ウクライナ戦争勃発時に、私が書いた日本リベラル派や外交官や大学人が書いた「プーチンの戦争」=「アメリカの代理戦争」といったどっちもどっちも論、また命は大切だからゼレンスキーは間違えたアメリカのピエロだという見方などに異議を唱えたものだった。
つまり国家を語り民衆の不可視の心情を切り捨てるイデオロギーであっても、思想ではないということである。
日本の反戦平和論者が、通俗道徳にした「命は大切」だというものを越えざるをえない、すなわち自己のアイデンティティ確保には命を捨てることもありうるということに気づかず、またしたことのない国民には理解できない領域なのだ。
反戦平和、命は大事、そう言ってきた戦後は、アジア周辺国の搾取と抑圧、他国民の命をかけて戦っている間も、米国の核の傘のもとに守られた日本人の在りようであたことに、このウクライナ戦争で気づけよと思って書いたのである。
そして今思うに、ウクライナ戦争には、二つのレイヤーが必要だろうと思っている。
私の書いたウクライナ支援論は、あくまで「正義論」であり、人類史における戦争廃絶への哲学的視点である。
ここで再び国家主体の、大国利害の、ロシア配慮優先の調停政策であってはならない。
それゆえにロシアよりウクライナの方が多分停戦はむづかしだろうとみている。
戦闘は止んでも、ウクライナ国民は抵抗を止めない、極端なウルトラナショナルリズムが生まれる可能性は否定できない。