吉本隆明は正論だが、なぜ被害者・被災者を冷たく突き放すのか?

詩人の添田馨氏が、吉本はなぜ原発デモの人やオウム被害者を冷たく突き放しているのか、原理論としては正論であることは間違いないのだが⋯と疑問を呈してこられた。

詩人らしい繊細な読み方だと感心させられて、言われてみると確かにそう感じなくもない。

しばらく頭の隅に残った。

たまたま図書館に最近刊『吉本隆明全集』があったので借りてみた。もやもやしていた先の疑問にふと接続したように思えた。

筆者の仮説にすぎないが、自分なりに腑に落ちている。

 

吉本の個的体験に根差した、心情、心理、思想原理の基底だから誰もとやかく言えない領域にねざしている。

一つは、世相の常識ないし趨勢となったものには、必ず懐疑し、原理的に組み立てなおしをする。
それがファシズムに加担した内省として思考の原点とする。いわゆる思想者としての「ふるまい」なのだ。武道でいえば、瞬時に敵の動きに体が反応するレベルといっていい。
そこには、大衆を牽引するエセ「識者」と「マスコミ」への反発と憎悪に近い形の心性がたぎっている。
すなわち、絶対正しいことを、安全な場所から発信する、スタイルへの無効宣告。

また大衆の倫理観が正しいとして、個人が、個人として自己との違和から発生する領域(文学、宗教)まで潰す場合は、社会ファシズムとして糾弾する、それは相手が誰であっても思想の原理として立脚する。

二つ目は、2000年前後からはボケていた。
そのため、若き日の心の傷になった組織や関係者、特に共産党や同伴のソフトスターリニストの影がちらついたものには、嫌悪感から、大衆ともども「運動体」ないし「党派(性)」へは徹底した原理論で切り捨てる。

一と二は、共に通底する心理なのだ。

戦争遂行に熱狂する大衆が目に焼き付けられた終生の体験が、条件反射的警戒心となって、それを梃に思考する。

東洋インキ労組時代の共産党の対応に心底腹を立てた。労働者の味方であるはずがないという、思想の確信がある。共産党や進歩派が煽って大群衆のデモをみると、骨の髄から反発する心情が湧いてくるはずだ。(その風景は、吉本には戦前の天皇制下における大衆の姿とも重なるったのではないか)

こうした彼等への憎悪と絶望は、ボケて更に先鋭に、或いは妄想として断続的に激しく露出する。

この複雑な心情や心理は、闘争を担い、瓦解していくただ中で、敵対者や仲間の裏切りを体験したものにだけ固着する疵であろう。
誰しも老いの過程は、青春期の体験を純化して逆戻りするのは、吉本も逃れることができなかったことを知らせる。

娘たちの回想記を読むと、原発事故の頃には既に断続的なボケが報告されており、
共産党からの被害妄想が奇妙な行動をとらせていたとのことだ。

ソフトスターリニストに引きずられて、バカな真似するんじゃない、大衆はもっと自分で考え、孤塁を築いてくれというところが本音だったのではないか。

小生の個人的体験を重ね合わせると、吉本を駆動させていた「影」が透けて見える。