与党政治家の台風被害に鈍感なこと、国民をブタの死亡ぐらいにしか思っていないのか!

台風19号の被害がどんどん明らかになって日本の三分の一が被害にあっている。死者も増えている。

はやばやと、自民党の二階幹事長は、たいした被害でなくてよかったと談話を出している。

北陸新幹線が水没し、復旧には一年間も要すると言われている。

水害は甚大の被害で、復旧には時間ががり、意外に支援の対象にならず、法整備も遅れている。

もう今までの時代ではない。加藤典洋が遺書のように脱領域的に3.11以降を「有限性の近代」という概念で未来を論じているが、われわれの生活は、明らかに沈没しつつある船のなかで、絶えず沈没しない作業が必要になるのだと。そういう陰鬱な時代になった自覚が無さすぎる。

微熱が数日つづいているので、「有限性の近代」について語りたいがやめておくが、「無限性の近代」(近代前期)のままで、併存する近代過渡期論が喫緊の課題であろう。

以下のコメントを再掲載しておく。

治水は先人に学べ│暴れ川だった富士川にダムはない

  水害が起こるたびに紹介するのは、わが故郷富士川のことである。

富士川は日本の三大急流といわれ、昔は有名な暴れ川であった。信州から甲斐を経て駿河湾に注ぐ長い河川は、なん個所かで手が付けられない水害でひとびとを悩ましていた。

一六世紀後半武田信玄信濃侵攻で領有を勝ち取ると、笛吹川釜無川の合流をもって富士川を形成していたが、この本流である釜無川に一大改修を加えて水害を無くした。流れ込む支流の遮断と堤の構築であった。後世に信玄堤と呼ばれる。武田信玄の大きな功績として語り継がれている。

もうひとつは、富士川河口に近い雁堤(かりがねづつみ)である。

新幹線の富士川鉄橋の北側にはJRと国道一号線の橋が架かるが、その北側に大きく東側に張り出した堤がある。ちょうど上から見ると雁が群れなして飛ぶ姿に似ているため雁堤(かりがねつつみ)と名付けられた美しい名前である。

江戸後期この雁堤ができるまでは、一帯は荒涼たる土砂が広がるだけで定住も水稲もできなかった。東京から西へ行く場合、沼津を出ると原の湿地帯に入り、吉原の宿へ入る。そこを出るとすぐ富士川の荒涼とした河原へ入り、渡河の難所となっていた。

甲府の下級武士古郡(ふるごおり)孫太夫(まごだゆう)重政(しげまさ)が代官に就くと、この水害地域の治水に当り、雁堤を構築。いまからみても、あの広大な雁堤を人手だけで造ったことに驚く。古郡家三代にわたる工事の後完成した。人柱の哀しい逸話も伝承されている。

この富士川の先人の功績によって、以降約二〇〇年以上氾濫は一度もない。この一帯は豊かな水田となり、定住を促して、加島五千石と呼ばれた。

従って富士川にはダムがない。これは先人の知恵が作った奇跡の河川である。治水にダムは当然としてきた常識は、近代明治以降のものである。特に戦後は、政治家とゼネコンの作った常識であり、原発に先駆ける治水利権である。ダムありきとせず、自分の住んでいる河川は、まずダム抜きでできるか治水を住民が衆知を集めて検討することである。おそらく、武田も古郡も、土木の専門家と地域住民の聞き取りを十分にして采配をふるったはずだ。

明治以降の治水は、明らかに専門家と地域住民を排除して、あるいは金をばらまいてダム治水ありきで進めてきた。被害住民は政治家や行政機関の説明を鵜呑みにせずに自分達で考えることである。

(『奔』創刊号所収)

 今回、笛吹川が氾濫したが、信玄堤が破られたのだろうか?

だとすると400年ぶりとなるのではないか。情報が欲しい。