左翼活動家の「強い」「弱い」の評価基準でいいのかー重信房子回顧録へのある元活動家の感想より。

今朝は忙しかった。
学童交通安全見守り隊に参加。
登校の子供たちの表情はさまざまだ。
友達同士はしゃぎながら元気いっぱいの子、生真面目な顔でさあやるぞと緊張の子、ふざけながらおっちゃんにジャンケンを仕掛けてくる子、何か嬉しくなってくる。
元気なく、朝から憂鬱そうな子には、話をじっくり聞いてやりたい。
 帰りがけには、中学生の通学路だ。
一人、本を読みながら歩いている。思わず声をかけた。
二宮金次郎みたいだね」。少年はえへへと嗤ている。
「本面白いの?」、「はい」。
スマホ見るより本読んだ方がいいよね。」、「はい」。
「立派な少年を久しぶりにみたよー、偉いな。」
少年はニコニコ嬉しそうだった。
こういう少年に出会うと懐かしく、挫折せず希望の人生を歩んで欲しいと思う。生きている間にリスクの少ない社会を作れるか?時間がない。
ロマンを求めるのはどの人も当然だ。
ロマンは自己対象化を通じて何事かをなし、何ものかになることだ。そう、なぜそのような衝動にかられるのか。そう自己承認が満たされるからだ。
さまざまな「賞」や「昇格」は、そうした動機にうらづけられている。
しかし労働者や左翼活動家はそういうものから無縁である。
仲間内から一目置かれる、という承認が全てだ。
勢い、ジャーナリスティックなテーマを選ぶ、組織内の官僚制を昇り権力を手にする、など。
そして左翼なら、情勢分析を主観的に整えて激越な闘争方針を出す。ロマン主義からすれば、自己承認欲求の最適化が、本人の無意識の動機であるから、矛盾の検証も、知的検証(他者との論議)もなくても不安にならない。いわば少年特攻隊が、神国日本の天皇をロマン的対象にして、軍国国民のなかの承認欲求を満足させる構図と同じである。この時ロマン的対象は虚構かどうかはどうでもいいことなのだ。
さて、元社学同旗派とかいう老人が、重信房子回顧録の感想を書いていたが、確かに叛旗派らしい軍事路線否定、また党というものの懐疑的認識の特徴がみられている。
ただ私ならあのような設問はしない。
「強い活動家」、「弱い活動家」などという設問から何が得られるのか?
困難があってもより過激(軍事化)にやり抜かば「強い活動家」でご立派だ。
「党」指示に忠実に、やり抜いたら「強い活動家」でご立派だ。
なーんだ、結局日共のマインドのパロディーじゃないか。
私のように、党派が日共のパロディーに過ぎないと当時から思ってきた者は、このような発想自体に辟易するのである。
新左翼党派が、60年反安保全学連解体後、ブントの反省からより強固の「党」を創出しようとした、特に革共同は。その意味で60年にブントに主導権を握られた革共同は、強固の「党」創りとして、70年まで一貫として日共のエピゴーネンであった。党派いずれもボルシェビキ民主集中制できた。
ここには、小さい組織ながら官僚制が支配し、「やり抜くこと」が優秀な活動家の証明であった。
戦前の日共の活動も組織マインドもエピゴーネンであった。
私は、高校二年で倉橋由美子の「パルタイ」を読み、「党」というものへの懐疑に共感し、理論的にはマルクシズムには親しんだが、吉本隆明に大学で出会い、天皇制の逆立としての「党」では、決定的に日本の革命は、ロマン的対象ではあっても現実には無理だと思ってきた。
その感度で、党派では叛旗派に最もシンパシーを感じていたが、このような重信感想文を読まされると、残念な気持ちが沸き上がってくるのだった。
赤軍派に限らず問題は、「権力の実体化」であり、権力がアプリオリに悪であるという認識だ。
権力は、その妥当性であり、人民の「一般意思」がその妥当性を根拠づける。
その近代に行き着いた暴力縮減の方法を内包してしか革命はならないし、なしてはいけない。
もしその妥当性が認められない場合は、次の権力も暴力的に人民を統制する。これが戦争と革命を経て、現在の行き着いた歴史的地平だろう。
ジーン・シャープは、20世紀の反政府闘争のすべてを統計的にも内在的にも研究して書いている。
暴力闘争の成功率は40%以下で、多くが人民の非暴力闘争の方が利があることを教えてくれている。
若かりし日のロマンは、ロマンの追求だけで「強い」「弱い」などと言う評価では真実を見誤る。
 
(参考)
感想文の掲載Facebook Facebook 『福井紳一:「強さと」「弱さ」ー岡部隆志を論稿を読む。(2023年12月4日)』