小林著「平成令和学生たちの社会運動」討論と警職法改訂へのシンポジュウムーzoom会議にて。

昨日(土曜日)は、
哲学ローカルトレイン研2時間、
警職法改訂へ「安永健太さんの悲劇を繰り返さないための提言」4時間半、
の二本をこなした。
ベッドで寝たり起きたりなので、何とか乗り切りました。
長くPCを打てないので簡単にメモしておきます。
①哲学
林哲夫「平成令和学生たちの社会運動」読書討論。
本自体は、従来の学生運動ものの実績から手慣れた網羅的な処理は全員評価した。
しかし、その網羅の仕方が粗雑すぎないか、すなわち著書には著者のコンセプトや思想性が貫通していなければならず、それにしては対象への掘り下げが甘くかつ軽薄であるのはなぜだ。
傾向としては、小熊英二並の、意匠を変えて、「新しい運動」をセールスポイントにしてしまっているのではないか、という厳しい意見も出た。
とくに全共闘との対比を随所にはめ込んでいるが、小熊並の俗説や捏造を平気でさも全体を表象するものとして記述するのは、軽い書物だけに学生運動に誤解や予断を持ち込み、運動の連続性ではなく切断を意図的になしているのではないか。
連続性の主軸が、暴力性の問題に限定されているきらいがあり、全共闘も党派間ゲバルトもごったにしてしまっている点で、問題だろう。
小林は、平成令和の学生が組織的ではなく、個々人が立ち上がって社会的矛盾にコミットしている点を、大きな違いで「美質」であるように描いているが、それは全共闘運動が党派を嫌い個々に共闘会議を結成した「美質」の最も継承している点ではないのか。
まあ長くなるので、この辺でやめるが、これは大方当時を知る私らの世代の意見でした。
若い人は学生運動自体をしらないのが多いから、とっかかりに手にするには手ごろでいいというのが、学校関係者でした。
私は、歴史修正主義は右からだけではない、左からの文化左翼によってもなされたのが平成だと主張してきた。
平易でとっつきやすいほんだとしても、間違った記述は許されない。
例えば、シールズの発言に「僕らが民主主義をつくればいい、なぜ、戦後民主主義の再生産を考えないのか。民主主義を否定するよりもリセットさせるべきでしょう」と、全共闘戦後民主主義が欺瞞的であったと定義していた、と小林は前振りしつつ、この記述をかぶせている。
たしか奥田某の発言だったと記憶しているが、小熊らが流布したデマをうのみにしている学生がいたら、その発言は記載してもいいが、せめて発言内容や事実誤認があった場合は、註を付けるなりして間違いを指摘しておく配慮が欲しかった。
繰り返し主張しておくが、全共闘戦後民主主義が不徹底である、よって実質的な民主主義を求めていく、というのが正しいスローガンである。
でなければ、さまざまな分野で、まがりなりに法的改訂や整備が進むわけがないだろう。
それから、過激派と内ゲバ暴力が同一に語られているように思うが、民青同が東大闘争で、バリケード解除のために数百人のヘルメット部隊を用意し夜陰に紛れて投入したことを小林は知っているのだろうか。
民青同こそが、ゲバルトの本家であり、「過激派」であったことを付記しておく。
警察官職務執行法の「精神錯乱者」は国際的に恥ずかしくないのか?
ー安永健太さんの悲劇を繰りかえさないための提言ー
いわゆる「健太の会」の活動の一環です。
知らない人に説明しておくと、
14年前、安永健太君が、佐賀県警トロールのパトカーに追いかけられ、知的障碍者のため大きな音にはパニクってしまう特徴がありましたので、逃げた結果、信号待ちのバイクに追突し、警官五六人に取り押さえられ、施錠されたまま約10分ほど路上で圧殺されました。
ご記憶がありますか、そうです、米国のジョージフロイド事件と全く同類の事件が、日本ではすでに10年以上も前に発生していたのです。
日本人のおかしなところは、自国民の権利問題には全く頓着せず、外国人の権利問題はマスコミ上げて、左派モドキの学生がファショナブルに「ブラックイズマター」といってはしゃぐことです。
とくに左右を問わず、優性思想をソフトに維持し続ける日本人は、障碍者精神病者の権利には全く取り上げず権利問題としては退けてしまうところです。
遺族は訴えましたが、最高裁でも、警察官の行為は職務執行で合法であったと断定され、敗訴しました。
その根拠は警察官職務執行法にある「精神錯乱者」とみなしたものは拘束を合法化しているからです。
このように規定は、国連人権委員会に加盟している国にはどこにもありません。
この言葉自体が極めて当事者からすれば侮蔑的なもので、健太君は温厚でゆっくり喋ればだれとでもコミュニケーションが取れていました。みんなにも愛されていたのです。
「警官がこいつは精神錯乱者」だときめつければ、全て施錠して圧死させるほど抑え込んでも合法化されるのです。
病状には個性があり、それを警官は熟知して、あくまで「保護」することが世界標準なのに、日本の警官は裁判で初めて障碍者と知った、また接した、それまでどういう態度をとるかなど全く知らなかったと陳述しています。
そういう未熟練の警官に職務ができるように法律は「精神錯乱者」という言葉を規定して、殺害もありうることを保障しているのです。
長くなりますが、14年たってやっと警職法改訂への全国関係者の大同団結が進み、そのオンラインシンポジュウムにこぎつけました。
医学的に考えるのではなく、社会モデルとして考える。
社会の側が障碍者精神病者を問答無用に「精神錯乱者」として決めつけるのではなく、障害者の自己決定権を社会が支える、という視点の転換をしていく必要があるように思います。
JA.WIKIPEDIA.ORG
知的障害者身柄確保死亡事件 - Wikipedia