障碍者施設無差別殺人事件と草の根ファシズム

一昨日(2016,7,26)神奈川県の障害者施設で無差別殺人があったときき、とうとう日本もファシズムが露出してきたと痛切に感じた。
犯人植松聖(26)は、襲った相模原市障碍者施設「津久井やまゆり園」の元職員。予告を繰り返し、殺害した対象者はコミュニケーションの取りにくい重度の障碍者ばかりを選別して殺害したという犯人の何らかの基準をもった計画性の高い犯行だったようだ。ここがこの事件のファシズム兆候を見て取れる鍵だといえる。

1999年に都知事石原慎太郎が、都下の障碍者施設を訪問して、
障碍者に人格があるのか」、
「ヨーロッパならみんな切り捨てられるはずだ」
安楽死ということも考えられる」
等々発言して物議をかもした。

石原は数日後の記者会見では、モノカキとして、一人の人間として考えさせられた、人格を否定しているわけではないという主旨の言葉で煙に捲いたが、彼は人間としての人権を認めるのは疑問であり、自分が何者かもわからないのだから安楽死をもって「処分」してもいいのではないかという意味を暗に発していたのである。

その前1977年には、環境庁長官時代に、水俣病患者の直訴文をみて、
「IQの低い人が書いたような字だ」
と暴言を放った。
病気特有の手足の震えをこらえて必死に気持ちを訴えようとした患者に、平然とこういうむごい言葉を吐いたのだ。
さらに、
「偽患者もいる」と暴言をはき、結局患者の前で土下座して謝罪をしている。

また、
「生殖能力なくなった女は生きている価値はない」
とも。
女をただの生殖マシーンとして考える男尊女卑どころか、そうした人権否定のマッチョな考えが、実はファシズムに特徴的であることも知らずに、得意に作家という特権的立場なら許されるという態度をとってきた。

今回の犯人の衆議院議長への直訴状をみれば、石原や右派論客の考えとほとんど変わらない。とくに犯人がこの殺傷を「美しい国」だとか「世界平和のために」だとか、安倍総理ら右派勢力が日ごろスローガンにしている国家と全体性へ吸引する思考に満ちている点を見過ごすことはできない。
ほとんどが、右派が使う用語のパッチワークである。

石原が多くの国民に批判されつつも、特異な作家や右翼サディストらの思想を共有した若年層がどんどん増えていった。
犯人植松もかなりのネトウヨで、ツイッターのフォローには池田信夫、田母神敏夫、百田直樹など俗悪右翼著名人がほとんどであると報じられている。

2000年以降、在得会のヘイトスピーチブラック企業の若者脅迫的拘束労働、橋下徹の職員思想弾圧など従来なかった事象である。

この障碍者への蔑視は、誰かが一方的に社会の役に立たない、と主観的に断定すると、殺処分すなわち安楽死が妥当であると決定づける思考法である。

主観的判断は、もちろん権力者(政治権力とは限らない、フーコーの言うあらゆる権力)であって、決して社会的に「役に立たない集団」側ではない。

さらに2000年、自衛隊の式典挨拶では、
「不法入国した第三国人(戦前の植民地住民の蔑称)が凶悪犯罪をくりかえしている。こういう状況で大きな災害が起きたら大きな騒擾事件すら想定される」と発言。
この考えは、関東大震災朝鮮人が井戸に毒をまいたという嘘が流布され、1000人が暴徒に殺害された事件を踏まえている。つまり虚偽を本当のこととして憂慮しているわけだ。

飛躍するようだが現在安倍内閣が、憲法改正で狙っている「緊急事態条項(http://mainichi.jp/articles/20160202/dde/012/010/006000c)へ根底でつながるのである。

つまり首相権限で、憲法からすべての法律、人権、結社の自由、表現の自由は停止できることになるのだ。ナチスの全権委任法である。いかなる事態にあっても人間の諸権利を基本的に停止することは民主主義にはタブーである。それは必ず強者の弱者への迫害を伴うからだ。自治体首長のアンケートでも災害時を想定して緊急事態法は不要、現行災害救助法で十分であると100%回答されている。にもかかわらず、それを理由に進める時点で立法主旨は別にあることを推測して余りある。

話を戻す。
ありもしなかったことを前提に、或いはひたすら人権を嫌悪する思想で、自分たちの都合を法的根拠によって正当性をもたせる─これが堂々と権力者と唱和する国民で進行させられているのである。

こうしたマインドは、観光地にも表れていて、軍艦島のガイドは最近過去に「朝鮮人が連れてこられて働いていた」という説明を止めた。
それは観光客の一部から、ありもしない事を言うなと抗議されることが多く、それをめぐってギクシャクするのは、他の客を巻き込み不快な思いをさせるのでやめましたと証言している。
従来史実としても当然のことで、現地では皆が知っていた事実である。
これも「新しい教科書をつくる会」など右翼の「歴史戦」の結果であろう。国家主義者に不都合はすべて教科書から消し去る、不都合な発言は圧力で潰していく。これが1990年代の「成果」である。

無知なB層は、小池百合子が鳥越候補を、「病み上がり」と揶揄して、病気したような人間は役に立たない、知事の仕事なんかできないと言ったことに何の反応も示さず支援している。公的にいうことではなかろう。政策そのものの批判はあって当然だが、人格、病気をネタに公然と貶める感覚はなかった。あったとしても私語の範囲で仲間内でささやく性質のものだ。
こうした人間としての感度ががたがた落ちていることを明白にさらしている。

「役に立つ/役に立たない」は、「要る人/要らない人」へ置換される。
そしてさらに一定の条件が整うと「隷属させる人/殺していい人」へ分類される。

松浦信也氏の発言を引用させていただくらば、

「先天性の障碍者とは、あり得たかもしれない自分で、後天的な障碍者は「あり得るかもしれない自分」だ。
彼らの生きやすい社会を作ることは、自分が生きやすい社会を作ることに他ならない。きれいごとに思えるかも知れないが、他の道はない。排斥と抹殺は、自分を排斥・抹殺することに他ならない。


すなわち、人間の社会の営みは、一定のグルーブにとって役に立つかどうかではない。
近代の理念は、封建制度から離脱する基本的原理として、「人権」と「自由」を必然的に招き寄せた。
それの前提には、社会に生きとし生ける者は、「対等のメンバーシップ」というマインドをルソーもヘーゲルも獲得したのである。
近代の自由と人権を享受している者は、これを否定することは、自らを否定することであって、昨今の右翼のアクロバティックな思考方法は奇形にすぎない。