苫野一徳さんの講演「教育とはなにか」、京都女子大新教育学科発足記念シンポジュウム

今日は京都女子大で苫野一徳(熊本大准教授・哲学者)さんの講演を聴く。

苫野さんの講演を聴いて、中座して帰ってきたので、ご挨拶もできずに残念なことをした。

最近の「(良い)教育とはなにか」を聴いたのは初めてだったが、
内容を聴くほどに何度も聴いたような錯覚を覚える。

やはり同じエコールの安心感というか、
ホッブス、ルソー、ヘーゲルをざっと押さえて、
「自由の相互承認」へ到る、そこから人間の本質=「自由への欲求」を本質としてとりだす。

この自由とはなにか、
人間が生きたいように生きる、という動物にはない人類史を形成してきた動物とは違う人間本質の発見を近代の核心として取り出す。

苫野さんは、ここから教育の本質を、
生きたいように生きる、という個々人に即した力を育むものとして教育を考えよう、
それを育む環境をつくること、と展開していきます。

もうこれは、
西=竹田現象学の定石です。

同じエコールとしての共通認識です。

まあ小生は、研究者でもなく、唯一在野のサラリーマンでしたが、マルクス思想からしか近代をみていなかったのでとても新鮮でした。

そもそもマルクスから入ると、
近代思想の獲得した原理を、それほど評価しなくなってしまうきらいがあるのです。

小生にとっては目から鱗
哲学が身近に、また俗流マルクシズムを決定的な克服契機となりました。

(といっても専攻はヘーゲルですか、精読したのはヘーゲル、だからヘーゲリアンというべなのだ)

竹田青嗣さんから京都にいち西研さんを紹介いただき、
西研さんの聴講と読書会、西さんが東京へ戻ってからも3~4年続いた。

半分居眠りをしていたが、
大学が闘う場であっも学ぶ場と時間をもてなかった世代としては、無償での教えはありがたく、とても貴重な時間でありました。

竹田さんに以前訊きました、
竹田さんの中にはベンヤミンが出てきませんが、
どうしてですか?

竹田さんは即答しました。
左翼っぼくて嫌いなんだ。

参った。(笑)

もう最近は政治問題に追われて、哲学も読んでいないが、
苫野さんの講演で、またボチボチ、一一銭の得にもならないが読んでみようかと思った。

ただ、大阪の教育は無茶苦茶になっていますが、
権力はまず教育から手をつけて、鋳型人間を作ろうとする。

教育と権力の関係について、どう対応するか、そこが希薄のような気がして、

苫野さんの考えを訊きたかった。

次の機会の宿題にしよう。