もう列島は梅雨入り、論理を育まない日本人の根っこか

これだけめまぐるしく季節が変わるんだもん、
これだから日本人はひと処に立ち止まって、論理的にじっくり考えることは不得手なんだろうね。


だから、わたしは多くの人が正しいと駆け出す方向へは行かない。
立ち止まって、それには虚偽がないか、論理的矛盾がないか、何より命の大切さを否定していないか、等々確認しようとする。
それとても、間違いかもしれないと留保しつつ。

駆け出すのはいつでもできる。
だが駆け出した先に穴があり落ちたら、戻れない。
駆け出した先から、引き戻す気持ちは、行くときの何倍もエネルギーを必要とすることが人の心理だからだ。

駆け出した先に、心地よい、ときめく風が吹いているか、それは過去の風の道筋を調べ、
長年風の道筋を識る村の古老にきくのがよい。

NHK吉田松陰を放映している。
尊皇攘夷、は当時の革命思想だ。
だが、松陰の決定的な誤りは、攘夷だ。
尊民親欧亜、が正しい。

しかしこの正しいテーゼまで、多くの投獄と戦死者を出して気づくのだ。

一つの状況の中にいると、多くの「過ちの正義」が出てくる。
だから「過ちの正義」を討議して、みんなが納得できる処までを「正義」と確定することだ。
そこに普遍性の根拠と全員の責任負担が正当化される。

調整した結果、それでも残された課題は多数決で決める。
だから多数決はスポーツゲームの勝敗とは本質的に違う。
多数決の目的は、スポーツのように「敗者を作らない」 仕掛けなのだ。

勝者が全部取り、多数決で敵を潰す、この国の土人は参加の決定ゲームに不慣れなため、スポーツゲームと勘違いしたままだ。

多数決は最後の残された利害にのみ、効力を持つ。
少数派の存在や人格を潰すものでも、論議の全てを丸ごと否定してよいものでも、
まして社会的ステイタスの優位を決定付けるものでもない。

この考えは、人類の中で間違いなく普遍性を持っている。

さぜなら、
この考えを否定した途端、
否定した者は、
普遍的正義へ参加する立場を棄てることになるからだ。

でなければ、
人類ではないかのいずれかだ。