映画「ミスター・ランズベルギス」鑑賞した記事を忘れていた、遅ればせながらーwww

2023.1.13のFacebook記事です。

忘れていたが、太田昌国さんのページに保存されていて思い出しました。

忘備録として遅ればせながら掲出しときます。

最近は、誰が読むわけでもないと思うと書く熱意も薄れているが、昨年はまだ一応書いているというレベルだなw。

久しぶりに感動した、
シアターから帰る途中、全く記憶を失くしている。そのまま映画の世界を出られずに没入していたのだ。
この圧倒的な迫力と崇高な感情はこれを書いている夜中まで続いている。
もう五、六年前に上京した折、太田昌国さんと会うと、今上映中の「チリ革命」がいいよと紹介され、渋谷道玄坂のミニシアターまで観に行ったことがある。このときの「チリ革命」以来であった。
 同様に長い映画で、4時間坐骨神経痛を抱えながら頑張った。
セルゲイ・ロズニツァ監督の「ミスター・ランズベルギス」。
アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭最優秀賞受賞作品。
ミスター・ランズベルギスとは、誰だ。
リトアニアソ連離脱独立運動のリーダーであり、独立自由派の最高会議議長のことである。
ミスターに込められた意味は、ソ連属国時代は、みな同士と呼び合った習慣に対してのミスターと呼び合うことで自由を求める人々の抵抗の意味を込めたもののようだ。
内容は、ソ連ゴルバチョフペレストロイカに始まる1998年から90年独立を果たすまでの3年間のソ連政府との攻防戦だ。
経過の詳細は長くなるし、既にご存じの方も多いと思うので、感想のみメモする。
リトアニアの民衆の一部がモスクワに直結しているリトアニア共和国共産党に対峙し、じわじわと多数派を形成し、数度にわたるソ連の軍事侵攻から祖国防衛を果たす。
その民衆の代表が音楽教授のランズベルギス。政治家でもなんでもない。(ゼレンスキーをコメディアンと嘲笑する親露派はしるべし、だ)
国内共産党保守派との闘い、ソ連との政治駆け引き、一貫としてひるまず、民衆の意思を政治的団結に高めていった。
その街頭を埋め尽くす200とも300万人ともいう民衆のデモと衝突の臨場感は、息を呑む。
ソ連軍の威圧侵攻が本格的な制圧侵略に変わって、民衆が銃弾に対して倒れ、最高会議が包囲されたとき、改革派は会議場に詰めかけた民衆の中から、即席の義勇軍を結成し、バリケードを作って戦闘に入った。若者が次々に手上げて軍人認定されていく重く決死の場面は、われらが世代はきっと東大安田講堂の「戦士」を連想しただろう。
ソ連側の事情でソ連軍の突入は免れた。
ソ連側でゴルバチョフリトアニア軍事制圧を認可して夏休で避暑地に行っている間にクーデターが起きた。
ランズベルギスの巧みなところは、即座にクーデター派を非難、改革派のエリツィンを支持表明。
ランズベルギスの回顧談では、ゴルバチョフは旧来のソ連大統領と全く同じソ連邦維持、権力権威維持の愚物だと言っているが、彼の交渉の経緯から、小生はペレストロイカでどうも過大な評価をしていたようだ。
エリツィンとの交渉で相互承認の条約を確定できたのは、3年がたっていた。
91年ベルリンの壁が崩壊。
明かにリトアニアの歴史的独立闘争である。
保守派、モスクワに通じる共産党などの謀略や裏切りにも果敢に闘った民衆は、みんな米国NATOに洗脳され、ランズベルギスら改革リーダは、米国ネオコンから裏金をもらって戦ったふりをしたのだろうか?
つまり米国とソ連の代理戦争をしたのだろうか?
まあウクライナ戦争で、そんな「物語」をしたり顔でロシア擁護をしている人は、この映画を観てみたらいい。
一貫として小生が批判しているこうした人たちの民衆という座標軸を欠いた戦争観は、根底的に修正されるだろう。
ランズベルギスは語っている。
ソ連軍の会議場包囲のとき怖くなかったですか、という質問にこう答えている。
人びとが殺害されていると報告が来た、本当に何人がしんでいるのか解らない、胸がいたんだ。しかし退いたら国民を裏切ることに成る、私は国民に託されているだけなのだからと。
これに呼応するような民衆側の感動的な言葉は、バリケードをつくつている若者の言葉だ。
警察官が、こんなところに置いたら通行の邪魔になる、責任者は誰だ?と問う。
若者は「群衆さ」と!!
革命とはそういう状況がリーダーとマルチチュードの関係性として出来上がったときだろう。
また私が羨ましく思ったのは、リトアニア民衆は、集まれば100万人単位の合唱が起きる。いつでも歌う自分たちの国歌をもっているのだ。歌詞がまた国民と末裔に伝えるいい歌詞だ。
日本人はどうだ? 天皇の御代を永続させようと歌う。日本人は反米独立運動などおそらくやらないだろうが、万一米国属国を離脱しようとして、米軍がハードに軍事制圧した時に、デモで歌う歌があるのだろうか?
今考えれば、私たちの若い時インターナショナルだとか国際学連の歌とか歌ってたが、スターリニズムの歌ではないか、恥ずかしい。
日本には国民的に歌える連帯と抵抗の歌がないのだ。
結局独立も抵抗も志さない人々ということになる。
蛇足だが、パンフに浅田彰がコメントを寄せている。
「粘り強く論理的に戦い抜いたランズベルギスの姿を浮き彫りにする名作だ」。
「論理的に」とはどういう意味だ?
なにやらゼレンスキーは喜劇役者で政治経験もない無能な男だと親露派が腐すことを想起させるではないか。
リトアニアも数度のソ連軍侵攻と国民の抵抗はあり、義勇兵まで募ったのだ。
ランズベルギスの幸運は、ソ連解体の進行過程で、ソ連指導者の自由への傾斜が加速している次期だったからだろう。
しかし、ランズベルギスは言っている、いまでもロシアには領土拡張と権力と権威にしか価値を置かないスターリニズム政治指導層は綿々と続いているのだ。
このランズベルギスの言葉を私たちは決して忘れてはならない。