武漢封鎖!
素早い習近平の判断は、中国の進化を感じる。
もちろんリベラルは、人権無視だからできるという負の面だけをあげつらうだろう。
しかし、自国民の命、財産など喪うものがあるという認識が根底にあり、旧来のように情報を秘匿することのマイナスを指導層も解ってきたということだろう。
ツイッターでは再三この危険性と、ウィルスは必ず変位して感染力を強化していくのは素人でも解っている話として、危険を呼びかけた。
未だに、週15便も武漢からの直行便を飛ばして、金のために危険を運んでいる。
神奈川県知事は、冷静にとは呼びかけても、未知のウィルスへの危険をまったく呼びかけない。
原発の時と同じではないか。
未知の事態には、行政はむしろ可能性としてのリスクを最大限「煽る」べきではないのか。
箱根の商店が、中国人お断り、のステッカーを張りだしたことがリベラル市民が叩いていたが、やり方としてはスマートではないが、政府も行政も逐次情報をださない中では、当然不安をもった人たちは個別に自分の危機感に応じて対応するのは当然だ。
こういうことは、叩くべきことではない、行政が無策だからである。
加藤典洋の晩年の「有限性の近代」を読んで、私は社会政治をみる視点を変えつつある。
どれほど高次化した産業社会であっても、人間が自然史的過程を生きる限り、自然の闇(近代知の未知)は背中に背負っていることを自覚することだ。