閣を越えて将来にわたってその行使を保証した点だ。
この問題点は民主主義が主権在民であり、その主権者が正しい判断をもつための知る権利と情報を最大限保障しようという近代民主主義を根底で無視しているところにある。政府権力は、民主主義を公的理由もなく自己都合で縮減してもよいといっている。
(1)電波法4条はマスコミ側の報道における「公正」を自身が守るための規定である。
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- 「公平」ではなく「公正」。すなわち5W1Hを曲げてはいけない。
- 特定の利害に関係し、虚偽の報道をして利益供与をしてはいけない、
- 事実報道ではなく、ヤラセ演出で虚構を報道してはならない、などである。
(2)電波法4条は、したがって当事者のアクセル踏み過ぎに対してブレーキを報道業界の内規として設けたものである。それを担保するため(社)日本報道検証機構が設置されている。だからいわゆる一般法ではない。
高市総務大臣の無知をさらした恥ずべき発言といえる。あるいは政権批判は許さないという意味に解釈できる。
今回の事件で、放送法についての認識は田吾作レベルでも理解が進んだのではないか。
■「公正」は「公平」ではない
さて多くの巷の田吾作の床屋政談をきいていると、「公正」を「公平」または「均一」と誤解しているように思える。
私事であるが、筆者が現役のころ社から手帳が支給される。それには遵守すべき規定の細目が綴られている。
「記者行動規範」その二には、「公正」な取材とあり、関連してその六には取材・報道の独立をうたっている。つまり暴力的取材や取材相手への感情的配慮を怠ってはいけない、品位ある取材をしなさいと定めている。規定にあるということは、おうおうにして「公正」でない取材をしがちであるという逆説である。
問題はその六である。
『社外の第三者の指示にしたがって記事を書いたり、特定の個人、団体のために記事を曲げてはならないのは、言うまでもないことである。』
立派な規定であり、だれも異論はないだろう。
ところが、世評ではこの新聞社は、親米保守で政権擁護記事論調がひどくて顰蹙をかっているのである。どうしてそういう結果を招くのか?
記事は記者個人の「主観」が書かせるものである。
記事を書く段階で事実は取捨選択されており、取材事実は厳密には「偏向」しているともいえる。
この根本的問題はあらゆる記者が逃れることはできない。
新聞協会の新聞倫理綱領でも、「正確と責任」のくだりで『新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追及である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。』と規定している。
新聞協会は5W1Hには厳正であれ、真実追及のためには自分の信念に従ってよろしいといっている。それでは客観性は担保されないだろう、記者の主観で偏向するが、いいよとも解釈できる。
このあたりは現場では無意識に理解し問題はないのだが、原理的にはどういうことか?
放送側のことは具体的に確認していないので、不明な点もあるかもしれないが新聞と同様とみなして論を進める(テレビ局はすべて新聞社の子会社だから)。
「記者行動規範」にも「新聞倫理規定」にも、「公正」は規定していても「公平」や「均一」はどこにもない。
つまり5W1Hをベースに取材記事は事実を曲げてはいけない、しかしどう料理するかは記者の信念で書いてよろしいといっている。
新聞倫理綱領に不足があるとすれば、『世におもねらず』にプラス『権力におもねらず』と明示すべきである。
ジャーナリズムは元来権力から国民の知る権利を保障するものとして発生しているからだ。任務はそれ以外にないといっても過言でない。いま国民が騙され続け、田吾作と化している状態をみれば、ジャーナリズムがどういうものか逆に浮き彫りとなって、そのことが証明されている。ジャーナリズムの衰弱は市民社会の劣化と虚偽意識の蔓延をつくってしまう。そしてそのこと自体も国民には感受できないように劣化させる。
外国メディアの方が、はるかに正確な政権報道がなされているのはそういう背景だからだ。
■「両論併記・報道」の弊害
多くの生活保守の国民は、この「公正」を、「公平」とか「平等」という名にかりた「均一性」と誤解し、高市大臣の無知の側に与している。
違う意見がある場合は、「両論併記・報道」することが客観的で、「公平」だと言い始めるのだ。
マスコミは、教科書や啓蒙書ではない。
「両論併記」が「公平」ではあっても「公正」を担保するものではない。あるのは情報はタダだと思っている怠惰な田吾作たちだ。便利というにすぎない。
現実にはもちろん政府政策を解説した上でそれに批判的観点を付記するという形式をとっている。それで十分何が主張されているか判断できるはずだ。
過去に報道媒体が少なく情報入手しにくい時代はそれも一理あった。
いまこれだけネットも地上波も多チャンネル化しているなかで、メディア自身の主張こそがジャーナリズムの命である、と考える方が時代の合理性である。
また「両論併記」は、両論のそれぞれの多寡や比率は無視され、両論が対等のものとして扱われる弊害をもつ。
■「表現の自由」>「公平原則」
事実アメリカは、1987年「公平原則」は最高裁で撤廃されている。
「公平原則」は、むしろメディアの多様化した環境のなかでは弊害だと断定、社会のなかから多様な意見が現れてくることが大事であって、そのためには個々のメディア自身の主張を保証する「表現の自由」の方が大事なのだと述べている。
アメリカにあってはメディアはそれ自体が主張をもっていることが当然のことと前提されているのだ。
したがって、「両論併記」の「公平原則」は、むしろ「表現の自由」を阻害しかねないと結論つけた。
西欧先進国は概ねアメリカのこの「表現の自由」に準じている。
自由も権利も自らの血を流して獲得したことのない、お上に政治を預けっぱなしにしてきた田吾作国家は、抽象的な価値に盲目である。
ちなみに哲学では、デカルト的(自然科学的)客観性などは、ここ50年ぐらいの探究で無効になっていることを申し添えておく。
巷で使う客観性は、みなこのデカルト的客観性であり、対象の外にあって実験的に認識できると思い込んでるものである。
認識主体が、対象の内部に存在し、主=客が混然と世界を構成しているなかでは、間主観的認識となることは現代哲学では常識である。
もうぼちぼち客観性を古典的概念で使うことから目覚めなければならない。
メディアは「客観報道」でなければならない、という呪縛から解放される世論が民主主義を牽引していくだろう。
メディアはそれ自体が個々に主張を持ち、多様な意見が表現されることが社会にとっては大事なことだ。どのメディアも5W1Hだけが重視され、「公平」と「均一」に、権力が「表現」を規制することは民主主義を劣化させる。
さらに付け加えると、安倍総理のお友達籾井氏を会長に送り込み、政府放送局と化した日本版「中国中央テレビ」のNHKは、政党討論会に生活の党山本太郎を呼ばない。
NHKの規定では生活の党は小党ではあっても出演規定をクリアしている。再三の生活の党からの要望を申し入れているにもかかわらず、回答もなく外し続けている。
高市大臣は、こういうNHKには偏向と言わない。
結局不都合な奴らは殲滅せよ、その不都合の奴らが安倍政権のファシストたちからみれば、みんな民主主義者だから偏向しているとみなしているようにしか見えない。
ちなみに中国中央テレビは、NHKよりまだましだという意見もある。
まず地回りのヤクザまがいの視聴料を取らず、CM収入で経営しているからだ。
加えて、共産党政権のプロパガンダ機関を公称し、さも「公共性」だとか「公平性」だとか前面にだして視聴者をだまさないことである。
高市早苗が、日本のナチズム政党(日本国家社会主義労働者党)と付き合いがあり、刊行書籍には賛辞文をよせていることは周知の事実だが、これを海外メディアしか伝えていない。ドイツでは犯罪であり、欧米では公職につけない行為である。
また、彼女の経歴詐称も公選法違反である。アメリカの女性議員の政策秘書をしていたと申告しているが、実際は雑務(お茶くみとコピーとり)だった。
こういういかがわしい人物が日本の総務大臣なのである。
この放送法4条を曲解し、政府に従わない放送局はおとり潰しにする、発言の方向が解ろうというものである。
以下の動画は、この問題に危機感を覚えたジャーナリストが声を掛け合って記者会見したものである。
応えた人数がわずか7人というお粗末、マスコミはほとんど無視。
また、この高市早苗をある人物からの紹介で、鳥越俊太郎の報道番組に使ってくれと依頼があったが鳥越は断った。ところがその後田原総一郎が彼女を気に入ってマスコミにデビューさせている。橋下徹を気に入ったこともそうだが、田原はもうジャーナリストの眼は死んでいる。その田原が今彼女に異議を申し立てるという皮肉な結果だ。自分の視聴率のことしか考えないから、田原はテレビを面白くしてくれるキワモノを重用する。この電波芸者の自縄自縛が悲しい。
われわれは余程ジャーナリストの真贋を見定めなければならない。