今日は久しぶりにほのぼのした一日でした。
マックで中学生女子二人が、いきならチキンナゲット二切れを持ってきて、食べてくださいと差し出してきた。
こんな爺さんに優しい声かけをしてくれるとは!
みれば一人は石原さとみ似の超美人ではないか!
わたしはぐずぐずいって断った。いまや最も良質な批評誌へのお誘いにもかかわらず、後ろ髪をひかれながらも断ってしまったのだ。(今後悔しているが(笑))
というのは、笠井の若き日の「革命論」らしき論考を共感をもってよく読んでいたこともあり、今回の著書は彼らしいが今の私にはボリシェビズム否定の原則を維持したいいものだとは思ったが、原則のところでとるべきベクトルが逆に思ったためもある。
他国に攻められたときは、パルチザンとなって国民一人一人が銃をとって戦うのだと提案するのだ。
いわばスイス方式。
これは若かりし頃私も同じようなことを考えたことがあった。
問題は、その過程をどうするか?
これならば、小西誠氏の「銃など捨ててみんなで逃亡する」方がはるかに現実味があるように思ったのだ。
ロシアの青年たちがどんどん国を捨てている。人を殺すより、祖国を捨てる時代になったのだ。祖国防衛などクソクラエだという根底的「非暴力闘争」が21Cの戦い方の方が気分にあっている。
そして私の提案してきたのは、「9条インターナショナル設立」と国連改革と国連軍創設の三点セットによって、ヘーゲル的カント的統合世界秩序の構築を夢見ることがやっと現実味を帯びてきたという認識である。
つまり、交戦権を捨てるには、仮想敵国を前提にしか成り立たない国民国家を、資本の法的統制根拠とする権力過程を管理過程に変容させることができないか、それによって国権の発動たる自衛戦争を認めないというカント的「統制理念」=永続非戦論を志向するしかないだろうと思うわけだ。
イメージの段階で、論理的根拠を提示する方を急ぎたいという気持ちがあったためだ。
暴力的抵抗運動より理念で平和を!
笠井潔とベクトルが逆ではないか、という思いがしてならなかった。私の荒っぽい読み方が誤読であれば抹消していただきた。
こんなことを書くのは、ひそかに課題としてきた精神科医療分野勉強がやっと踏み出すことができたためだ。
女子中学生のチキンナゲットの話とともに、このようなバザーリアの箴言にであった喜びの日、回り道したがこのことを記したかったのだ。いくつか紹介しておこう。
*
■もし誰かが何かを成し遂げるとしたら、それを行うのは実践のなかです。
ですから私は次のような代替案を提案します。「理性の悲観主義」から「実践の楽観主義」へです。私たちが世界を変革できるとしたら、これしかありません。
さもなければ、さもなければ私たちはいつまでたっても独裁者や軍人や医師の奴隷のままでいるしかないのです。
■私たちがマニコミオに対して「ノー」といっているのであり、自由な境遇を求めて世の中で闘っているすべての人びとと連帯しているのです。
■希望は私たちのなかの矛盾の表現としてあるべきです。なぜなら他者とは、病人とは、もうひとりの私たちだからです。
*
何年前になるか、イタリアを訪れた折、なんとかバザーリアに会いたいと願っていたが、あいにくローマで熱をだして一日ホテルで寝込んでしまいかなわなかった。
WHOから日本の精神病院の非人道的人権侵害を指摘され改善勧告が来ている。
入管法職員の非人道的振る舞いや法的問題には大騒ぎするが、年間10人が殺害されるマニコミオ、その監獄より酷い非人道的扱いや退院死亡率80%という劣悪な治療環境についてはリベラル派もマスコミも野党も沈黙だ。
ジョージフロイドやウィシュマの問題には大騒ぎするが、
精神病患者の人権侵害はまったく知らぬふりをする。
ここには、人権や差別をファッションのごとく自己正義の満足感で弄ぶ人々はいても、バザーリアのように本気でマニコミオを廃止しようとする日本人は少ない。
わたしがエセリベラルと蔑む理由はこういうことである。
あなた方は、保守右翼同様、精神障害者は人間から除外しています。
人権の対象から精神障害者を除外しているエセリベラル、近代の「理性的人間」観にどっぷり洗脳されたサルにすぎないのだ。
バザーリアは偉大だ、イタリアからマニコミオを全廃し、患者を解放した。
(Facebookより転載)