ビートルズとその後の東欧諸国の動き

今夜(2013.6.19)の「映像の世紀」はよかった。
書き始めると止まらないくらい色々思い出があって、寝れなくなりそうだから止めとく。
一つだけ忘れないうちにメモしておこう。
ジョン・レノンが、ビートルズは60年代という時代がつくった、自分たちがどうこういう存在ではない、と適確に自己認識していたこと。
また、60年代新しい世界を発見する船であったとも。
 貧しい学生時代にビートルズを聴く機会は意外に少なかった。
ステレオどころか、テレビもラジオもなかったから、喫茶店で聞く程度だった。
携帯ラジオを買ったのは71年だから、それ以降馴染みができたというのが正確で、「USSR」や「アビーロード」など後期のものをよく聞いた。
年取るごとに味がわかるようになって、CDも全アルバムを持っている。
衝撃は、娘の音楽の教科書に「レットイットビー」が載っているのを知ってオッたまげた。
なにか換骨奪胎されたビートルズのような気がして落ち込んだ。
それより少し追いたかったのは、ビートルズのその後の長い影響力だ。
ペレストロイカを唱導したソ連ゴルバチョフ大統領は、ビートルズのファンだった。ポールがその頃ソ連公演を初めて行い、ゴルバチョフと仲良く写真に納まっている。
エストニアのエヴォンは自分で作ったエレキギターを抱えてビートルズのカバーをアングラで歌っていた。
ペレストロイカ後、エストニアは数万人を集めてロックコンサートが開かれ、エヴォンはエストニア民族賛歌の自作曲を大合唱した。ゴルバチョフは、連邦の自治国としては認めるが、ソ連からの離脱は許さなかった。
しかしみるみるバルト三国は独立に進んでいく。
チェコアメリカのロックグループをたまたまアメリカ訪問した劇作家が、ひそかに持ち帰ったレーコードから若者に30年間アングラで演奏され、その地下組織が基盤となって独立運動を成功に導いた。
初代大統領はその劇作家だった。
リトアニアは、こうした音楽の影響があったのかどうなのかはさだかではない。
少なくともジーン・シャープの非暴力闘争論が、指導層に読まれた結果、国民はソ連軍侵攻に素手で対峙し、100人未満の犠牲者で撃退した。
 
またこのころ、東独ではジョーン・バエズがやはり音楽祭だったか単独だったか訪問して歌を披露している。
ジョーン・バエズは、この訪問で、ウクライナ民謡の「花はどこへ行った」を知り、持ち帰って、世界的ヒットを飛ばした。
私は、音楽に疎いし、ただ癒しにきくものだという程度の認識だったが、音楽が直接人々の情動を震わせ、自由への精神をうねらせるという影響力に驚いている。
こうした東欧圏にどう影響し、ソ連離脱運動を醸成したかもっと詳細の報告が欲しい。
まだまだ分からないことは多い。
ウクライナはなぜ非暴力闘争を組織化できなかったのか。