ウクライナの犠牲を無駄にするな!九条の内向き一国平和主義からインターナショナリズムへ飛躍させよ!

ウクライナの地獄の惨状がますます進行している。
半世紀前の満州で起きた、ロシアの侵攻と無差別虐殺、婦女強姦、金品強奪、捕虜強制連行と非人間的強制労働などが、改めて想起させられる。
軍隊は全て狂暴であるとは言え、特にロシアや日本の兵隊が、国外に一旦侵略すると、良き青年や父親が途端に強姦魔や強盗に変身する。   
やはり貧しく抑圧的な環境にいる兵隊たちが、その残忍さを発揮するように思う。
どこも一緒だとも言えるが、同時に全体主義で抑圧された兵隊はより残忍だともいえるのではないか。
さて、この地獄の光景をまざまざと見せられて、さすがにプーチンにも言い分があるとか、ウクライナのネオナチを殲滅するためでどっちもどっちだというような、平和ボケしたスターリニズムの総括もろくにしてこなかったオールド左派や、スターリニズムがナチズムと同じ過酷なものだと知らぬ若いもんたちのロシア擁護論も影を潜めた。
ウクライナ擁護が、政府と一致するから同じだと即断するほど単純ではない。
アメリカの穴舐めで支援し、武器まがいの提供をしようというわけではない。
制裁罰則方法がないからこそ、常任理事国で、平和のための特権を国連で付与され、その義務を果たさず、特権を逆手にとって国際法違反をしたロシアの非難を国際世論がやらなければ、九条の主旨に反すると思うからだ。
そもそも常任理事国が、普通国の交戦権を剥奪し、正義と武力を独占する構想で国連はスタートしたはずであった。国連憲章日本国憲法前文が似たような文章になっているのはそれゆえである。それだけ、第二次大戦の指導者たちの悲惨な戦争への反省と嫌悪が深かったということだ。
しかし冷戦勃発で、この世界の普通国の交戦権剥奪と、軍事的コントロールを五大国のみが独占し、二度と世界大戦が起きぬようにしようとした構想は空中分解する。マッカーサーはその頓挫を知ったのは、日本国憲法は発表した数日後であった。九条だけが、ぎこちない解釈不安定なまま残された。
冷戦によって、微塵に平和構想を砕き、結果戦後の戦争はこの常任理事国によって戦争が頻発したという皮肉をもう一度噛み締めることだ。
九条が、戦争嫌悪、戦争忌避、一国平和論に終始してきた日本の場合、このウクライナ戦争の対応をめぐってほとんど内向きの「まきこれない」論に終始している。もともとがそうだと言えばそれっきりだが、その無効を指摘しても論争にもならない。
そもそも九条がいいものなら、各国の憲法に書き込めと言う方がいいだろう。
国連憲章に各国は交戦権を委任し、軍は国連に一元化し、万一紛争があれば「国連軍」が対応する。
イメージの段階だが、加藤典洋の構想を私は夢だと思っていたが、この戦争で、Natoの存在をみていると、世界集団安保をさらに進めて、加藤の「国連軍構想」が現実的な根拠をもって、可能ではないかと思うようになった。
いずれにしても、国連の再構築ー常任理事国の解体と国連憲章へ九条を条文化することが急務である。
内向きの一国平和論では世界の平和を守れない。
蛇足だが、スウェーデンフィンランドNato加盟検討が次期ヨーロッパの安全保障を決定づけるかもしれない。
フィンランドは、ロシアに配慮していた中央党と社民党が、Nato加盟に変更、唯一左翼同盟だけが反対。
どこにでも、少しのナチスとスターリニストがまだ残っているようだ。
プーチンの大ロシア帝国ソ連帝国への憧憬に同期した世界のスターリニストがロシアにも一理あるなどと寝言を言ったのだ。
ナチズムとスターリニズムは資本主義の双子の非嫡出子、この差別と排外主義での過酷さはほとんど同じだと思っておいた方がいい。
(Facebookより転載)