「新左翼党派」-懐かしくも、気恥しくも、鬱陶しくも⋯。

中核派に若者が見直されている?
確かに1960年代、革命的共産主義者同盟中核派はよく闘った。
その中核派の最近について、5月27日のYouTubeアベマで放映されている。たまたま観た。
革共同の清水ご老体が半世紀ぶりに登場した意味、
中核派は新しい世代によって、新しい組織に生まれ変わったのか、等々を芸人あつしを司会に、中核派YouTube情宣担当者や元公安刑事や活動家が印象を語り合っている。
一言で言って、あいも変わらずといった感じだった。
中核派の活動家の粗雑で、古色蒼然とした「理屈」は、笑ってしまう。
清水が内ゲバで多くの死者を出したが、どう考えるかという質問に、少し口ごもったあとで
「革命運動だから仕方ない」と。
仕方ない、の一言で済むんだから委員長というのはお気楽なもんだ。
YouTubeで宣伝して、オフ会をするってオウム真理教に習ったのだろうか?
大衆性を持たせるために、どうするか?は永遠のテーマだから、全く否定はしないが、なんだかなー。
YouTube担当者は、暴力革命の意味をよく理解できていない。
暴力革命は、一般的にいう暴力と、政治における暴力は概念が違う。
GewaltとMachtの違いである。
世間が暴力革命を容認するのか?と言った時、
この概念上の違いを指摘して、容認どころか、大衆と国家権力との相対的力関係に於いては、「不可避」であるという説明が必要であろう。
しかし、ソ連と東欧の自由化のように、大衆の圧倒的結集によっては、武力衝突という意味では、「蓋然性」に転化できる場合もありうる。
しかしこの時でさえ、大衆の政治的権力樹立のプロセスでは、国家の暴力装置(情報統制も含め)は完全にGewaltととして制圧されている、というのが「暴力=執行権力」の意味なのである。
かれはボリシェビズムの革命しかしらないから、軍、警察、監獄といったものでしか、暴力を例示できない。
彼ら(多くの党派)の昔からの欠陥は、
近代社会の原理的な把握に失敗しているため、近代社会が原理的に獲得した諸原理の革命性を踏まえて、近代を内包しつつ超出する視座にかけているように思う。
マルクスは、資本主義の最も荒々しく諸矛盾が露出した時代を解析した。
それに集中した。
しかし、人類の生産諸力は最大に達して、飢えから救済され、
拘束から解放され、
迷妄(宗教原理)から解放され、
国民国家の成立によって、自由と相対的平等を得た。
その後の様々な修正資本主義の試みは、自らの自動的回転を保証する試みではあるが、それによってさらなる中間層と法整備は進み、先進本主義段階では、原理的に週休3日とも4日とも保証される時代。
富の偏在と、それを促すメカニズムが、今や環境問題であって、
革命の内容も、反権力ー国家権力奪取で済むほど単純ではなかろう。
ヨーロッパで、地域自治運動=ミュニシバリズムから国家を相対化する運動が大きな成果をあげていることから見ても、
日本が生活過程から政治を疎外し転倒したナショナルなものに見合った革命論だということができる。
マルクスから入ると、あるいはマルクスしか読まない、あるいはマルクスとボリシェビズムが接続していると単純化すると、
近代の豊饒な思想と獲得物を思想に内包することができない。
だいたいまだ「新左翼」だと党派が残っているのは、どこかで手抜きしたか、下部組織員に犠牲を強いて上が生き延びたからにすぎないのではないか?
共産党をみればよく分かる。