代島治彦監督『きみが死んだあとで』鑑賞ー1967年10月8日山﨑博昭の死

映画「きみが死んだあとで」―政治主義を超えていく文学の眼

                          

 

 代島治彦監督の「きみが死んだあとで」は、「10・8山﨑博昭プロジェクト」主催による「2020大阪秋の集会」(11月3日火・祝日)で上映されたものでした。聞けば東京とほぼ同じ二〇〇名近い参加者が鑑賞したとのことです。

 1960年代後半の山﨑博昭と彼の通っていた大手前高校の友人たちの青春群像とでもいうような映画です。ただし、そこには時代情況を内在化し、社会へのコミットメントを青年はなぜ激しく求めたのか。それを代島監督は山﨑博昭を描くことで捉えようとしています。

 山﨑博昭が1968年10月8日、羽田弁天橋で官憲の虐殺で短い生涯を終えました。それは政治的にみれば、そこから政治闘争の大きな高揚を導いたものとして語ることができます、事実そのように多くは語られてきました。私も山﨑博昭の表象は世評をなぞるようなものでした。

私のようなノンセクトで無名な者には、どこからも執筆依頼は来ません。この際、拙誌の特権で山﨑博昭体験をメモしておきます。程度の差はあれ、多分同世代の感受の仕方に差はないと思うからです。

 1967年10月9日の朝、西陣の機織り工場を改造したタコ部屋のような下宿でいつものように目覚めました。登校する前にチラッと新聞を見ると、京大生が機動隊との衝突で死亡と一面トップで報じていました。その京大生は私と同年の一回生でした。読むうちに涙が溢れ次から次に滴り落ちて新聞を濡らしました。知人でもない、羽田闘争なども知っていたわけではないのに、自分で意味も分からず涙が溢れてきたことを今でも鮮明に記憶しています。

 その日以降、高校から始めていた司法試験勉強を止めて、思想書や社会科学の書物に親しむようになり、各クラスへの情宣活動や政治集会や街頭闘争にいそしむようになりました。事後分かったことは、私のような「山﨑博昭ショック」から学生運動にかかわるようになった学友は多かったことを知りました。私だけが特殊ではなく、当時の学生・青年労働者の「共通体験」といっていいでしょう。

 加藤典洋の体験を読んでも同じようなものだったことが分かります。加藤は、翌月の第二次羽田闘争に参加して、機動隊から逃げ回ったことを記しています。

 人間の政治的死が衝撃をもたらして受け止められる意味については、多く語られていますのでここでは深堀しません。山﨑博昭の死は、「彼の属したとされる党派」はもとより、新左翼全共闘運動のその後の高揚の起爆剤となったという、「公式的言説」は否定しようがないでしょう。その高揚を見ぬまま本人だけが⋯⋯なんとも無念としか言いようがありません。運動の退潮とともに、学生は卒業や中退をして、眼のはじに陰惨な内ゲバを捉えながら、観念ではない精神的身体的苦痛を伴った生活過程としての本格的な管理網との闘いに入っていったのです。それを転向だとか頽落だとかいう三流評論家がいるが、全共闘運動の本質が全く分かっていない売文屋でしかないでしょう。そして山﨑博昭の死は、時間と体験に固着し、あるいは忘却されたかに見えました。そしてひとつの歴史的政治的な「公式的言説」―政治主義的言説として流布されてきたといっていいでしょう。

 半世紀を経て、山﨑博昭の死は再び意味を問い直され、時代に拮抗しようとしています。

 代島監督の映画「きみが死んだあとで」は、そうした政治主義的な「公式的言説」を下の世代として追体験し、なぞろうとしたのでしょうか。そうではないと思いました。この映画によって、私は山﨑博昭の人間としての実像を知らされました。それは時代情況の変容を貫いて、人間が希求する普遍的な「良心」を描いて、今の若者たちに問いかけているように感じられました。

 山﨑は、大手前高校というどちらかといえば中流層以上のエリート校から京大文学部へ進んだので、てっきりぼんぼんかと思い込んでいました。実はそうではなく、高知県の山村から幼少の頃、家族とともに大阪の貧困と被差別で有名な朝鮮人猪飼野に転居(在日朝鮮人ではない、父親の仕事の都合上)、その後の歩みを兄建夫さんがとつとつと語ります。映像は戦後から60年代後半まで、博昭が過ごした下町を映像でリアルにたどります。空襲で焼け野原となって死体の埋まった下町で、人間の根源的矛盾や哀切を滋養に成長したのだろう。父親を賃労働者として奴隷だと見ていた博昭の素朴なメモは、多感な少年の性急さを思わせます。親を思う時、このように社会的関係性の中でみようとする眼の鋭さと短絡さに、ああみんなあの頃はそうだった、と改めて共感します。また彼は、高校は成績優秀な奨学生として京大へ進みました。大学も奨学生として、家族と共に住む市営住宅から通学していたのです。

 私は2歳の時、ある寒村から一家で町場に移り住み、農民や商人や職工や夜の女の子供らとどぶ板を踏み抜きながら遊びました。博昭のように大阪という大都市ではなかったが、下層庶民の子供らと交わることで、うらぶれた侘しさや淋しさは、なにかしら精神に影響しただろうと思っています。私と山﨑博昭の境遇が似ていることもあって、半世紀を経てより身近で政治的表象から青年山﨑博昭の実像に触れることができたように思います。こうした個人史を、兄建夫さんが、とつとつと語ります。それがまた博昭の人柄を髣髴とさせてくれました。建夫さんはもともと政治的な人ではないように見受けました。朴訥実直の人、さぞ弟の死を無念に思って生きてきたことだろう。

 

 とはいえ、わたしは山﨑の死の意味を深く受け止めながら素直になれていない。この年になってもお前はまだ何をこだわっているのだ、と自分の声が聞こえてくるから仕方ない。理由は山﨑が所属していた革共同革命的共産主義者同盟中核派革マル派の陰湿で血塗られた内ゲバが、どれほど知的荒廃を招き、全共闘運動と社会運動への遺産を消失させたか、その問題は同時に総括されなければ、山﨑評価は普遍性に届かないからだ。内ゲバ時代は山﨑の死後ではあるが、今追悼するならばそれが要請されてしまうだろう。

 (「福井紳一著『羽田の記憶』の史的重層性―一九六七年一〇月八日山﨑博昭の死」)

 

四年ほど前、プロジェクトの大阪での第一回目の集会に参加し、山本義隆氏の講演で半世紀ぶりに肉声に接しました。そしてプロジェクト発行の『かつて10・8羽田闘争があった』所収の福井紳一氏の秀逸な小論の感想文を書かせていただきましたが、その中の一節です(『奔』創刊号所収)。

この映画を観て、私は党派的な政治主義による山﨑博昭の死の評価を、彼の実存的な「良心」の問題として評価する観点を得ることができたように思いました。あの時代、明確な革命論の違いによって党派を選んだわけではなく、身近に人脈上の繋がりがあればそこにフックをかけられて、全国動員の一兵卒として駆り出されたというのが実態であり、山﨑博昭もまたそういう磁場にいたことを知ると、彼に党派の政治責任を問うような政治主義的評価は間違いであろうと反省した次第です。死の直前に捉えられたショットには、弁天橋にひしめく学生の中の山﨑博昭はヘルメットも被っていません。初めて角材とヘルメットを一部の学生には持たせながら、山﨑博昭らには防御のヘルメットもないまま突撃させた戦術の稚拙さの責任は、偏に党派執行部が負うべきものでしょう。

 つまり山﨑を活動の導きとした大手前高校の社研に集う高校生は、私が歴研部でベトナム反戦雑誌を発行したように、社会的矛盾の性急な解消、あるいは「正義」への実存的欲求に基づくものであって、決してまだ硬直的なイデオロギッシュなものではなかったことを教えられたのです。

 日本の原発政策が、冷戦激化の頃から被爆者たちによる「核の平和利用」を掛け声に進められてきた事実について、川村湊など進歩的知識人が米国の核戦略に洗脳された結果だと断定しています。これに対して加藤典洋は批判しています。それは原発事故後の現在の眼によるものだ、被爆者たちは被爆死者たちへの追悼を、本来なら米国並びに日本政府に謝罪をさせて追悼することであったが、それが叶わなかった。国民もかれらに力を貸さなかった。われわれが被爆者たちの捩れた追悼の形においこんでしまったのだと叙しています。加藤のこの把握は、政治主義的評価ではなく、被爆者の実存の深淵に降り立った文学の眼であろう。私は加藤の文学の眼に深く同意したものでした。

私は党派の山﨑博昭の死を政治的に利用してきたことに反発しつつ、彼の実像を知らなかったために、その政治主義のレベルで党派執行部と同列に山﨑を論じてしまっていたのです。政治主義を批判しつつ、自らが政治主義に陥っていのです。代島監督の作品は、私に文学の眼をもたらしてくれたのでした。

どのような政治も文学を内包しない限り、制度ではない人間の生の解放には至らない。全共闘運動の本質部分において、山﨑博昭の死を抱きしめたいと思うのでした。

 

(プロフィール)

もちづき しこう 1948年生まれ、静岡県出身、1967年同志社大学法学部入学、中学で成績順位発表廃止闘争勝利、高校でベトナム反戦雑誌発行・政治活動禁止にて挫折、全共闘(無党派)、管理職ユニオン参加、俳人鈴木六林男に師事、俳誌『花曜』『豈』『六曜』を経て、2018年俳誌兼自立の言論誌『奔』発刊、句文集『辺縁へ』『俳句のアジール』『全季俳句歳時記』(青弓社柳川影治編)、佐野眞一『唐牛伝』(小学館文庫)に『擦過の一人―唐牛健太郎』一部所収。

 (『奔』6号、2020.12.30発行所収)