先輩畑安次(金沢大学副学長・故人)の追憶

そうでした、先輩の金沢大学副学長は
畑安次でした。
名前を間違えたが、同じく同志社大学同法会の先輩津森和治氏が指摘してくれました。
畑安次は、二つ上の、フランス語のよくできる人だった。
博士課程で憲法を専攻し、学部時代から数々の論文を発表していた。
いつも、煮しめたような汚いレインコートを羽織り、デモの先頭端を颯爽と歩いていた。
広い額にかかる長い髪をかき上げながらアジテーションする姿は、いかにも学究の徒といった風貌であった。
けっして激することはなく、論理的で落ち着いた喋り方は、有象無象の活動家とはどこか違っていた。
私が京都にもどり大学院でヘーゲル研究会を立ち上げたとき、かつて畑先輩が居た岩倉円通寺近くの大きなアパートへ入居した。
よく雨の降る年で、夜は森閑として寂しさが堪えた。畑先輩も、この静寂のなかで学問を究めたのかと思うと、身が引き締まる思いがしたものだった。
50を過ぎたころ、ちょうど副学長になったころで、金沢のご自宅を訪ねたことがあった。
つつましやかな官舎で、奥様と二人で住まわれていた。
奥様も楚々とした方で、点字書籍発行をボランティアでしていた。
夏の暑い日で、先輩とパンツ一枚で6畳間に大の字になって二人で寝た。
金沢大学の広い校内を案内してくれ、四高生琵琶湖遭難資料館で関係資料を一冊にまとめてくれたものを頂戴して帰ってきた。
その折、先輩は、
「望月君、お母さんが存命なうちは(佐野実について)書かない方がいい。やめなさい。」と言われ、私はこの人の人の機微に触れる繊細な感性に感じ入った。
約束通り私は書くのを延期した。
そして母が逝ってもぐずぐずしたまま今日に至ってしまった。
奥様は、高校時代の同級生、
大学時代郷里の三重の漁村の駅で出会い、交際を始めたと聞いている。
結局子供さんはいなかったようだ。
いい人は本当に早く死ぬ。