わが従兄叔父佐野実についての追想

もう五月も終わる。この一月ほぼ寝たきりであった。
気力も失せて、友人たちの励ましがなによりの糧であった。
ベンヤミンは、ナチスに追われ逃走のさなか、
深夜聞く友の足音だけが支えだったと書き残しているが、
私もそれに近い感慨をもった。
四月は例年訪問する高島市今津へは行けずじまいであった。
昭和16年4月7日、私の従兄叔父は琵琶湖で遭難死した。
いわゆる四高生琵琶湖ボート遭難事件である。
四高生7名と京大生3名が、ボートの合同練習の途上水難死した。
近年ほとんど話題にされなくなったが、私が京都に遊学中は誰もが知る身近な歴史事実として語り継がれていた。
だが私が、身内に当事者がいると知ったのは、そうとう後になってからだった。
佐野実は、当時19歳。
母の従兄で、祖父の姉の子息であった。
名門静岡県沼津東中学(新生沼津東高)から金沢大四高へ進んだ。
遺体発見は遅く確か7番目ぐらいだったと記憶する。
背の高い鼻筋の通った好男子だったと言われている。
彼のことを書こうと、高島市の郷土資料館を訪れたとき、学芸員には親切に対応していただき、当時の新聞のコピーをかなりいただいた。
まだの救助活動を見てきた老翁がいて、よければ聴きにいかれるといいと名前も教えてもらったが、それきりになった。
還暦もすぎてから、しばしば建立された琵琶湖湖畔の遭難記念追悼碑を訪れてきた。毎年桜が満開、周囲を明るく染め上げている。
先輩の金沢大副学長の畑安次(故人)が、事故と遭難学生のプロフイールから救助活動の記録をまとめた分厚い一冊をコピーをとってくれたが、母に送ってそれきり行方不明となった。
母は2014年に逝った。
私が、中学で剣道を始めたとき、袴姿を見て、
母は「実さんにそっくり」と言った。
誰のことかはその時知らなかったが、母の頬がわずかに紅らんだように思えた。
その時から、母の口から佐野実はあなたの従兄叔父だよと告げられるまで40年はあっただろう。
母の語る佐野実は、追憶ゆえに美化されたのかもしれないが、それ以上に若き日の母にはかすかな思慕の情があったのではなかろうかと今では想像している。
私がいずれ高島市へ移住しようと考えたのも、そんなきっかけからだった。
琵琶湖も、比叡山沿いの沿岸は雪と風のきつい地域であるが、高島市までくると、雪も少なく平野部で穏やかないいところである。
移住はもはや夢と消え、
そして、もう私には佐野実の物語を多分けないだろう。