ロシアのウクライナ侵攻
-問題の所在と解決の道筋-浅井基文 元外務省職員 現在大阪法経大客員教授
ロシアがウクライナに軍事侵攻したことはショックだった。日本、米欧ではプーチン・ロシアに「専制主義」「全体主義」「権威主義」のレッテルが貼られているから、いわゆる西側国際世論がロシアの今回の行動を激しく非難したことは自然の成り行きだった。この非難にロシアがたじろぎ、撤兵決断に踏み切ることになるならば、「西側国際世論の一方的勝利」という結果で終わることになるだろう。
しかし、イソップの「北風と太陽」の寓話に鑑みれば、物事はそれほど簡単ではないと思われる。旅人(ロシア)は北風(西側国際世論)にはますます身構えるばかりだろう。旅人の身構える気持ちを解きほぐすことによってのみ、外套を脱ぐこと(ウクライナ撤兵)を促すことができる。私たちは太陽的アプローチを考えなければならない。そのためにはまず、旅人(ロシア)の気持ち(問題意識)を理解することから始めなければならない。
1991年に崩壊したソ連の後継国となったロシアは、西側(アメリカ・NATO)に対する緩衝地帯(東欧諸国)を失い、西側の軍事的脅威に直面することとなった。しかもその後の約30年間、NATOの東方拡大と旧ソ連邦諸国のカラー革命により、ロシアを取り巻く安全保障環境は年を追う毎に厳しさを増してきた。
NATOの東方拡大は5回にも及ぶ。すなわち、1999年にポーランド、チェコ、ハンガリー、2004年にルーマニア、ブルガリア、スロヴェニア、スロヴァキア、ラトビア、リトアニア、エストニア、2009年にアルバニアとクロアチア、2017年にモンテネグロ、2020年には北マケドニアと、NATO加盟国は16カ国から30カ国にまで膨れ上がってきた。ロシアにとっての対西側正面の緩衝地帯は、今やベラルーシとウクライナの2国を残すのみになっている。 カラー革命とは、主に旧ソ連邦を構成していた国々で起こった民主化運動の総称である。その中に、2003年のジョージアにおけるバラ革命、2005年のキルギスにおけるチューリップ革命と並んで、2004年のウクライナにおけるオレンジ革命が含まれる。
ウクライナは、主に国の西側(北西部)を基盤とする、親西側傾向が強いウクライナ系住民(宗教的にはカトリック。全人口の約2/3)と、東側(南東部)を基盤とし、親ロシア傾向が強いロシア系住民(宗教的にはロシア正教。全人口の約1/3)によって構成されている、と言われる。オレンジ革命後もウクライナ政情は安定せず、特に2014年のいわゆるウクライナ騒乱によってヤヌコヴィッチ大統領がロシアに亡命した後、ロシア系住民はクリミア住民投票でロシアへの帰属を選択した。
東南部のドネツク及びルガンスク2州も住民投票を行って「人民共和国」成立を宣言し、これを鎮圧しようとしたウクライナ政府との間で内戦状態となった。ロシアとウクライナは、フランスとドイツの仲介を得て2州での停戦(ミンスク合意)にこぎ着けたが、その後も小競り合いが続き、ロシアとウクライナの対立も深まっていった。
2019年にウクライナで行われた大統領選挙で、コメディアン出身で政治にはズブの素人だったゼレンスキーが勝利した。その政治手腕に対しては当初から、内外から厳しい疑問符がつけられ、これといった成果を挙げることができないゼレンスキーの支持率はじり貧をたどった。ゼレンスキーは事態を打開するべく、ミンスク合意履行に応じず、国内的にはロシア語の使用を制限するなどロシア系住民に対する締め付けを行い、また、ウクライナのNATO加盟に理解を示すアメリカを公式訪問するなど、ロシアとの対決姿勢を鮮明にすることで国内支持基盤を回復しようとした。
これに対して、ロシアは外交攻勢で局面の打開を図ろうとした。すなわち、1月27日及び28日、ラブロフ外相はロシア・メディアの質問に答える形で、ロシアがアメリカとNATOに対して思い切った外交的アプローチを行ったことを明らかにした。
まずラブロフは、2021年12月にロシアがアメリカとNATOに対してロ米間及びロシア・NATO間の安全保障に関する条約・協定案を提示し、これに対するアメリカ及びNATOからの回答を受け取ったという事実を明らかにするとともに、その回答に対するロシア側の立場を明らかにしたのだ。その立場とは次の2点である。
第一、西側がウクライナについて取ろうとしている行動は、アメリカ大統領を含むOSCE諸国首脳が署名した1999年イスタンブール首脳宣言及び2010年アスタナ首脳宣言に盛り込まれた「不可分の安全保障原則」に反するものであり、ロシアは西側がこの原則を遵守することを改めて要求する。
ちなみに、「不可分の安全保障原則」とは、各国は「安全保障取り決め(同盟条約を含む)を選択する固有の権利」を持つが、「他国の安全保障を犠牲にする形で安全保障を強化しない」(アスタナ宣言第3項)ことを言う。簡単に言えば、自国の安全と他国の安全は不可分に結びついていることを認め、他国の安全を犠牲にする形で自国の安全を追求してはならない、ということだ。
第二、ロシアとしては、首脳宣言での約束すら守らない西側に対して、条約・協定という法的拘束力ある文書で「不可分の安全保障原則」遵守を迫る。具体的には、①西側はウクライナのNATO加盟を認めない、②西側はウクライナに軍事力を駐留させず、攻撃型のミサイルも配備しない、以上2点を条約・協定に明記する。
ラブロフは、ロシアがアメリカに提案した条約案に以下の規定が置かれていることも明らかにした。○第1条 締約国は、相手国の安全保障に影響を及ぼす行動を取ってはならず、また、そうした行動に参加し、もしくはこれを支援してはならない。また、相手国の核心的な安全保障上の利益を損なう安全保障上の措置を実行してはならない。
○第3条 締約国は、相手国に対する武力攻撃または相手国の核心的な安全保障上の利益に影響を及ぼすその他の行動を準備し、遂行するために他国の領域を使用してはならない。
○第4条 アメリカは、NATOのさらなる東方拡大を防止すること及び旧ソ連邦諸国のNATOへの加盟を拒否することを約束する。アメリカは、NATO加盟国ではない旧ソ連邦諸国の領土に軍事基地を設置してはならず、軍事行動のためにこれら諸国のインフラを使用することも、これら諸国との軍事協力を発展することもしてはならない。
○第5条 締約国は、相手国が自国の国家安全保障に対する脅威と認識するような形で軍事力を展開することを控えなければならない。このようなロシア側の外交攻勢に対しても、アメリカとNATOはまともに向き合うことを拒み続けた。これに業を煮やしたロシアは、ウクライナ南東部2州の独立を承認し、次いでウクライナに対する軍事侵攻に踏み切ったということだ。ウクライナ侵攻の目的について、プーチン(及びラブロフ)は「ウクライナの中立化と非軍事化」に関するウクライナの同意を取り付けない限り、軍事作戦を止めないことをくり返し明言している。
ロシアが「国連憲章違反の暴挙」という批判を受けるリスクが明らかなウクライナ侵攻に踏み切ったのは何故か。もともとロシアは、西側優位の国際秩序に固執するアメリカに対抗して、中国とともに、国連・国連憲章を中心とする民主的な国際秩序の構築を主張してきた。ロシアにとって、ウクライナ軍事侵攻は自らの主張とも矛盾する極めてハードルの高い、危険な選択であったことは間違いない。
そのような極めてリスクの高い行動に敢えて踏み切った(、というより、踏み切らざるを得なかった)ロシアは、よほど切羽詰まった状況に追い込まれていたと理解するほかない。私としては、ロシアがウクライナ侵攻に踏み切らざるを得なかったのは次のように理解するほかないと考える。
そもそも、アメリカとNATOがウクライナのNATO加盟を認めないことを確約さえしていれば、ロシアの最低限の安全保障は確保されるはずだった。しかし、アメリカとNATOは言を左右にして応じなかった。ロシアとしては、このままずるずると西側に引き延ばされ続ければ、ウクライナのNATO加盟という最悪の結果に直面せざるを得なくなると判断するしかなかった。しかも、アメリカもNATOも、ウクライナがNATOに加盟していない現在の状況のもとでのウクライナへの派兵については否定している。
ロシアとしては、このわずかに残されているタイミングを捉えてウクライナ侵攻を敢行することにより、ウクライナから直接に中立化への約束を強制的に取り付けるしかないと判断したと思われる。
しかし、プーチン自身が強調しているように、ロシア、ウクライナそしてベラルーシはいわば「身内同士」だ。ウクライナに対して力ずくでロシアの要求を呑ませることは禍根を残すだけで、ロシアにとっての安全保障環境改善につながらないことは目に見えている。プーチン・ロシアの真の狙いは、ウクライナ侵攻という思い切った手段に訴えることによって、アメリカ・NATOから「ウクライナのNATO加盟は認めない」という明確な言質を引き出すことにあると思われる。
ただし、アメリカとNATOがそういう言質を与える保障はどこにもない。したがって、ロシアとしてはウクライナとの交渉チャンネルを維持し、最悪でもウクライナから「中立化」確約を取り付けたいと考えているだろう。プーチン・ロシアがチャートのない航路に足を踏み入れたことは間違いなく、結果が吉と出るか凶と出るかは予断を許さない。
なお、ロシアはウクライナに対して、中立化だけではなく、非軍事化、さらにはクリミアの既成事実、ドネツク及びルガンスクの全域支配をも要求しているが、これを額面どおりに受け止める必要はないと思われる。むしろ、「中立化」確約を取り付けるために、最初の「掛け値」を高くしているとみるべきだろう。
説明が長くなった。冒頭に述べたイソップの寓話「北風と太陽」に話を戻そう。北風(西側国際世論)では旅人(ロシア)に外套を脱がせることはできない。太陽(アメリカ・NATOがウクライナのNATO加盟は認めないという確約あるいはウクライナ自身による中立化の確約)のみが旅人(ロシア)の警戒心を解くことができる、ということだ。
最後に、私たちとしては、西側論調に振り回されることなく、ロシアがウクライナ軍事侵攻を余儀なくされた原因をしっかり見て取ることが求められる。プーチン・ロシアの「専制主義」「全体主義」「権威主義」に原因があるのではない。ロシアの安全保障環境を際限なく損なおうとする西側、特にアメリカの「東方拡大」戦略にあることを見極めなければならない。ロシア糾弾に終始するのは本末転倒であり、私たちは何よりもまず、ウクライナをNATOに加盟させてロシアの息の根を止めようとするアメリカの戦略的貪欲さを徹底的に批判することが求められている。(Facebook掲載、ソース「21世紀の日本と国際社会」ロシアのウクライナ侵攻<br>-問題の所在と解決の道筋-|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ (www.ne.jp))
【註】分かりやすいまとめですが、管理人は著者に必ずしも同意しているわけではありません。
理由は、歴史を国家の因果関係だけで把握していること。この戦争は、8年前のロシアによるクリミア併合に発しており、いきなり戦争になったわけではない。複雑な民族的軋轢がありながらソ連に包摂されてきたが、その崩壊によってウクライナが独立したことに端を発している。したがってナショナリズムの戦いである限り、地域紛争は相互に非難できるようなことは一旦保留し、現象学的還元とでもいう事実だけから出発することを積み重ねていかなければ本質は見えてこないだろう。
この著者は近年の歴史を因果関係やゼレンスキーの失敗で説明するが、それは事後的に都合の良い事実だけ(しかも外交官らしく国家だけで)を点と線で結ぶ記述方法となっている。歴史は無意識の総体が、ある条件のまとまりで結果されるという本来の歴史観ではない。ある事実が最初から整合的に一つの結果に帰結するものであれば、専門家や分析家が未来予測を外したりすることは無いはずだ。今回も専門家の間では、ロシアの侵攻がありえないと予測していた方が多かった。
従って、西側の東方拡大がロシアを追い込んだ結果で、ソ連崩壊時の米ソ口約束を西側が反故にしたためロシアはやむなく侵略した、と書く。ここには大国が勝手に諸国民の意思を無視して「ボス交」することがさも妥当なことのようにみなされている。こうした外交官のもっともらしい国家間のやり取りだけで説明するのは極めて一面的であろう。その後に起きたカラー革命が、次々に東欧諸国に起きたのはなぜか?即ち大衆の希望と意思決定がすっぽり論理のなかから見落とされていることだ。
条約などは、その時の政権と国民大衆の意思が齟齬をきたしている場合は、どこの国でも事後的に改訂や抵抗をくり返すものである。
プーチンが、西側がつれなく当たるのでやむなく侵略した、などとという言い方で、常任理事国の義務を果たさず、国際法違反を肯定的に擁護するような論調はロシアの責任を、国際的倫理をぼかしてしまう。事実この論調は、専門家や旧左翼崩れなどに広く受け入れられて、日本の「公平な視方として、どっちもどっち論」を初期に誘導した。
しかし、ソ連は解体し、ワルシャワ機構諸国は独立したのである。それをただの一国となったロシアが、いまだに自分の属国として自由にするという意思は問題ではないか。確かに、ロシアのナショナリズムとウクライナのナショナリズムの衝突であるが、ではどっちもどっちだとウクライナにも非があり、外交の失敗だと非難されるべきなのか。
プーチンやロシア国民のナショナリズムは、今は無きスターリズムへの憧憬であろう。少なくとも抑圧的で権威主義的なスターリニズムをウクライナ国民は拒否しているわけで、それを肯定的に、ロシアの正当化をはかる言説はまったく間違いだと管理人は主張する。
後発ながら、東欧諸国国民は自由主義を望み、ロシアのような威圧的で権威主義的な国家の属国を拒否しているということが、ウクライナ国民のナショナリズムであって、それが根底的なスターリニストプーチンへの抵抗となっていると言いうるだろう。また、いかなる理由があろうとも、第二次大戦後の国際秩序は、他国へ正規軍を入れることを国際法として禁じてきており、ロシアにはいかなる正義も妥当性もない。管理人が米国の戦争にも反対してきたのは、国民、大衆の意向を無視し、大国の利益のために征服、属国化してきたからであり、ロシアも今回同類のことをしたわけで、この著者のように原因を米国・NATOに求めるのは言い掛かりとしか言えまい。
反米は反米でいいのだが、なんでも米国の背後の暗躍だと結びつけると、まさにロシアプーチンの主張そのものとなる。それは国家というものが、自国利益のために潜在的に仮想敵を内包して活動していることに無知か、幼稚な国家観でしかない。
また、西側原因説は、ミンスク合意を持ち出すが、内紛の原因はロシア系軍事組織が攪乱したことから発生しており、その後ロシアはロシア国籍を希望者に与えたがわずか3割程度で、ロシア系もほとんどロシアへの帰属を望まなかった。つまり住民投票もはたしてまともな住民投票だったかは藪の中だと言われている。
3月13日時点で、マリウポリでのジェノサイドをみれば、この地域はロシア人が2人に1人という地域とのことだが、ロシア軍は東部ロシア人の救出と大義名分に挙げているものの、やっていることはロシア人も含めて無差別攻撃し、占領後は市内からの逃避を禁じたうえで市民を皆殺しにしている。(マリウポリ市長のNHKインタビュー)
さらに米国・Natoは、紛争を抱えている国(ウクライナ)は、加盟を認めない方針でウクライナからの要請を無視し続けてきたことも付記しておく必要がある。
その他も多々指摘できるが、ロシアは国内矛盾を、属国を抱えて転嫁させないことであろう。大国のこうした20C的統治を国際世論は厳しく指弾しなければ、国際法など便所の紙切れにすぎなくなる。
なお、アメリカが批判される要素があるとすれば、Natoに軍とミサイルを配備しないとの合意に、実質的にポーランドには米軍が常駐している点だ。しかしこれとてもポーランドの国民がロシアの脅威を感じ、軍事的準備をした結果である。アメリカが一方的に制圧して、属国化し、日本のように全土基地化しているわけではない。
国家間の外交だけでは、こうした複雑な地域紛争は本質が見えてこない。国民大衆の希望と方向性が、実は歴史を決定づけていることを無視できない時代になっていることをこの著者は仕事柄見落としているように思えて仕方がない。
この戦争で、平和論者を自称してきた者たちが、「ロシアは撤退せよ」と言わずに、「ロシアにも一理ある、背後で暗躍した米国・Natoに責任がある」とか「大国を刺激してプーチンを怒らせたゼレンスキーの無能にある」とか、侵略された側に問題があるように言いつのるのはなぜか。
アーレントは、このような被害側にも問題があるという言い方は、人間の劣化を招くと忠告した。「強姦された側にも問題がある」という言い方は排外差別の右翼の論理スタイルであるが、今回平和論者たちがこうした論理スタイルに陥ってしまった。
戦うウクライナ国民に、日本人が高みの見物しながらあなた方にも問題がある、ということは傲慢と言うしかないだろう。
「ロシアは即時撤退を!」、「ウクライナはウクライナ国民の意思を尊重せよ」、そして西側諸国と国際世論は、停戦のためのロシア非難を先鋭化しなければならないと考える。
日本の左派や平和論者は、反米反政府の凝り固まった下敷きで書いているのではないのか、さもなければスターリニズムへの甘い認識と総括しかしてこなかったか、のどちらかであろう。