2013年7月7日の毎日新聞は次のように報じた。
安倍晋三首相は7日のNHK番組で、憲法について「6割の国民が変えたいと思っても国会議員の3分の1超が反対すればできないのはおかしい」と述べ、改憲の手続きを定めた96条を見直し、発議要件を衆参両院の過半数(現行3分の2以上)の賛成に緩和することに改めて積極的な姿勢を示した。
国民の6割が自民党の憲法改定案と同じに変えたいのかどうかは疑問であるが、厳密には5割対5割ぐらいで拮抗していることは、事実であり、以前より改憲派の工作が成功してきたことは間違いないだろう。
全体の自民党改憲案は、また改めて検討したいと思っているが、今回改憲に先立ち、自民党の表現の自由に関する極めて、注目すべき「事案」があった。
これはその事案の当事者の女性がアップしたU-Tyubeの動画である。これを観てから本論にはいろう。
自民党改憲案に「公益」ということばが多用されて、表現の自由は公益のためには制限されるとあるらしい。
公共の福祉と変わらない旨説明が自民党からあったようなことも記憶にある。
ではそのままでいいだろうと思うのだが、多くの左派や国民に違うから言葉が違うのだろうと突っ込まれても要領の得ない説明しかでてきていない。
今回安倍総理の福島県街頭演説で起きた事例は、自民党の表現の自由を規制する「公益」の解釈を百万言費やすより、よく説明してくれている。
事案はこうだ。
女性が総理の演説へ参集し、プラカードを持参。「安倍総理、原発廃炉に賛成?反対?」と書いてあった。言葉は発していない。
これを見つけた自民党員三人が取り囲みプラカードを取り上げた。そして後で返却するからと氏名住所電話番号など執拗に聞き出した。
返却するなら、演説が終わった後で返せばいいだけの話、氏名住所電話番号まで拒否する本人に男三人が立ち塞がって強要することは民間人としては行き過ぎではないか?
共産党の自党絶対化や公明党の妄信的政党並だ。
自民党福島県連の事務局次長は、取材に対し、女性のプラカードを一時没収したことについて、こう説明した。
「現場にいたわけではないので、詳しい理由については分からないです。ただ、安全は確保されなければいけませんし、静かに聞きたいという人もたくさんいますので、話を聞く妨げになるという心配もあったでしょう。また、通行の支障にならないようにということもあったかもしれません。プラカードは一時お預かりしただけで、取り上げたり押さえ込んだりといった問題になるようなことはなかったととらえています」(JCAST7日ニュースより)
騒乱や危害を加え被害が発生してもいない段階で個人の持ち物を、民間団体や政党が予防拘束的に取り上げたり、プライバシーを教えろと強要が許される社会は空恐ろしい。
不都合な質問や抗議が出ることを恐るなら、街頭でやるなということだ。不特定多数を相手にすれば、反対者もいることが前提であろう。
事実、自民党は今までこんなゲシュタポや特高のような振る舞いはなかった。
安倍自民党は自分に不都合の相手は、主観的に「公益」を害するとして、排除できると考えている。
こうした考えを実際の強大な国家権力と行政機関に与えようとしている訳だ。
日本社会がどのような社会になるかは容易に想像できる。
ここでの憲法上のポイントは、二つ。
一つは、「公共の福祉」ではなく「公益」のために制限されるという場合、「公益」がはるかに規制の範囲を広く持ち、国家権力にさらなる規制を拡大させる恐れがないか。
また、近代法では慎重を期すべき(実際タブーに近い)予防拘束的規制が、民間人の主観で容易に行うことが許されるという点である。
私人間の係争の調停を図る国家が、逆に私人間の主観的規制を容認し煽る結果になる奇形的解釈運用がされる恐れはないか。