新型コロナ対策中間レビュー、「疫学は疫学で、倫理で語るな」。

吉本隆明箴言が改めて光る。

吉本の「反原発運動批判」を批判し、
吉本は原発継続を肯定している、という頓珍漢な批判を誤読だと書いた。(『俳句のアジール』)

このコロナ問題をみていると、

もっと単純に理解できるだろう。

「疫学は疫学で、倫理で語るな」と私はもじって言ってきたのだが、やはり原発と同じ迷路にハマっている。

疫学的にいえば、人の接触を断つ、十分な医療体制と治療をする、特効薬とワクチンを開発する、こういう医学的深化をするしかないのだ。

しかし、安倍右翼官邸は、オリンピツクのために感染者抑制を狙い、専門家会議はひたすら「医療崩壊」を怖れ、感染者の判定と命を後回しにして、医療システムを守ることを優先した。
感染ピークアウトをなだらかに後ずらしにしようと企図した。

少なく見せる官邸、医療システムを優先した感染専門家会議、両者の後ずらしは見事に上手くいったかにみえた。
しかし呉越同舟、オリンピックにひっかかり破綻、専門家会議は検査を絞り込んだ結果、市中感染を見逃して、感染者が病院に忍び込み医療関係者の感染拡大をもたらした。

素人でもわかる失敗をエリートたちは行ってきたのだ。
私のように、いち早く中国人入国禁止措置、マスク着用、検査徹底を言わなかったのだ。
これに反対した言論人も既にコケている。
倫理で語った結果である。

さらに、左翼人権派は、この国家による外出自粛要請に反対し、期せずして安倍官邸と同期し、人的交流規制を牽制してきた。
いままた、外出する国民への強制禁止措置を批判する、ないしは明確に禁止しろとは言わず、口ごもっている。

そんなことを言ってる間に、ウィルスは蔓延し、人権派の意図とは別に人命をより多く失う結果に誘導している自覚はない。

人権派は戦前事例の極端な例を持ち出し、或いは恐怖をあおり強権を牽制するが、ここには国民への信頼がない。

安倍官邸と人権派は、国民を信じていない。

「倫理を持ち込むな」、疫学的追及だけが、我々を救う。

近代原理は、このケースを想定していない。
原発はまだいくらか近代原理で語れる余地もあった。
しかし、ウィルスは違う。

わたしたちが注意する場面は、
今後発生する、より強権で規制する場合の警察権力と市民間過剰反応に対してである。

人権派は、その場面でこそ腕をふるって欲しい。
そこでの警察権の過剰行使の監視と、市民が市民を不当差別する、そのステージでのみ要請されている。

もっとも、ニューヨークでは、
警察官も感染で壊滅し、市中にはほとんど姿は消えた。

空漠としてたニューヨークの街を闊歩しているのは、
浮浪者だけになっている。
可視的に、「近代理念(倫理)の物質化」は消失したのだ。