ウクライナVSロシア、なぜプーチンが「悪」であるのかーどの視点でそう言えるのか

久々に「痛ましさ」という感情がこみ上げてくる。
ウクライナの人びとの悲痛な声と、着の身着のままの逃避映像を見ていると、改めて国家や大衆の存在様式について考えざるを得ない。
国家はそれ自体が仮想敵を内在させている。
国家はしたがってその政体によって戦争をするとかしないとか判断できない。
政権と国民と他国関係によって、さまざまな理由で戦争は勃発する。だから一概に戦争当事国同士を比較して、どちらが正義であるかという論議は極めてむつかしい。
有名なクラウゼヴィッツは「戦争は別の手段による政治の継続」だという、レーニンは「戦争は別の手段による経済の継続」だともいう。
戦後生まれの団塊世代の私は、民主主義ももたらし、一番民主的であると思っていたアメリカが、戦後もっとも戦争を行い、その端緒はいつも情報機関の工作の後に、圧倒的に勝てる国にしか攻め込まなかった事実を知っている。
私が反米帝国主義で一貫として反対運動をしたのも、その国家の矛盾を、他国に転嫁することを唾棄したからだった。
共産主義国ソ連も東欧に侵攻し、弱小国家を自らの欲望の対象とし、内在的矛盾を転嫁した。
少年時代にも、「プラハの春」などのニュースに涙したものであった。
政体に関係なく、国家は暴力によって成立し、暴力的エネルギーを潜在的に内包し、決して大国へと向かわず弱小国家へ暴力的支配を向けるのである。
現在のロシアのウクライナ侵略について、いくつかの意見にわかれているが、微妙な意見があってこれは論議しておく必要があると思った。
これとは、「ロシアも米とNatoに追い込まれたためで一部の理がある」というものだ。
或いは「相互に情報戦をするから何が本当かわからないから、ロシアだけを悪者にすべきでない」というものだ。
それはその通りで、否定はしない。
しかし、私たちが今目にしているものー現在の世界各国のマスコミの映像は、どちらが量的に多いかという問題はあっても、ウクライナ国民が逃げ惑う姿であって、ロシア国民が逃げ惑っている姿ではない。これは信用してもいいだろう。
細かい点では、情報戦が当然あって、個々の戦闘情報は疑いながら理解する必要があるだろう。
ロシア追い詰められ論もウクライナちょっかい出し論も米国金融のロシア解体論も、わたしには確認しようがないし、またありうるかもしれないとも思う。
しかし、私が戦後の中で獲得した考えは、どちらの「国家」が正義か悪か、という次元で語る事の無意味さである。
私は、国家と戦争の問題は、つまるところ誰が最も不幸になるかという点で論じるということである。
だから九条護憲が、エリートの論議で国民のものになっていないと述べてきた。
ある理念から演繹的に「愚昧な庶民」に九条の理念に目を覚ませという古典マルクス政党のようなやり方では、九条はいずれ死ぬだろうと予言しているのである。
従って、私は徹底的に庶民の視線から戦争も国家も見るように自己訓練してきたつもりだ。
それからすれば、この戦争はやはりロシアが悪い。
庶民を殺害する国家、自国国家も含めて、まして他国軍が小国家庶民を殺害する一点で、いかなる正当性もない。
権力者や政治家や学識者は、ロシア「国家」とウクライナ「国家」の次元で語るが、それは戦争における国家と大衆(庶民)の問題の本質をズラしてしまう。
ウクライナだって、男性は国家総動員法で国外退去できず、戦争を国家によって要請されてしまっている。
私たちが、確かに戦争反対の理由として、悪の国家として指弾できるとしたら、高尚な情勢論や歴史的背景でもない。
正規軍を国境を越えて他国に入れた国家であろう。
嘗て帝国日本が、アメリカに追い詰められてやむなく戦争をしたと、消極的に正当化しても、それはアジア諸国(当時の弱小国ばかり)に皇軍をいれ2000万人を戦禍で殺した。
これも理由になりはしないだろう。
もちろんロシア人のなかにも、勇気ある反戦デモの人びともいる。
日本には、核シェア論を脊髄反射的にわめく安倍晋三橋下徹もいる。
この違いは、国家へ向き合う時の、それぞれの一面であって、国家に向き合う時、どのような政体の国家に住まおうと、選択せざるを得ない。
私は今回、加藤典洋の遺言のような「国連軍構想」は次世代の平和のための条件になりうるかもしれないと、初めて現実味を感じた。
 
ven Satow