文科省人文系学部の統合廃止の愚劣、新自由主義教育は「公民」育成を弱めないか。

■その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省
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(2015年06月08日 19:26 朝日新聞デジタル

文部科学省は8日、全86の国立大学に、既存の学部などを見直すよう通知した。主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。


 国立大には、法人化された2004年度以降、6年ごとに「中期目標」を作って文科省に提出する義務がある。6月末が16年度からの目標案の提出期限で、大学の認可を受けるには、目標が通知の趣旨に沿っている必要がある。


 通知は「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する」ことを求めた。例えば、人文社会系の卒業生の多くがサラリーマンになるという実績を踏まえ、大学は地元で必要とされている職種を把握。需要にあった人材を育てる学部に転換するなどといった想定だ。


経団連アメリカかぶれの俗物エリートたちが、圧力かけているのだろう。
はやい話が、地方国大の人文系学部卒業生の多くは企業へ就職するから、即戦力育成の職業訓練校みたいにしちやえ、といってるわけだ。

「役に立たない人材」って、誰が判断して何を基準に線引きするのだろうか?人間の能力を計量するに、いかなる客観的スケールがあるというのだろうか?
しかも一人の人材が、生涯のいつどのようなタイミングと領域で能力がブレイクするかを客観的に判断するスケールが。

わずか大学四年で一律に食品のようにランク付けするす文科省の思考は、経験的にいっても短絡的でしかない。
こういう短絡思考が、PCの操作には長けていても、日本の近現代史もしらず、12.8が何の日かもしらないアホを逆に作るのだ。

改めて教育は何かなんて説明しないけど、企業マインドを教育に持ち込む限り、企業戦士になったとしても、課長程度の小手先の事務しかできない人材にしかなれないと経験的に深く確信している。

人材育成のための企業実務教育は企業が投資しろ、税金は企業の為の教育投資ではなく、「公民」を作る本来的な教育投資に回せ。
近代とは、国民の均一な能力を要請した。そうでなければ、主権在民も民主政治も維持できないからだ。

新自由主義は、公的税金を私企業の為に人材育成投資せよという。
安倍や船田などのような、学生時代人文系学問をしなかった熟年期の政治家の無能を見せつけられた国民は、今のトンチンカンな歴史観憲法論議を見ていれば、一見役に立たないような学問やそれを熱心に学んだ学生の方が、遥かに国家社会には有能な人材に成長するだらうことは誰も異論がないだろう。

今日は(株)大阪市中央卸売市場を見学した。
少なからず感動の連続だった。

この文科省新自由主義による愚劣さを、市場で働く人たちをみて強く思った。


(マグロ屋さん)

(市場内のランチチラシ寿司900円まいうー)

日本の食の安定と安全供給を、ここの労働者達が日々担ってくれている。
年間を通して連休はない。日曜日と月二回(第二第四水曜日)の休みしかないとのこと。

彼らは、文科省がいうように人文系のダメな人材か? 人文系どころか多くが高卒でもあるだろう。
地味な過酷な仕事をごまかしもなくキチットこなしている有能な労働者でしたよ。

説明をしてくれた方は、TPPでこの市場も壊滅的打撃を受けると心配していた。しっかり判断できる能力だ。
さらに、TPPに問題があるとか、売上が減るとか言うと怒られるので大きな声ではあまり言えませんがと述べていた。圧力がかかっているようだ。

大阪市中央卸売市場は、株式会社である、
市場は、しじょうで、いちばではない。
しじょうは、値段をきめるところ、
いちばは、決められた値段で取引する場。

それにしても、日本人は均一な教育で、均一な能力の国民を世界一作った。こういう緻密な流通組織は世界にも珍しいとのこと。世界から見学にくるがみんな感嘆して帰るらしい。

一部の先端技術や金融テクノクラートだけの人間を作ることでは国は発展できない。それはアメリカが国家レベルでは先端技術や軍事産業に強く、民間社会では国民皆保険もない貧困格差のモデル社会として内部崩壊しているのをみれば誰でも納得できるはずだ。

公的税金でまかなう公教育は、よき「公民」育成の投資であらねばならない。
企業に適切な人材育成コースは否定しないが、それは文科省が作るものではなく、それこそ民間大学がやればいいことだ。

企業は大卒人材能力に不足であれば、金を出し合って自分たちの望むカリキュラムの大学を設立すればよい。
民間民間というなら、それが税金との関係でみれば妥当な判断ではないか。

教育は、均一な能力を付与するものでなければならない。
この古くて新しい教育の任務は、近代を享受している者は経験的にいっても誰も否定することはできないのではないか。