「24時間テレビ」に出られる人、あとはパラリンピックに出られる人、で止まってるんじゃないか、それ以外の人たちの存在については無視されているんじゃないか。それから、この事件が人間存在の根源的な問題を孕んでいるということをおそらくみんな何となく無意識でわかっていると思うんです。だからこそ目を背けるんじゃないかという不安があります。
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これは篠田博之というジャーナリスト&エディターの映画「月」についての上映後の報告文の一節である。
これは、何となくではなく、近代の人間がそのような無視を「一般的常識」としてきたのである。
つまり明確に意識的に障害者を近代の「人間外存在」として社会を構成してきたのである。
ホッブスもロックも近代の設計図として、理性のない生き物は人間でないと規定しているからだ。理性が人間と他の動物とを区別する基準だと。
ルソーもカントも、いくらかの差はありつつも理性が行為の動機をなしていることを条件としている。
殺害犯「さとくん」が、「心」の有無を殺害の規準としたが、こうした近代の人間規定の一般常識を踏襲しているのである。
「心」は、ざっくり言ってしまえば、自己意識であり、自他の区別がつけられて、思ったことをコミュニケーションできるということだろう。
その為には、近代的人間概念を設計したホッブスもロックも、「意識の同一性」を条件としている。昨日の人格と今日の人格が同一であることである。昨日と今日の人格が変わっていると他人は同一人物と認識できなくなるからだ。
会うたびに同一の名前は名乗るが、顔が違う、いうことがコロッと変わっていると、継続して同一人物とは認識できない。そうすると契約の自由や個人の尊厳を守ることが不可能になるというわけである。
それゆえ、近代の法体系(社会契約=一般合意)は、後見制度を設けているのである。理性的人間を補佐につけた。
意識の同一性が認識できない者は、人間存在から外し、それを当然のこととして近代法はできている。
障害者のなかでも、コミュニケーションが取れる人と他者がみて取れない人ー実際は自己意識があっても言語的機能障害だけの人もいるのだがそれも「心」がない方に入れてしまっている。そこを「さとくん」は勝手に見極めて殺害に及んだ。
つまり、カントは「感性」も人間の持っているもので、「理性」が働くときもあるとしている。「感性」は欲望と快不快の体系である。自己意識があって言語機能障害だけの場合ー他人の言うことは理解できているが発声は「レロレロレロレロ」ー
は、カントにおいては人間なのである。ただしそれだけでは自由も道徳的善もなしえない点で、「理性」的人間には及ばない。
なぜ、身体障害者や精神病患者に対して、無頓着が蔓延してし、酷い人権侵害が起きてもマスコミもほとんど報じないのは、このような人間規定が一般化してきたからである。
精神障害者には、裁判所も関知せぬまま強制措置入院や身体拘束が平然と実行され、また警職法では「精神錯乱者」は警察官が自己の判断でその場で殺害してもよい、警察官の正当な職務と規定しているのである。「ケンタ君殺害事件」は路上で殺害されたが、職質の警官は一度も精神障害者に接触したこともなく、扱いの訓練も受けていない、そうした警官が逃げたというだけで「精神錯乱者」と認定し殺害した。五人の警官は最高裁で全員無罪。
つまり殺害犯「さとくん」とは、我々の常識のことである。
だから「さとくん」は、何度も周囲の同僚職員に、「あなたも同じ考えですよね」と問いかけていたのだ。しかし、宮沢りえも誰も「あなたとは違う!あなたの言うことは認めないー!」と絶叫するだけで、間違っている根拠を反論できていない。
しかし監督の得点は、そうした日常の「常識」を浮かび上がらせ、超えていく論理を明示できていない私たちの世界を痛ましく描こうとした。表現論として成功しているかどうかは横に置いても、この現代人間論のアポリアを指摘した点で優秀であることは間違いない。
ほとんどの日本人は、精神医療法を改正しろとも、WHOの精神医療人権侵害の勧告を受けても当事者家族会以外歯牙にもかけないのである。
警職法などさらさら問題視もしない。
近代の人間規定を必死に超えようとするのは、従って現実にそうした不具合に直面した数少ない当事者家族や医療関係者、あるいはごく少数の哲学者だけである。他は、言ってしまえば医療のキュアーとケアーであって、それらの虚しい善意=関係者の広い意味での「良心」のヴァリエーションである。
では、こうした常識を変えてきた先進国、特に精神病院を全廃したイタリアなどはどうしてきたか。機会があればまた紹介したい。
これが、「月」の提起した問題であって、核心を外した粗雑な論評であってはならい。
少なくとも、このような重い世界の根底的転換を射程に捕らえた監督は貴重であり、判り切った結論が出ている戦争や差別映画などを撮っている監督より貴重であることは確かであるからだ。