定年退職に際して−−遥かきて、老兵は静かに去りゆく。

本日2013年3月25日をもって40年間のサラリーマン生活を終えた。

わたくしごとは書かないことにしているが、これは戦後団塊世代の生産活動リタイアとして、なにがしかの時代的エポックを画していると考え、記しておく。

送別会、餞別、花束などすべてを断り、最低の世話になった仲間たちに、二行だけの謝辞をメールで送って辞した。

老兵は静かに去りゆくのみ、この時ほど実感をもって呟けるときもない。

この企業でのサラリーマン生活が善かったの悪かったのか、比較する人生が他にあるわけではないので、一切感慨をもたないように決めていた。


想えば、大学をひとつの挫折の形で通過したが、そのとき思ったのはこういうことだ。
語学の修練を積むだけのモラトリアムを、経済的に確保できずアカデミズムの世界には行けなかったとしても、在野にあってそれをしのぐ知(Wissenshaft)を獲得し続けよう。
あるいは、知識人といわれる連中の知(Wissenshaft)の在りようをチェックするだけの練磨は持続し、こいつはダメ、ここは間違い、という見識だけは持てるようにしよう。
それは未来への責任として、「知識人の転倒した知の在り方」(吉本隆明)を告発しつづける力だけは保持したい、と考えた。

しかし現実の実業の世界は、砂を噛むような生活と、季節の変化さえも忘れる多忙さで、一切の観念的活動と思惑を粉砕してくれた。

よれよれになった凡庸なサラリーマンとしてそれもほとんど挫折といってよ終わり方だった。

そして今、後続世代からは、なにをしてきたのだ団塊世代は、と問われ、佇すばかりだ。

あとわずかな余生のなかで、若き日のその志を取り戻せるだろうか。

密集した機動隊のジュラルミンの盾の壁を前に恐怖し、それを肉弾で乗り越えよとした危機感と切迫感をもって、青春に向かって老いてゆくことができるだろうか。