管見の限り、戦争の悪と国家の悪が、国家対国家のレベルだけでかたられているためだろう。戦争と国家の両軸で語られていないせいである。
私が問題にするのは、ウクライナもロシアも戦争をしている限りどっちもどっちもだという平和論者の論評である。
戦争をする点で両者とも間違いだと。
特にNATOの存続と東進問題を背景に踏まえて、プチーンの擁護論である。
特に訳知り顔の、リベラル派に多い。
(ゼレンスキーに国会演説をさせようというような、保守派の米国の穴舐めをいそいそとするような連中は、ここでは論外である。)
しかし、私はこの戦争は明かに、プーチンが悪いと言い続けている。
それは、事実として、殺されているのはウクライナの「庶民」であり、ロシア「庶民」ではないからである。
戦争は国家間戦争だが、国家のレベルだけで政治を語ると、これが見えない。
ゼレンスキーの問題は、総動員法で庶民をしばり戦争に駆り出していることだろう。しかしこれは国家の悪であって、今回の戦争の悪の副次的要素である。
ありていにいえば、
軍人同士が、庶民のいない無人島や平原で戦争する分には好きなようにしたらいいと思う。しかし近代戦は、国家総力戦であり「庶民」の殺害が必須の勝因となっている。
近代の平和論は、国家の悪と戦争の悪を、一旦峻別し、平和とは何かについての「現象学的還元」によって普遍的な合意を求める必要がある。
そうすれば、吉本が言うように、平和の本質=大切なものは「庶民の日常における安寧のなかに老いて死ぬ」ことにつきるのではないか。
それを阻害するものが悪であるといえるだろう。
戦争をやる奴は全て悪だという言い方は、原理的にはそういえるが、同時に何も語っていない。
「庶民」の生活過程という軸を設定しないと、戦争の実相を見逃す。
戦争一般の悪を言うと、その通りだが、政治的展望から遠ざかる。
戦争は全て悪だというレトリックは真理であっても、それはイロニーでしかないのだ。
イロニーは、対象の批判はしても展望は提示できない。それは保守の方法であっても、左派の方法ではないのである。