東北大震災・フクシマ原発事故一周忌--「絆」ファシズムから「ことば」の創造へ

「サイゴ」と入力しても思うような漢字が変換されない。
「サイゴ」を単語登録した。初めてわたしの今の時代を何とか確定できた。

しかし、はっとする。「サイゴ」は「災後」であり、同時に「最後」だったのだ。

ありきたりに言えば、本当の科学信仰の戦後の終わり、生産力至上主義の終り、便利さ追及オンリーのライフスタイルの終り、地域エゴの終り、利権政治の終り、などなど。

しかし2011年3月11日から、そうしたマスコミ用語や社会科学用語では包摂しきれない何かが変わった。それが何かはどうもピタリと表現できない。

ピタリと表現できる「ことば」をうしなったのではないのか?

師鈴木六林男の遺言のようにきいていた、現俳協などはいらんでええ、という禁を破ってとうとう加入したのだが、この一年の年度名鑑編集用の5句を提出することになった。
この一年、震災・原発被害がテーマばかりになっていた。しかしそのときは夢中でことばを紡ぎ、できたと得心したものだが、改めて現実の被災の悲惨さをしるにつけ、全くおざなりのことばの羅列でしかないと忸怩たる思いだ。

シーベルトやベクレルという聞いたこともない単位が飛び交い、日常のなかに瞬く間に定着した。
単位に弱いわたしは、いまだにピンとこずまごついているが、わたしたちの生活実態がまたひとつ抽象性に格上げ?されたようで、釈然としない。

マスコミは膨大な瓦礫の山を映し出すが、いたるところに遺体が散乱していたときくのだが、まったく映像のなかからは排除されていた。
散乱した遺体はなんなのだ?瓦礫でさえないのか?
遺体といえども独り独りのかけがえのない生の軌跡はあったはずではないか。
その無残な遺体となった独りの生に、生き残ったわたしたちは、現実のものとして向き合う必要があったのではなかったのか?

死は身近にあって生の意味を問う。
都会で死は隔離され、日常から遠ざけられた結果、生のリアリティは薄れ、生の確証がもてなくなっている。

遺体が無残に転がる風景こそをわたしたちは直視し、直視すればおそらくかけがえのない独りの生が立ち上がってくるはずだ。

それをせず、いくら犠牲者の数をカウントし、美人アナウンサーが微笑みを浮かべながら被災の現状を悲惨だと報じても、わたしたちにはそれはファッションのことばとしてしか通過していかなかった。

先ほどTVで、石巻の工場社長の奥さんが激白していた。
「絆、絆、と安っぽいことばを言わんでください、どこもかしこも瓦礫拒否でしょう。」と。

わたしは思わず心の中でその通りと叫んでいた。
奥さんは反語として「絆」の安っぽさを非難したが、わたしは何の必然性もなく受け入れるべきだと先験的にいうマスコミ、為政者に怒っていた。「絆」というなら、阪神大震災の時よりも十倍も高い処理費を交付せず、なぜ自治体の税金で処理せよといわないのだ。絆ならなぜ金をくれと受け入れ自治体はいうのだ?
わたしの「絆」には金のやりとりで決着する思想はなく、むしろ前近代的な互助の精神としてある。あたかも健さんの唐獅子牡丹が背中で哭くときのような心情だ。

ようやく一部の人だけがまやかしの作られていく絆や寄り添いの気持ちが、実体とズレ、孤独な闘いを自立的にしていかなければにらないところに追い込まれていると気づきはじめている。

本当に被災者や災後の世界を語れることばの獲得は、リアルな悲惨さを直視することの中にしかない。
それは、表面的な風景としての悲惨さではなく、被災者とこのわたしたちの心にヒタヒタと浸食する慟哭と虚無を切開し、災後の生に確証を与えていくことばを紡ぐしかない。

「絆」ということばや「ふるさと」という歌に回収されるような一億総助け合いファシズムではなく、強靭なことばを開発していくしかない。
それが死者行方不明者を2万人という計量的死から解放し、かけがえのない独り独りの死を悼む方法であろう。

(とりあえず推敲もないまま未だ漠然とした想いをメモしたもので、不十分なものです。)