77年目の敗戦日=日本の賞味期限に思うこと。

昨日は敗戦記念日
テレビの特集も新しい発掘が紹介されたものは心に沁みるものもあった。
NHKの「地獄の戦場」は、インパール作戦の見事な失敗と、明治から77年目の日本統治機構の劣化、また日本人の愚劣さの一旦を描いていて、観ごたえがあった。
なかでも、当時対峙した英軍側の日本軍参謀長や司令官の調書が紹介されだが、いかに棄兵棄民を屁とも思わず、自分たちだけが逃亡したかが明白になっている。
ラングーンに置き去りにした、兵民混成部隊など民間人を含めて36000人の全滅は予測していたと司令官は証言し、何の苦悩も述懐していない。
それに比して、日本兵の聴取を担当した英軍将校は、自分の任務とはいえ、日本側の取得情報をもとに英軍とビルマ反日軍の掃討作戦が敢行された結果、大量の日本軍と民間人が殺戮されたことに、心を痛め、戦後もその苦悩の内に記録を記述し続けた。
更に英軍トップは、日本軍の致命的欠陥は、「失敗を認める勇気の欠乏、それを克服するための自己反省の態度がない」と指摘している点である。戦争のさなかに、こうした民族エリートの負性を見抜いていたことに、やはりアングロサクソンにはかなわないと言うべきか。明治維新を成し遂げた成り上がり者の薩長の傲慢な遺伝子が、綿々と続いているように思った。
何という兵の質の違いか!
太平洋戦争後77年目の日本の、国家統治と政治家とエリートと国民の質はどうなのだろうか?この映像を観て陰鬱な気持ちに襲われた夜であった。
今年は明治から大日本帝国が崩壊した77目と同じ、
太平洋戦争から戦後が77年と同じ年月を数えた。
この77年をひとつの隠喩にしているのは、やはり安倍の暗殺であり、その後始末の杜撰さである。
戦後に積み上げてきた思想が、果たして未だに有効なのか、とくに政治実権をなかなか取れない左派というかリベラルというか、その内実を本気で検討する時期にきているのではないのか?
もうひとつ、ニュースでしらけた話。
ウクライナ避難学生と日本人学生の平和交流会があったらしい。
日本女子学生が質問する、
「武器を支援して欲しいというが、それでは戦争が終わらず犠牲者が増えるのではないか?」
リベラルエリートの口吻を真似て言う。
口ごもってたどたどしい日本語で「武器がないと負けてしまう」と。
私はどちらが正しいかは一旦横に置いて、
日本女子学生は何と無神経な質問をするのか、とあきれた。
侵略されて戦争をしている国民に、武器を捨てろと他国民がいうことだろうか。
それは侵略者ロシアのv被占領国民になれと言っているに等しいということがわからないのか。
日本人の良心的平和論者は、武器をすてること、戦闘終結だけが平和状態だという、極めて日本的戦後マインドで語る。
どこにも、ロシアを早期制圧し、撤退される方法は何かないか?
プーチンの過ちはもはや世界の認めるところだ。
ではロシアを粉砕して、ウクライナから撤退されるにはどうするか、そこの議論は保守派の軍事一辺倒である。(実際には、軍事支援も武器供与でお茶を濁しているのだが)
ではウクライナを被占領国民にさせずに、軍事依存せずにロシアを撤退させて、ロシアを国連の常任理事国から排除させるにはどうしたらよいのか、それに真剣に言及されなければ、リベラル派の戦争論は、ただの保守派の補完的言説でしかない。
ウクライナ国民をバカにするんじゃねぇ!とウクライナ国民に代わって言っといてやる。
77年間は、日本人が劣化し、国民を挙げて愚劣となってしまう、賞味期限としての自覚を強く持たねばと思ったものだ。