映画『狼をさがして』(東アジア反日武装戦線)上映会&講演録ーキム・ミレ監督&太田昌国&望月至高

『狼をさがして』(東アジア反日武装戦線)大阪上映会の講演録         2024年09月22日

(第1部)太田昌国   「映画『狼をさがして』に描かれた人びとをめぐって」

(第2部)望月至高  「大道寺将司の俳句について」

 

(挨拶)自主上映実行委員会の望月至高です。本日は足元の悪いなかご参加い
    ただきありがとうございます。東京から太田昌国さんを迎えて「東ア
    ジア反日武装戦線」50周年として彼らの闘争、また被害者の供養をする
    意味で、いろいろ語っていただきます。

    太田さんは、大道寺将司死刑囚の従兄で限られた接見人の一人でした。
    ご存じのように批評家として、また民族・植民地問題の在野の研究家と
    して知られています。

    今日全体の進行を務めてくれている鈴木耕生君が―、皆さん森友学園
    事件をご存じでしょう、あれを木村真さんと二人三脚で追及闘争をして
    くれた青年です。また最近では大阪生コン労組弾圧事件、約60人近い労
    組員が一斉検挙された事件ですが、これも支援闘争やってます―、鈴木
    君が私の引っ越しに書庫を整理しに来てくれました折、太田さんの本を
    見つけて、僕この人好きだと言って、太田さんの本をみんな持って帰っ
    てしまいました。太田さんはこのような頼もしい若い世代にもファンが
    いる方です。
    では、太田さん、お願いします。

(第1部)映画『狼をさがして』に描かれた人びとをめぐって     太田昌国

今日のテーマである「東アジア反日武装戦線」が活動していたのは、今から50年前、つまり半世紀前のことになります。中心的な年度は1974年から75年にかけてです。映画で語られていた三菱重工前の舗道に爆弾を置いて大勢の死傷者が出た事件は74年8月30日ですから、まさしく50年前の出来事だったのですね。

そして来年の5月19日はメンバーの一斉逮捕がなされて50年目を迎えます。ですから今年から来年にかけては、多くの人びとの記憶に残る三菱爆破事件が起こり、その後の一連の行動を担ったメンバーが一斉逮捕されてからちょうど50年を迎えるという時期を捉えて、現在東京では「東アジア反日武装戦線の50年を考える連続講座」を行っております。彼らがやったことが何であって、それがどのような意味を持ったのか、ということを振り返る、全10回の講座です。昨夜は4回めの講座でした。

さて、ご覧になられた映画『狼をさがして』は、韓国でのタイトルはそのものずばり『東アジア反日武装戦線』というタイトルで公開されました。日本では、このままの原題ではちょっと恐れて、人が来ないのではないかといういうことで、監督と相談の上『狼をさがして』と変えて、2021年に封切られました。これでは、野生動物の狼を探してというような感じのものに勘違いされるぞというクレームも受けながら、ともかくこの形でやってきているわけです。

映画の中に、懲役刑を務めあげて出所した浴田由紀子さんが、最後の方で宮城県にお住いの荒井まり子さんとお母さんを訪ねるシーンが出てきました。それで、浴田さんが壁に掛けられている荒井さんのお父さんの写真をみて泣き崩れるというシーンがありました。荒井まり子のお父さんという方が、一斉逮捕になってからすぐ家族会という形で、娘や息子たちを支えるうえで大事な動きをされたんですね。だから浴田さん自身は、逮捕から2年目の1977年に日本赤軍ダッカ事件で国外へ釈放されますから、当初彼女が獄中にいたのは約2年ちょっとだったわけですが、その2年の間に、荒井政夫さんたち家族の人びとが、どれほどまでに力を尽くして救援に当たったかということを彼女は実感として持っているわけですね。加えて、浴田さんが1995年にルーマニアで逮捕されて強制送還された時点では荒井政夫さんはご存命でしたから、亡くなる2004年までの交流もある。それで、あのような反応になったわけです。

他にも数多くの救援メンバーが出てきて、反日に対する救援活動が50年間ずっと続いてきたことがおわかりになったと思います。50年間一貫して関わっているメンバーもおりますし、私もそうですが途中から関わっているメンバーもいる。世代も随分と幅広いです。その救援会が出したニュースを、最近のものを複数号持ってきましたので、あとでご覧になってお買い求めください。一番最近の号が343号です。松下竜一さんの『狼煙をみよ』をお読みになった方はお分かりになるかもしれませんが、初期の段階の救援活動には狭さがあったという反省から、逮捕後5~6年の段階で救援活動の再編が行われます。より開かれた形で、何とか輪を広めながら活動を展開していこうということで、1981年に今の救援会が活動を新たに始めたわけです。すると、現在まで43年間ということになりますが、その間に、16頁とか12頁の薄い機関誌ですけれども343号までそれを出し続けるくらいにまで救援活動が持続的に行われて、今日に至っているのです。がっちりとした政治党派には「救対」というのが必ずあって、政治的弾圧を受けた活動家を救援するということを組織的に行なうわけです。もっとも、そういう党派自体が現在では活動力を減じていますから、もはや実感が沸かないでしょうか。かつて存在したそのような党派でもないのに、なぜ、家族や市民の手でここまで救援活動が続いてきたのか――そのことを考えるとが、同時に彼らがやった行為をどのような視点から捉えるかというところに繋がっていくのではないかと思います。

そのように救援活動が持続して行われてきているのですが、ご覧になった映画でもあるひとが語っていましたが、当初の10年間ぐらいの公安警察による救援活動への弾圧は酷いものでした。些細な口実によるガサ入れ(家宅捜索)は頻繁に行われていたし、駅前に置いた自転車の鍵が壊されたり、どこか遠いところまで移動されたりといったことも頻発した。つまり、公安警察に尾行されていた、ということです。電話の盗聴も行われたし、ほぼ24時間体制での監視・尾行が数年間続いたひともいる。救援の集会やデモに出ているひとには、君が危ないひとたちと付き合っていることを恋人の親に知らせるぞ、という電話があったりする。誰もが労働現場をもって日常生活を送っているわけだから、一連のこんなことに対応しながら日々を生きていくのはけっこうたいへんなことでした。

加えて、彼らが行った活動によって多くの死者と重軽傷者が出ている。爆弾を使っている。そういうことに対する市民運動や左翼党派の批判・反発・非難はとても強かった。これは救援活動だ、国家による弾圧を受けている者に対する救援活動だと説明しながら、市民集会にチラシを撒きにいったり置きビラにいったりすると、そのこと自体も拒絶される、ああいう人たちと一緒にされたくないという。自分たちの運動を自己防衛するための言葉なんでしょうけど、そういうような反発も最初の4、5年間ぐらいは強かったわけです。ですから、それは何故かということも考えながらですね、中身に入っていきたいと思います。

50年前、1974年~75年にかけて、東アジア反日武装戦線が活動します。最初は「狼」の人びとが先ほどから触れている三菱重工ビル爆破を行ないます。それから「大地の牙」、映画に出ていた浴田由紀子さんも加わっていたグループです。最後が「さそり」ですね。後者二つのグループは「狼」による三菱の失敗を知ったうえで後続部隊として参加したのです。今年一月に入院先の病院で突然名乗り出た桐島聡さんは「さそり」に属していましたから、桐島さんのことを報じたメディアが必ず三菱事件の悲惨な写真と抱合せにしていたのはミスリードです。この3つのグループが、それぞれ独自に活動を展開していた。これが彼らの活動の基本的な活動形態です。一度はこれら3部隊が合同で担った作戦行動もありましたが、基本的にはそれぞれの部隊が独自の判断で目標を決めて、何らかの行動を行った。そういう組織の形態としても、日ごろ私たちが知っている左翼の活動形態とは異なる運動の在り方でした。のちに「狼」を形成する人たちは、1971~72の段階ですが、熱海の興亜観音像と殉国七士の碑、および神奈川県鶴見の曹洞宗総持寺納骨堂の爆破を行なっています。また、北海道出身者が多いことも関係してくるでしょうが、アイヌに関って旭川市の公園にある銅像と札幌の北大文学部の北方文化研究所施設の爆破も行なっています。

これらの初期段階の活動は、いずれもがアジアに対する侵略戦争の責任者である軍人たちを祀っている場所、および先住民族アイヌに関わって、彼らが植民地主義を肯定していると判断した場所を狙っています。しかし、彼らは当時は声明を出していませんから、彼らのその意図を知るのはよほど歴史的な知識を持つ者、同じ関心を持って歴史を眺めている者でないと、そう簡単には理解されない活動であったでしょう。

それが出発点でした。その後1973年夏に、映画が触れた天皇列車の爆破作戦計画を立てます。逮捕されて後に、彼ら自身が次のように書いています。昭和天皇裕仁はアジア太平洋地域に対する侵略戦争を遂行した責任者である。国内体制は昭和天皇にすべて全面的にひれ伏すような形で統治され、また植民地にしたり軍事占領したりした外部世界の人びとに対しても彼を崇め奉ることを強制した。そのような存在であった人間が、その責任を何ら取らないままに戦後は「平和の象徴」然としている欺瞞を撃たなければならない。「狼」の人びとはそう考えたわけですね。過去の新聞で調べると、天皇夫婦は8月15日の全国戦没者慰霊式典の前日の8月14日に那須の別荘から東京へ帰ってくる。当時はまだ国鉄原宿駅には「お召列車」なるものが出発したり帰着したりする特別なホームがありました。それからするなら、必ず荒川鉄橋を通って来るに違いないということで、74年8月中旬の何日間か深夜に現場に出ては鉄橋全体に爆弾を敷設した。ところが最終段階の8月13日の夜、どうも見張られているという感じがすると、これはバレているんじゃないかということで、いったん設置した爆弾を取り外してしまいます。だから、彼らが「虹作戦」と名付けた作戦計画は実現されることなく終わったのです。

ところが、その翌日8月15日、それは韓国にとっては日本の植民地からの解放記念日ですから、ソウルで光復節という記念式典を行ないます。もちろん大統領が出席します。当時は、長く続いた軍事独裁政権の象徴的な人物である朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の時代でした。関西在住の一人の在日韓国人が、ソウルの式典会場に入って、壇上の大統領に拳銃を発射するという事件が起こりました。大統領からは外れましたが、大統領のお連れ合いが亡くなるという結末になっていくわけです。

そこで、「狼」の人たちが考えたことは、天皇裕仁に「おとしまえ」をつけられなかった自分たち、その同じ日に独りの在日韓国人で同じ世代の若者が朴正煕を殺ろうとしたというそういう対比のなかで、焦ったのですね。映画で使われていた言葉を使えば、同世代の在日韓国人の行為に呼応しようとしたので、荒川鉄橋という外の世界で、しかも「お召列車」は5両編成だと言われていますが、その5両編成の列車を爆破するためには相当大きな爆弾でなければ功を奏さないということになるわけですから、実際には未使用に終わった二つの爆弾を何に向かって使おうかということに関して、あえて言えば焦って考えたと思います。そして2週間後の8月30日に東京丸の内三菱重工本社ビルの舗道の前に二つ置いたというということになるわけです。それが、8名の死者と385名の重軽傷者を出すという結果になるわけです。しかもその時、彼らが書いている手記・記録によれば、その日の夕方には、メンバーが一堂に会するということになっているわけですが、集まった喫茶店でもうあまりの結果にうろたえてしまって声も出ないという、それぐらい彼ら/彼女ら自身が、三菱の結果には狼狽していたわけです。

こんなはずではなかった、避難せよとの予告電話も掛けたのに、というわけです。しかし3週間後には、映画でもナレーションで流れましたが、三菱で爆死したのは一般の市民でも労働者でもないと、明らかに植民地人民の死肉に食らいついた日帝本国人であり、その死は当然であると言い切ってしまったのです。どう考えても、信じがたい内容の声明を公表したわけです。

当時生きていた人びとの記憶には、消すことのできない記憶として、自分たち、いうところの「日帝本国人」をこのように規定してしまった東アジア反日武装戦線という名称はあるのです。そう考えると、救援の人びとがいろいろな集会に行って、ビラを置いてくれとか、チラシを撒かせてくれとか、アピールさせてくれと言っても、三菱事件から5年後とか6年後の時代状況のなかでは、そう簡単には受け入れられなかったというのは、冷静に客観的に言えば分からないわけではない、という風になるかもしれません。それほどまでに三菱事件は衝撃的であった、と捉え返すのがよいと思います。

そこで、私たちがここで考えたいことは、何故、こんな結果が生まれたのかということです。彼らはこの年1974年3月、三菱事件の半年ほど前に「腹腹時計」という機関誌を初めて発行します。ここで初めて、自分たちは東アジア反日武装戦線「狼」であると名乗ります。今まで行ったいくつかの爆弾事件で公安警察に追及されていること、自分たちの今までの経験に照らして、呼応する同志たちに訴えたいといって、前半部で彼らの日本近代史に対する認識を簡潔に披歴したうえで、これは都市ゲリラの教本であるからということで、爆弾の作り方とかテクニックが後半部で記録されているわけです。そのなかで、戦前の日本の国家の在り方、それから1974年というのは、65年に始まったアメリカ軍の北ベトナムへの爆撃開始から10年近く経った時期です。南ベトナム解放民族戦線を潰すためにインドシア半島に大量の米軍も派遣された。そういうことが始まって10年経っている段階ですから、ベトナム戦争が次第に激化するなかで、日本がベトナム戦争の特需景気に沸くという経験も1960年代半ばから日本社会は経験していくのですね。

このような時代情況を背景にして、「狼」が『腹腹時計』で行った歴史分析を考えてみたいのです。

日本国の在り方は、植民地支配と侵略戦争を展開していた戦前も、また短期間に奇跡の復活を遂げた戦後も、基本的に近隣アジア諸国との関係性において成り立っている。戦後の日本は、新しい憲法9条の下で、「高度経済成長」と「平和と民主主義」を謳歌してきた。他方、東アジア地域では、経済的に貧困な社会状況にありつつ「分断」「内戦」「独裁」の時代が続いていた。この状況に、戦前ならびに戦後の日本は少なからぬ責任を負っている。それを問題の基本に据えなければならない。民族・植民地問題こそ、日本近代の歴史的な歩みを振り返る上での根幹である――彼らはそう考えたわけですね。

別な観点からも時代を振り返っておきます。戦後期の1950年代から1960年代前半にかけては、「反戦・平和」の運動が活発に行われていました。長期にわたった戦争を経験し、「もう戦争は嫌だ」という民衆意識を基盤にしていたと言えます。革新政党労働組合運動もかなりの影響力を持っている時代だったから、その力もあった。しかし、今から考えてみると、「反戦・平和」に一生懸命取り組んでいる人たちの意識のなかでも、「被害者意識」に依拠していた部分が色濃くあった。私は日清戦争に始まり敗戦にまで至る過程を「50年戦争」と呼んでいますが、一般的には「15年戦争」や「アジア太平洋戦争」と呼ばれる戦争は、最終的には米軍の物量作戦に日本は負けた、という捉え方が強かったのです。それは、何よりも、敗戦の年・1945年3月に米軍が行なった東京大空襲、8月に行なった広島と長崎への原爆投下――これが敗戦の最大要因として印象づけられたからです。しかし、この戦争がなぜ始まったのかを問えば、明治維新国家が採用した「富国強兵路線」の下で、近隣地域に対する植民地支配と侵略戦争を、19世紀末から20世紀半ばにかけての日本が遂行したからだという歴史的な事実が厳然として見えてくるのです。だから「被害者」意識に基づいた「反戦・平和」運動はまやかしであることを、「狼」は衝いたのです。この点はしっかりと受け止めるべきだと私は思います。約めて言えば、1975年段階で考えて、つい30年前までの、アジアにおける日本の振る舞いを顧みることなく、戦後は憲法9条の下で「平和と民主主義」を謳歌してばかりいては、別のアジアの姿を見ていないではないか、そこから歪んだ歴史認識の方法が生まれるのだと彼らは批判したのです。

その点を強調したうえで、次の課題に移ります。私は若い頃から今日に至るまで、党派に属したことはありませんが、さまざまな社会運動には関わってきました。若い頃に或る年上の人に言われた言葉が心に残っています。彼が言ってくれたのは「理論の幅はどんなに狭くてもいい、しかし行動の幅を狭くしたら間違うから、太田君、それだけは気をつけるのがいいよ」という言葉です。つまり理論あるいは思想はどんな狭いものであってもよいが、それを行動指針に反映させてはだめだ、と私は捉えました。「狼」が「腹腹時計」で展開した歴史認識から三菱爆破に至る過程を見る時に、私はこの言葉を思い出さざるを得ないのです。

「狼」の人びとは、先ほど触れた歴史分析から、この社会に生きる人びとを指して「日帝本国人」と呼びました。日帝本国人は、一貫して植民地からの収奪によって存在し得ており、汚れた存在であるから、これに「おとしまえ」をつける活動をしなければならない。それが、植民地民衆の叫びと戦いに呼応することになるのだ。そのように規定する本人たちも「日帝本国人」であるけれども、日本社会全体を、そこに住まう人間を規定したうえで、では具体的に何らかの活動を行う際には、その「日帝本国人」の命を、故意にではなくとも、どこか軽視するような隙を見せるのではないか。

日本近代史を解釈して自分たちの存在の在り方を規定するところまではいいだろう。その先に控えている問題を、先ほど触れた「虹作戦」=「お召列車」爆破計画に即して振り返ることで、考えてみます。鉄橋に爆弾を仕掛けるのですから、付近には人家がない、人びとが住まう家に被害を及ぼさないから、これはいいなという意見は出ます。当然の慮りです。しかし、「お召列車」は5両編成で、当然のことながら、当時は国鉄時代ですが、運転士が働いている、宮内庁の役人たちも付いているだろう、警備の警官たちもいるだろう。この人たちが、合わせて25人は同乗していると推定される。5両編成の列車が通過する鉄橋を爆破する場合、この25人の生命はどう考えるのか。作戦計画を考えていた時の「狼」の人たちの中で、この議論はなかったのか。詳細に書かれている作戦計画を読み直してみても、25人の一般人が死ぬ可能性をどのように捉えるかという問題に関して、戸惑い・苦悩・迷い・ためらいなどを読み取ることができない。

これは、「日帝本国人」という規定を行なった場合に生じてしまう「隙」ではないのか。その根拠がどこかに潜んでいたんではないだろうか。そのように思わざるを得ないのです。それが、また、三菱の背理に結びついていく。近隣の諸地域に対して「加害」の側にある社会を変革しようとした行動で、8人の死者と385人の重軽症者を出してしまい、自らが「加害」の立場に立ってしまった。

彼らは大衆運動を否定して、武装闘争しかないと考えていた。その通り荒川鉄橋を爆破しようとした。三菱では実際にやったわけですね。社会的な闘争というものがどういう全体像で展開されるべきかということに関する幅広い配慮というものがなかったということは言っておかなければならない。

もう一度繰り返しますが、この過ちを、「狼」は50年前から自覚したわけです。いかに自分たちの計画が杜撰であったか。鉄橋爆破に使おうとしていた爆弾をそのままあのような過密な丸の内のビル地帯で使ってしまったことを含めて、彼らはその日からいかに自分たちの杜撰な計画が重大な結果をもたらしたかということを自覚していたのです。外部にいる私は、彼ら自身の自己批判を受け止めながら、発言しています。

大衆運動の否定と武装闘争唯一主義の路線で考えていた彼らは、自分たちが万が一逮捕された場合、救援運動はあり得ないだろうと思っていたようです。人を殺めている以上、逮捕された段階では自分自身で我が身にケリをつけるしかないと考えて、メンバーは青酸カリを持っていました。「大地の牙」の斉藤和さんだけが公安警官の目をかすめて服用して、彼はその日のうちに亡くなったわけです。他の人たちは服用を試みても、刑事に気づかれて「失敗」しました。でも、それでよかったと思います。

それほどまでの思い詰めた行動であった。ところが、逮捕直後から思いがけないことに家族たちの迅速な動きがあった。それまでは、大衆運動をまったくやっていない、むしろそれを軽蔑している。地下活動をやるからには、決して大勢の友人を作ってはいけない、左翼と付き合ってはいけない、そういう風な自己規律で動いていた人たちです。「人民の海」とは、中国革命の物語によく出てくる言葉ですが、悠々と泳いでいけるような「人民の海」なんかなかった。メンバーが捕まったら全員が丸裸になってしまうという状況を彼らは覚悟していた。ところが、救援運動が始まった。メンバーの入れ替わりもあるが、ともかくこの50年間一貫して続けられてきた。このことが、彼らにとって、物事を根本から考え直していくきっかけにもなったと思います。私が救対に関わり始めた初期の段階で、1981年だったと思いますが、現在やっているのと同じような連続講座を5~6回やりました。問題意識が絡み合うだろうと思われる、社会的な発言をしている人を招いたわけですが、二回目で、「狼」の三菱爆破自己批判をテーマにしました。実際に「狼」の誰かが書いた文章を読み上げて、問題がどこにあるかを考える討議の場であったわけです。すると一人の男性が起ち上って、今さら「狼」の連中が人びとを殺傷したことに関して自己批判するなんてとんでもない、けしからん、日帝本国人なら誰が死んでも当たり前だろうと断言するのです。それは京都を中心に活動していた在日朝鮮人の方で、私は本や新聞で読んでいる有名な方だったのです。今から40数年前のことですが、その段階ではそのような発言に対してその場で返す言葉がなかったのです。私自身も、この発言はよくないと思いながら、反論の仕方が分からなかった。誰も黙りこくって、その場は凍りついた、という感じでした。このように、救援運動も暗中模索なのです。こういう言葉が出てきたときに、いったいどういう風に適確にその考えのひとと討論し合えるのか。当時の私たちにはできなかったですね。ちょっと圧倒されたというか、こういう考え方とどんな言葉が可能かなと戸惑ってしまったままでした。でも、活動を続けていくなかで、やはり広がりと深みをもって考えていくことができるようになっていきます。ひたすら喧嘩や罵倒だけに終わることのない、討議の仕方が身に付いていきます。

獄中の彼らもそうです。さまざまな考え方の持ち主と対話を重ねて、自分たちの失敗・不十分さなどの指摘を受けながら変わっていく過程を経ていったのだと思います。刑期を務めあげてきた浴田由紀子さんは何回も映画に登場していましたが、ああいう形で彼女がやってきたことを総括しています。大道寺将司君は7年前に獄中で病気で亡くなりましたが、彼がさまざまな人びととの手紙や面会でのやり取りを通じて、明らかにしてきた自己批判的な語りも、そのような経過から生まれてきたのだと思います。私は最後の最後まで彼と面会はできたのですが、彼はおそらく死を覚悟していた最後の方の面会で、いきなりこう言いました。「人を殺めてしまった人間と、そうでない人間との間には決定的な違いがある」。つまり、自分は人を殺めてしまった、それがどういうことなのか、殺めたことのない人間には分からないだろう、ということです。彼は50年前の8月30日から7年前に亡くなるまで、一日としてそのことを考えない日はなかっただろうと、彼の獄中書簡と俳句を読んで思います。

非常に大きな悲劇を生み出してしまった行動もありましたが、彼らがやったこと、考えたことから何を私たちが学び取ったらいいのかは、なお継続する課題です。これからもなおこの討論は続くのです。大道寺君は、独力で切り開いた俳句の世界で、その思いをよく詠んでいます。今日はこれから、主催者の望月さんがお話されますが、俳人である望月さんが大道寺君の俳句に触れながら語ってくれるということですので、私の話はここで終わります。

長い間のご清聴ありがとうございました。(了)

 

(第2部)大道寺将司の俳句について       望月至高

太田さん、大変生々しい詳細な話、どうもありがとうございました。

私は大道寺将司と同年です。

俳句に入る前に少しやっておきたいのは、よく質問を受けるのですが、反日武装戦線のメンバーがその後どうしているのか、皆さんあまり知らないでしょう、マスコミも報道しませんからね、それを見ておきます。

赤軍派についてはマスコミも面白おかしく採りあげるんですが、反日武装戦線についてはやりません。やはりどこでもタブー視するという雰囲気が残っています。まして東京なんかは太田さんの活動もあって普及しているんですが関西ではまったく彼らのことは記憶から抜けています。そう意味では、今日皆さんがご参集されましたことは非常に貴重で、ありがとうございます。

なかなかまとまった資料がありませんで、まとめてみました。

太田さんが話された核心は、「集合的記憶」、つまり共同体の間でそれぞれの国家あるいは民族というものが、そこに所属するにあたって同じ記憶を共有していかないと、その共同体は様々なところで機能不全を起こすということが分かっています。従いまして様々の共同体で、個々人の記憶ではなくて「集合的記憶」をそれぞれが創っていくと、で、それをやっていきますと非常に困った問題が起こります。例えば日韓問題であり、日中問題であり、要するに個人の記憶ではなく「集合的記憶」を創っていくときに何か作為的なものを入れる場合が考えられますし、そこに入れる事柄の軽重をどう考えるかということも問題になります。そういうことが反日武装戦線が提起した問題として非常に重要なのですが、世界を見てください、まさに過去の記憶をめぐって戦っています。この過去の「集合的記憶」をめぐって益々分断と混乱を激しくしています。これが現在の騒然たる国際関係問題です。昔は貿易であるとか経済的な問題、それから国境線や軍事同盟をどうするかとかそういうレベルで国際紛争は起きていたわけです。

しかしながら大道寺将司たちのやった闘いは、個々人の価値観、それの集合的な価値観—それのぶつかり合いが延々と続いてきていますが—これは全く新しい政治闘争の地平を切り開いたものだったわけです。これは当時の日本ではまったく予想のつかない闘争だったわけです。他国の「集合的記憶」に連帯するようなものはあったとしても、自国の「集合的記憶」の書き換えを観念的・物理的にやってしまおうというきわめて先鋭的な闘いだったと言えると思います。

これは世界同時的に発生しています。アウシュヴィツがユダヤ人のゲットーとして認知され「集合的記憶」になるのは1960年代へ入ってから、それまではポーランド人などの戦争犠牲者の単なるモニュメントとされていたわけです。またドイツの首相がワルシャワユダヤ人ゲットーの追悼碑前で跪いて謝罪したのは丁度1970年、大きなニュースになり今でもよく覚えていますが、戦後世代の学生労働者の世界的同時反乱の時代でした。さらにフランスでは、ナチス占領時期(ヴィシー政権)にユダヤ人を大量にガス室へ送り込んだことが発覚して、シラク大統領が謝罪したのは1995年、半世紀後のことです。日韓問題も60年代へ入ってから、戦後世代の文在寅などが戦中世代の処理に不満を持って延々と問題にしたわけです。

ですから、反日武装戦線がやったことは、世界史で観れば先進国が同時多発的に起きていたわけです。それから被抑圧民に対する視線というものが開始している訳です。

ヨーロッパが再び一つにまとまることができたのは二つ理由があります。一つはアメリカの戦後政策です。もう一つはフランスの哲学者ジャットが言っていますが、ヨーロパ人が「ある適度の放念と記憶の忘却があったからだ」と。EUができた訳ですね。だから記憶を細分化してほじくっていくと限りない分断しか生まれないと、ということもリアルな事実ですね。

例えばですね、今ソ連が解体してウクライナ戦争していますが、赤軍がやったことの問題—あちこちでやった虐殺なんですよ、それが噴き出してきている。その民族意識の中でウクライナ戦争は起きているわけです。もっとさかのぼるとオスマントルコアルメニア人を大量虐殺している、近現代の中でユダヤ人虐殺に匹敵するのではないか、これも最近発掘されてトルコはNATOではありますが微妙な立場となっています。アメリカでは南北戦争リー将軍銅像をどうするかで死者まで出してもめている。

この問題は、太田さんが言いましたようにまだまだ論議は継続されてゆくでしょう。

さて、反日武装戦線のメンバーがその後どうなっているかよく質問されます。皆さんもあまり知らないでしょう。

  *   *   *   *   *   *   *   *

【資料】         東アジア反日武装戦線    (2024.9月現在)

【メンバー】

1975年5月19日 一斉逮捕、「狼」メンバー他8名
                        「狼」メンバー  大道寺将司(死刑・東京拘置所
                                                           2013年「一行詩大賞受賞」・17.5.24多発性
                 骨髄腫にて死去・享年70歳)

                片岡利明(死刑・東京拘置所・2010年脳梗塞
                心神喪失
                大道寺あや子(77.9.28ダッカ闘争の超法規的
                措置解放・国際指名手配中)
                佐々木規夫(75.8.4クアラルンプール闘争の
                超法規措置で解放・国際指名手配中)
     「大地の牙」メンバー 斎藤和(逮捕時服毒自殺)
                浴田由紀子(えきだゆきこ)(77.9.28ダッカ
                争の超法規的措置解放・95.3.ルーマニアにて
                逮捕・懲役20年・栃木刑務所を17.3.23満期
                出所)
     「さそり」メンバー 黒川芳正(無期懲役・宮城刑務所)
               宇賀神寿一(82.7.12逮捕・懲役18年・岐阜刑
               務所を03.6.11満期出所)
               桐島聡(長期逃亡・2024.1.29路上で倒れたのち
               病院入院死亡・2.27爆取法違反&殺人未遂で死亡
               起訴)
      「メンバー外」 荒井まり子(精神的無形的幇助・栃木刑務所・
               87.11.27満期出所)
              荒井なほ子(自死)、
              藤沢義美(自死
1975年6月25日 釜ヶ崎共闘会議船本洲治、反日武装戦線への連帯表明焼身自殺。

               (当時皇太子=平成天皇、沖縄訪問抗議による)
   7月19日 北海道警察本部爆破
1976年3月02日 北海道庁爆破 大森勝久逮捕(事件否認のまま死刑判決、札幌拘
               置所死刑囚)
   「闇の土蜘蛛」メンバー 加藤三郎他(「世界革命戦線大地の豚」を呼称、
               平安神宮放火、東大法文一号館爆破
【主な闘争】

1974.8.30 三菱重工爆破事件(ダイヤモンド作戦)=「狼」

          三菱重工ビル爆破通行人8人死亡、負傷者376人。

1974.10.14 三井物産爆破事件=「大地の牙」

           負傷者なし、被害軽度

1974.11.25 帝人中央研究所爆破事件=「狼」

            負傷者なし、配電盤室を破壊した程度の損壊。

1974.12.23 鹿島建設PH工場爆破事件(花岡作戦)=「さそり」

            負傷者なし、 資材置場破壊、被害軽度。

1975.2.28 間組爆破事件(キソダニ・テメンゴール作戦)=「さそり」「狼」
            「大地の牙」 本社は負傷者なし、ビルは火災発生、
             電算室破壊にて相当の被害。大宮工場は被害軽度。

   4.28 二回目間組江戸川作業所と現場を爆破

            作業所は社員1名重傷、現場は不発。

   5.4  三回目間組同現場の不発弾の誘爆。

            負傷者なし。

1975.4.19  韓国産業経済研究所&オリエンタルメタル社爆破事件=
            「大地の牙」負傷者なし。 

            *4.19は1960年韓国李承晩独裁政権を倒した記念日。

 

【目的】

反日共同体の形成

  ・階級社会の発生によって形成された日本国家と日本民族をそっくりその
   まま継承して未来社会を形成するのではなく、(帝国主義的:註望月)
   日本国家・日本民族を否定する方向で、反日共同体の形成を過渡として
   未来社会を形成する意を籠めて、われわれは、われわれの路線を反日
   表現している。(『反日革命宣言』p58)

@組織論

    ・党をつくってから党の官僚装置によって、上から軍をつくるという
    「建党➡健軍」路線でもない。われわれの組織論の特徴は、まずなに
     よりも、個々の政治・軍事意思を問い個々人の反日武装闘争への主
     体的決起を前提にして組織形成がなされるという点にある。
    (前掲書p60)

【大道寺将司略歴】

・1948.6.05 北海道釧路市に生まれる。

・1967.03   釧路湖陵高校卒、受験した大学(大阪外語大)のある大阪に
        住む。

・1968.01   東京に転居、働きながらデモや集会に参加。

・1969・04  法政大学文学部入学、全共闘運動に参加。(20歳)

・1971.12   興亜観音像(熱海)、A級戦犯を祀る殉国七士の碑を爆破。

・1972.04  総持寺納骨堂(横浜市鶴見区)を爆破。 

   .10    アイヌ文化遺産を収奪した北大北方文化研究施設、
        「旭川風雪の群像」を爆破。

・1974.08.14 天皇「お召列車」爆破(虹作戦)計画、未遂。
      15 在日韓国人文世光の朴正煕大統領狙撃テロに衝撃を受
        ける。

・1974.8.31 三菱重工業本社前(丸の内)に時限爆弾設置爆破。死者8名
                    負傷者165名。

・1975.5.19 逮捕(他7名と一斉逮捕、斎藤和は逮捕直後に服毒自殺26歳)

・1979.11    一審で大道寺将司と片岡(益永)利明に死刑判決。

・1982.07    控訴審も二人に死刑判決。

1984.02    『明けの星を見上げてー大道寺将司獄中書簡集』刊行。

・1987.03    最高裁上告棄却、大道寺と片岡(益永)死刑確定。(38歳)

        獄中の二人と獄外の友人が共同原告としてTシャツ訴訟を
        提訴。
   .05      交流誌『キタコブシ』発信開始。

・1988.09    第一次再審請求書を提出、以後五次再審提出。

・1997.12    『死刑確定中』刊行。

・1999.12    第一次Tシャツ訴訟控訴審で一部勝訴判決確定。

・2001.05    『友へー大道寺将司句集』刊行。

・2005.10    第一回死刑囚表現展開催―「死刑廃止のための大道寺
                      幸子(母)基金」。

・2007.01    『鴉の目―大道寺将司句集Ⅱ』刊行。

・2010.    「六曜」同人となる。

・2012.04    『棺一基-大道寺将司全句集』刊行。

・2013.09.17  一行詩大賞受賞(日本一行詩協会主催・後援読売新聞社/角川
                 春樹事務所)。            

・2015.11.25  『残(のこん)の月―大道寺将司句集』刊行。

・2017.05.24 七年に及ぶ闘病(多発性骨髄腫)生活の後、東京拘置所にて
        死去。享年七〇歳(獄中44年間)

  •   *   *   *   *   *   *   *   *

有名なのは大道寺君ですね、獄中病死です。享年70実際には69歳ですね。

大道寺あや子さんは、未だに国際指名手配です。記録がでてきますが、99年頃ですか、重信房子と香港で会合を持ったということが出てきます。だから元気にしているのでしょうね。佐々木規夫君、彼はクアラルンプール事件で超法規で解放、国際指名手配中です。彼も88年頃東京に現れているという記録が見られます。

「大地の牙」も斎藤和(なごむ)は逮捕時服毒自殺ですね。浴田由紀子さん、一回解放(ダッカ事件)されてルーマニアで再逮捕、それで懲役20年、栃木刑務所で2017年3月満期出所して映画にでていましたね。

それから「さそり」、黒川芳正君、無期懲役で宮城刑務所にまだ服役中だと思います。宇賀神寿一さん、先程映画にでていましたね、岐阜刑務所2003年6月満期出所です。それからこの間騒がせました桐島聡君、見事です、あっぱれです。逃亡の末病院で亡くなりました。その一ヶ月後、爆発物取締違反と殺人未遂で起訴になっています。彼は全然人を傷つけていないんですね。(註1)人を傷つけているのは三菱重工だけです。でも彼は殺人未遂なんですね、何でかちょっと分かりません。

彼らに続きまして釜ヶ崎共闘の、反日武装戦線の連帯表明として、当時の皇太子、今の上皇の沖縄訪問に対して焼身自殺しております。

それから北海道警爆破、北海道庁爆破、大森勝久、犯行否認のまま、この人ちょっとわからないのですが、札幌刑務所死刑囚として未執行のようです。

それから「闇の土蜘蛛」、加藤三郎は平安神宮、東大法文一号館爆破、えーと記録落としてしまいちょっと詳細はよく分かりません。

以上。

これからお話するのは大道寺将司君の俳句です。

こうしてみると同時代人として、彼らは少し漫画の読みすぎじゃないかなんて思たりします。『御用牙』とか『さそり』だとかよく読みましたからね。(笑)

それからこれは、注目すべき点です。

これは70年になりますと、もうミッシェル・フーコーなんかもでてきていて、いわゆるポスト・モダンです。それまでの党派は国家権力だけが権力だということで反権力闘争やるわけですが、ミッシェル・フーコーは高度資本主義の巧妙なシステマチックな管理統制の中では、「大きな権力」から「小さな権力」へ移行しているんだと、例えば我々の身体までもが医療だとかいろいろのところで権力の中にからめとられていると、「大きな権力」だけ問題にしていてもだめだよと、ザックリいうとそういう時代に移行しているんだよというわけです。それで彼らの「反日」概念は要するに「大東亜共栄圏」の反対でいいでしょう。私は一番面白いと思ったのは、この時期すでに共産同赤軍派連合赤軍が一世を風靡して問題になっている頃で、彼らは組織論として、「建党⇒健軍」、つまり共産同赤軍派の路線を否定しているんですね。「われわれ(「狼」)の組織路線は、何よりも個々人の政治・軍事思想を問い個々人の反日武装闘争への主体的決起を前提にして組織形成がなされるという点にある。」(『反日革命宣言』p60)。これはどういうことかと言いますと、党派はすべてボルシェヴィズムで革命をやろうとする、日本共産党はじめ全ての革命党派はそうでした。しかしこの建党により党官僚の垂直的統制でもっては、軍は待機主義に堕ちいってしまうと否定的ですね。大道寺君たちはロシアヴォルシェヴィキより左翼エス・エルにどうも親近感を持っていたようです。フ・ナロードプーシキンだとかに共感しているようにみえます。(註2)もし大衆組織として、原理的なところで貫いていくと太田さんが指摘されたような大衆運動として展開できていればはるかに有効だったろうと思います。2次大戦後革命で一番理想的に革命的政権交代が行われたというのは、私見からしますとポーランドワレサ率いる労組「連帯」です。労組が一斉にゼネストで蜂起して政権を樹立した、軍は一切動いておりません、それで自由社会になる訳です。(註3)

すいません、時間が無くなりましたので、これはこの辺にしまして次へいきます。興味のある方は調べてみてください。

それで時間がないので俳句にいきましょう。簡単にみていきます。

牢獄に閉じ込められたなかで、精神を自由にする、これだけ俳句ができたということは、まさに救援対策連合の活躍ですね。それがなければ大道寺君も自己価値というものを救済する方法を見つけられなかったと思います。実際に連合赤軍のなかでも捕まってから自殺者が出ています。捕まらなくても活動家の自殺者はかなり出ています。つまり自己救済ということをどうするか、生きている限り自己の価値をどう救済するかということがないと人は生きられなくなります。それを救援対策連合に大道寺君は教えられたのではないか。

大道寺君は4冊句集を出しています(註4)

俳句の良し悪しで選句してます、大道寺君の切々たる心情吐露も多くあるのですが—。

元日や

仰臥漫録

座右に置き

これは正岡子規の『仰臥漫録』ですね、病床日記、歌論俳論です。生きるということの極限を見つめて自己を叱咤激励し、自己価値の形成に邁進した闘病日記ですが、大道寺君に響くものがあったのでしょう。(註5)

実存を

賭して手を擦る

冬の蠅

蠅ぐらいしか相手にしてくれる者がいない、その蠅が一生懸命手を擦り合わせている、その姿に実存を賭けているなー、自分の実存を重ね合わせている。実存は当時の学生の流行りことばでした。

 

 

日脚伸ぶ

また生き延びし

一日かな

一日一日日脚が伸びてきた、自分は死刑執行もなく今日もまた一日生き延びられたなー、という感慨の吐露、緊張の中の安堵の一句です。

春雷に

死者たちの声

重なれり 

これは「死者たち」をどう解釈するか、三菱重工で殺害してしまった8名の死者たちなのか、それとももっと広い意味で普遍的に死者たちの声なのか。春雷に重なるというには穏やかではない、怒り、慟哭、怨嗟でしょうね。

花影や

死は工まれて

訪るる

これは文句なしの名句です。普通の人にはちょっと詠めませんね。季語「花影」がよく効いています。死というものが工まれてくる、人工的に一方的に仕組まれてくると。近代国家は公的に殺人を二つ許しています。一つは戦争です、もう一つは死刑です。まさに工まれているわけです。死刑は今や先進国では停止されています。韓国でさえというと怒られますが、韓国でさえ停止しています。おおっぴらに行われているのは日本とアメリカだけです。アメリカの場合は苦痛を与えないということで注射による安楽死です。日本は首吊りをやるわけです。今総理大臣に立候補している女性大臣がいますね、あの方は法務大臣時代過去最多の16人の死刑執行に判子ついています。異常ですね。

方寸に

悔い数多あり

麦の秋

「方寸」は、一寸が約3㎝ですから狭い場所です、この場合は独房ですね。「麦の秋」は初夏の季語。独房で独りいれば数多の悔いばかりが湧いてくる。

心中に

根拠地を建つ

不如帰

心の中に確固とした信念を打ち立てよう、未だにかれは自分の拠って立つ思想性を追い求めていく、この真摯さはなんなんだろう。季語「不如帰」は、古来「賤(しず)の田(た)長(おさ)」といって田植え時期にやってくる鳥です、これが訛って「死出(しで)の田(た)長(おさ)」となって不如帰は死を暗示させる鳥と言われています。日々迫りくる死と向き合って、すごい精神力です。

 

 

東京拘置所永山則夫君ら二名の処刑があった朝

夏深し

魂消(たまぎ)る声の

残れけり

前書きにありますように、永山則夫が死刑執行されたときの句ですね。

朝執行の告知をされて刑場に引き立てられていくとき、永山はかなり抵抗したようです。それは他の拘置者にも聞こえていたのでしょう。「魂消る」の措辞がいいですね。切ない句ですね。

死者たちに

如何にして詫ぶ

赤とんぼ

これは明かに殺害してしまった8名の人ですね。句として面白いのは赤とんぼというちょっとメルヘンチックな季語をもってきて死者たちとの対比を際立たせています。

狼や

見果てぬ夢を

追い続け

彼は遠くを見ながら、まだ夢を追い続けようとした。芭蕉の「夢は枯野をかけ廻る」を想起させます。人は死が目前であるときほど、夢を見るものなのでしょうか。

すさまじき

日の丸揚がる

学府かな

今大学はご存じのようにほとんどの大学は自治会が無くなりました。立て看板を立てると15分以内に撤去されます。このタテカン闘争をしている学生を支援していますが、まずはね、民主主義だなんだかんだ言ってる大学教員が自分の大学で、表現の自由さえ許されない処で何を偉そうに言ってるんだ、という怒りですよ。四方田犬彦というのが、こういうこと言ってるのですが、私はつい数日前に彼の言葉を引用してFacebookに書いたんです。四方田は団塊世代にまともな教授がいないと。なぜか、山本義隆もそうですが、70年当時学問やっても道徳の向上には何もならないと解ってみんな大学を飛び出してしまったと。だから団塊の世代には大学に残って偉そうにしているのは、二流かボロボロの連中だと。四方田はもちろん自分も二流の方だと自虐的に言ってるわけですが。

69~73年、この辺りで研究者になった奴はろくなものではないと。実感として私も共感します。

時として

思いの滾る

寒茜                     (以上処女句集『友へ』)

これも佳句ですね。

咳(しわぶ)くや慙愧に震うまくらがり

いなびかりせんなき悔いのまた溢る

額衝くや氷雨たばしる胸のうち

狼の夢に撃たれて死なざりき

本懐を未遂のままに冬の蜂

(以上は、判りやすい句なので解説を省略しております)

春疾風なお白頭に叛意あり

「春疾風」は、はるはやて、です、春の嵐の季語です。頭が白くなってもまだ不正義に対して反抗心を持ってるぞ、というのです。いい句です。季語が一句を引き締めています。

さて、ここからは3・11東北大震災を、フクシマを詠んだ句です。二句並べて、左のブルーの文字が勝手ながら私の句です。並べてみると同じことを詠む個性が際立ってきます。まあ俳句はそうやって同人会ではやっていくのですが、品評してそこに優劣をつけていきます。

いずれにしても私の俳句は負けています。((笑))

瓦礫選る女濡らして鳥帰る       将司

残る雪少女瓦礫に慟哭す        至高

「鳥帰る」というのは、渡り鳥が帰っていくという春先の季語です。

女濡らして—こんな艶っぽい措辞はなかなかできるものではありません。

胸底は海のとどろやあらえみし      将司

春昼の地震(ない)盛り上がりくる海の黒     至高

「とどろ」というのはドンドコ、ドドドーンてな感じですね。「あらえみし」はご存じの方いるかもしれませんが、昔の蝦夷地の原住民―アイヌか誰だった、大和朝廷が及ばない時代、あの辺で暮らしていた人びとです。胸の奥底には、ドドーンと響いてくる、それは東北のあらえみしの怒りの声なのか、そんな句ですね。

私の句は平凡な句です。将司の句には物語があります。

“ありがと”と亡き母に女児辛夷咲く     将司

地震(ない)のあと子らは笑うよ春泥に       至高

お母さんが亡くなった子が、手を合わせている、亡くした母への有難さ。新聞か何かで写真を見たのでしょうね。季語「辛夷咲く」は動きませんね。

悲嘆にくれる子ども、惨事の後も屈託なく笑いを振りまく子、どちらも子らの行く末を思わざるを得ません—そんな句です。

無主物を凍てし山河に撒き散らす       将司

ストロンチュウムその致死量の晩夏光     至高

「無主物」は放射能ですね、これを際限なくあちこちへ撒き散らす。

俳句には主語はありません、しかし誰が撒き散らせているのか、場の共有をしている者たちには当然あいつらだと解っている、句意は撒き散らすな!ですね。

この句では、ちょっと私の方が勝ってるかな(笑)

若きらの踏み出すさきの枯野かな        将司

汚染土をはがし大地の油照           至高

東北の若者たちのこれからの行く末を案じて、枯野を往くような険しい道だよな、と。

私の方の句は、名句とは言われませんが、これは評判のいい句です。今ウクライナ大使館後援で、ウクライナ支援のグループが全国点々と絵画写真展示会をやっております。

その一環で俳句をやっているウクライナの東大教員などと一緒にこの俳句も展示されていまして、この句が全国を廻っています。

贖物(あがもの)は身ひとつなりぬ断腸花          将司

「贖物」は罪悪に対する代償の贈り物、もう自分の体一つしかありませんという切ない句です。死んだ方には償いもろくにできない、この身しか捧げられるものはありませんという句です。

蟬のこゑ秋津の鬼になれと言ふ         将司

これも佳句ですね。「秋津」は、正しくは「あきづ」と読みます。古くは奈良時代の吉野離宮のあった所ですが、のち大和の国、日本の意味に転じているようです。「あきつ」と読むと、古語でトンボのことですね。

人は自分に日本の鬼になれと言うが、はてどうしたものか、と言った句意かな。

「鬼」には二つ意味がありまして、人を救済する善い鬼と、悪さをして人々に石投げられて嫌われる鬼ですね。この場合の鬼は善い鬼、日本を救済する鬼になれと言ってくれるが、この身では無理ですよ—かな。

縮みゆく残(のこん)の月の明日知らず          将司

「残の月」というのは春先の月が薄く小さくなっていく月のことです、春の季語。

大道寺君は古語を多用する名手なので、私はこんな季語知りませんでした。

この「残の月」のように消え入ってしまうのは、明日を知らぬ我が身だ、その定めの過酷さを俳句では綺麗に詠んでいます。

棺一基四顧茫茫と霞けり             将司

これはあらゆる俳人歌人などが絶賛している名句中の名句です。

少し情感込めて詠んでみましょうか。(詠嘆調にリフレイン)

棺が一つ置かれておりますと、四顧というのはその周りという意味ですね、その周りは茫茫と霞がかかって定かには見えませんと。なんのこっちゃないと思うかもしれませんが、俳句は苦しいとか、楽しいとか、寂しいとか、愛しているとか、直接読まずに表現する手法です。で、この棺一基というのは誰の棺なのか。この句は亡くなるちょと前に創られたようです、長い拘禁と闘病のなかで死期が迫っていることを分かったうえで創っています。そうするとこの棺というものが、中に入っている本人なのか、外から自分の入る棺を見ているのか、あえて句意を推測すると、未来はもう見えない、述べることはできない、未来に対する諦観、絶望が暗示されているという風にも読めますね。

再びは会うこともなき夕間暮れ        将司

春の宵黄泉(よみじ)の人も浮かれけり     将司   (2017年辞世の句)

二句とも絶句ですね。辞世の句です。亡くなる一週間ぐらい前のものでしょうか。読んだ通りですね。「黄泉の人も浮かれけり」、死を目前にしてなかなかこんな洒落たこと詠めませんねー。

両方とも素直な佳い句です。

地を踏まず娑婆に帰したりみちおしえ      至高

風死んで狼煙の立つ鬨の声           至高

この二句は私の応答句です。

「みちおしえ」というのは、道をピョンピョン飛び跳ねて、人を先導するように見えるのでこんな名前がつけられています、いわゆる斑猫(はんみょう)、夏の季語のことです。死んでしか監獄を出れなかった、つまり地面を歩いて娑婆に出れなかった、そういう句です。

二句目は読んだ通りです。「狼煙」は「のろし」ですが、敢えて大道寺らの「狼」を踏まえて勝手にも「ろうえん」と読ませようとしています。「狼」は死すれども、その時狼煙が立って、「狼」に共感し、闘いを引き受けていく者らの鬨の声が上がったよ、という句です。(註6)

以上ざっとこんな風な句です。

それで、私もいくつか大道寺君の俳句評論を書いていますが、これだけちょっと皆さんに聴いていただきたいんです。

自分でいうのもなんですが、かなり絶賛されているんですよ。冒頭です。

「『詩人の空想する幸福なんてものは、どうせ現実の世界で実現されるはずもない』と、自虐的にいったのは萩原朔太郎であった。そういいながら朔太郎は詩にとどまり詩人を全うした。しかしときに空想した幸福の現実化を信じ、世界の矛盾と哀しみを引き受けてしまう詩人が現れる。だが詩人が言葉を捨てたとき、ひとはテロリストと呼ぶ。」(註7)

えーと、大道寺君の資質はね、基本的に詩人だと私は思います。だから大衆運動ではなく非常にストイックにテロに奔る、この発想ね、物事を突き進むときの狭さといえば狭さなんですが、飛躍の鮮やかさと純粋さ、詩人のそれを私は感じました。

ご清聴ありがとうございました。

太田さん、前の方にお戻りください。

みなさん、時間がもうあまりありませんが、何かご質問とかあれば、マイクを渡します。

学生:ありがとうございます。最初の、三菱重工爆破の後、彼らは動揺した、声明文としては死んだ人がいて、本国人だからと、大道寺さんは自分が殺してしまった人に謝罪したりする所に行き着いている訳じゃあないですか、日帝本国人は殺していいって言って、結局殺したのは間違いだったと、本当はずっと死者に対する罪を贖えないと思ってきて、犯行声明ではそういう自己肯定的な声明を出さざるを得なかった訳じゃないですか、それはどうしてなんでしょうか。」

太田:三週間後にあの声明が作られるわけですが、その経過について僕は解らないのですが、彼らも人間だから、あれは混乱の中で、異常な心理状況で居直った声明として作られたものじゃないかと思います。正常な判断ができない、あの3週間後くらいの段階で、一応考えを改めていやこれは善かったんだという風に、なんかこう考えられない。だから、確信があったわけでしょう、これは絶対正しいんだという、闘争に対してゆるぎない確信があって、しかしそれは目標として絶対人を傷つけることを伴っていなかったわけです。しかし全く真逆の結果が現れるわけでしょう、もう心理的にどうにもならない状態に追い込まれていった。でまあ取り繕うように説明はあるけれども、一旦始めた闘争を後退させてはいけないと、誤りを認めるということが後退させるというように、それを含めて正常に判断できない心理状況だったのではないでしょうか、そう僕は考えています。」

学生:ありがとうございました。

望月:他にはいらっしゃいませんか。

太田:先程の望月さんの説明にあったことですが、今年一月に現れて病院で亡くなった桐島さんの場合も、「さそり」がやった第一の作戦、間組の時かな、死者は出てないけど重軽症者出ている。で、桐島さんはそれにものすごく動揺してもうこれ以上続けられないと思ったらしい。これは公判記録に出てくるんですが、人が語った言葉ですが、で「さそり」だったリーダーの黒川君が、この間桐島さんの死に関わっての獄中からの手紙などで、東京新聞の書面での取材があったみたいで、応えていました。桐島君が本当に動揺してもうこれ以上続けられないというようになっていったと。だからやはり確信をもってやればやるほど、死傷者がでてしまうということに本当に苦しんだと思うんです。

望月:そうでしたね、確か負傷者は間組の社員でしたよね。あれは桐島君が関わっていたわけですね。なるほど、それで殺人未遂がついているんですね。

学生さんが今日来てくれて、オッチャンとしては大変嬉しいのですが、要するに

人間の関係性というのは、関係性のなかでいかにでも可変的であるかと、人は変

わるんだというね、この認識がとにかく大事だと思います。よく実体化と言いま

すでしょ、人間を実体化する、民族・国家を実体化する、これをやってしまうと

ヘイトのようにコトが進まなくなりますね。実体化を避けるにはやはり歴史を知

るとかや学問をちゃんとやることが必要だろうと私は思います。

そして、共同体相互の闘いを縮減していくには、共通の「集合的記憶」を創って

いく必要があるでしょう。その場合、ゼロサムではダメです、そこは「公正」で

なければなりません。反権力闘争だけでも解決しません。難しいことですが、大

道寺君らの提起した問題を包む風呂敷を創っていくことが問われています。

時間がなくなりましたので、また太田さんに来ていただく機会もあろうかと思

います。また機会があればお会いしましょう、今日はご清聴ありがとうござい

ました。(了)

(講演内容は主旨を明瞭にするため、若干の修正を加えております)

 

(註1) 桐島聡について、この望月発言は間違い。最後の方の質疑応答のな

                  かに太田昌国氏からの訂正発言を参照のこと。

(註2) 「『V(フ) NAROD(ナロード)!』と口にしてみる夕(ゆう)蛙(かわづ)」

                 の句がある。

(註3) 組織論も反日武装戦線は、既にポスト・モダンの様相を帯びている。

     ドゥルーズは、組織を「ツリー」と「リゾーム」の二つの概念で提

                  示した。「ツリー」は木の様な「垂直統制=官僚制」、「リゾーム

                 は「根茎」の意味で横にぐじゃぐじゃ拡がっていくものです。「ツリ

                  ー」は従ってアメリ大統領制ソ連書記局、日本の内閣総理大臣

                  は支配のリゾーム。「リゾーム」はゲリラやパルチザンの様な組織。

                  新左翼党派はみな「ツリー」型だったが、反日武装戦線は「リゾーム

                 であった。全共闘はクラス闘争委員会が横に繋がり「リゾーム」を形

                 造り、党派とは違っていた。重要な点は組織論だけではなく、大道寺

                たちが、未来社会の自由のイメージをどのように持っていたかという

               ことである。ある種のアナーキーシュールレアリズム的な点において、

               党派の古い「ツリー」とは異なり、当時の世界的学生労働者同様先進性

               がみられる。なお、ドゥルーズが『アンチ・オイデプス』を著したのは

               1961年、日本に翻訳されたのは1986年なので大道寺らは当然読んではい

                なかっただろう。しかし彼らは感性的にそれを体現できていた。

(註4)第一句集『友へ』(2001.01.19)海曜社、序:辺見庸

                                            解説:齋藤慎二、あとがき:稲尾節。

                                            特徴は三行分ち書き。

    第二句集『鴉の目』(2007.01.20)海曜社・現代企画室、

                                                 序文:辺見庸、あとがき:大道寺将司。
    第三句集『棺一基』(2012.04.19)大田出版、序文:辺見庸

                                                跋文:辺見庸、あとがき:大道寺将司。
    第四句集『残の月』(2015.11.25)太田出版、解説栞:福島泰樹

             あとがき:大道寺将司。

    句文集 『最終獄中通信 大道寺将司』(2018.3.30)河出書房新社

             解説太田昌国。

(註5)大道寺将司の俳歴は、全くの独学から始まる。句集発刊を最初に企画

    したのは、海曜社の稲尾節氏であった。辺見庸氏、斎藤慎二氏、福島

    泰樹氏らも熱心にサポートした。

    2010年 俳句結社「六曜(むよう)」

            (代表出口喜子、創刊編集長望月至高)へ同人参加。

    2013年 句集『棺一基』日本一行詩大賞受賞。
(註6)大道寺は、死の病床にあって、最後に望月至高の『俳句のアジール

    を眼に焼き付けて逝った。以下のように記してくれている。

          *

    2017年1月24日『俳句のアジール』(望月至高著、現代企画室)を読む。

    ずっと枕もとに置いていたのだけど、今の部屋に移って初めて手にしま

    した。望月氏の俳句ばかりかと思いきや、『棺一基』など拙句について

    の評論ありで驚きました。彼の句には多くの佳吟あり、俳句に関心ある

    人たちには読んで欲しいと思います。なお、印刷は藤田印刷です。 
    将司のICUでの三句

       去年今年ICUの内にかな

       残る虫ICUにもゐるらしく

       点滴の音を重ねる小寒

          *
(註7)『大道寺将司全句集「棺一基」の存在倫理』・望月至高著

    『俳句のアジール』(2016年12月)所収。

太田昌国氏

望月至高

(写真:日原保氏提供)

(参考)東アジア反日武装戦線50周年講演後の忘備録 - 俳愚人 blog