身内の戦死を語らずに死んだ親世代、戦死者をもっと語ろうよ。

過去のドキュメントですが、敗戦記念日に掲載しておきます。

 

七〇年目の追悼 ラバウルに散った叔父望月重夫

 

桜川駅を地上に上がると小雨がぱらついていた。一大繁華街なんばの一つ西隣にもかかわらず町は閑散としていた。浪速区反物町を探すために桜川郵便局を訪ねた。受付の女性に現在の桜川三丁目か四丁目のようだが場所を教えて欲しいと頼んだ。予想通り分からないと即答であった。奥の上司らしき者に訊きにいってくれたが、同じ返事であった。浪速区役所のときと同じだ。応接の若い担当者は調べるでもなく反物町など聞いたこともないと迷惑そうにいった。平成元年生まれだという。別の部署でも誰も知らなかった。反物町は叔父重夫が出征まで暮らした町だ。主旨を話すと職員が浪速区の戦没遺族会の会長を知っていて連絡をとってくれた。しかし浪速区戦没遺族会は一昨年解散をしており、戦死した父親のこと以外何もしらない、だから話すことは何もないとの返事であった。戦後七〇年で、町も人も戦死者も忘却の淵に沈み、その片鱗さえもみつからない。当事者にとってはついこの間のことが、人々にとってはもはや存在しなかったに等しい。これほどまでに、と驚き腹立たしくもあった。

 戸建ての昔から住んでいそうな家を次々に飛び込んで訊いた、反物町の当該番地をしらないか、町内会長を紹介して欲しいと。何軒目かで町内会長は高齢で健康が優れないはずだから、Мさんが適任かと思うと紹介された。Мさんご夫婦は健在で、主旨を告げると見ず知らずのわたしをご自宅へ招き上げてくれ、丁寧な対応をしていただいた。驚いたことに反物町のその番地はうちの隣になりますという。しかしご夫婦は四国から大阪に居住したのは戦後まもなくで、戦前のことは分からないとのことだ。居住した当時隣は確かに民家があったがどんなひとが住んでいたのか分からない、今は幼稚園になっていると記憶を手繰ってくれた。

 わたしの胸を静かな感動が奔った。戦死した叔父重夫は間違いなくこの町に住み、倹しくも平穏な独身生活を送っていたのだ。

身内に戦死者がいるとはっきり知ったのは、昨年の父の死がきっかけだった。兄は、父が死んだら棺に重夫と二人でとった写真があるから入れて欲しいというメモをみつけた。結局写真は見つからなかった。それを聞きはるか昔、確かに父がセピアの写真をちらっと見せて戦死した下の弟だと話してくれたことを思い出した。戦死地はサイパンだといったはずだ。それ以来まったく忘れ去っていた。それは父の実家も我が家も同じだった。父だけが秘かに重夫の戦死を哀れみ、戦争の傷として抱えてきたのだ。妻でも家族でもなく戦死した弟であったことに戸惑った。わたしの前に突然戦死者が現れたのである。

 重夫は大正九年山梨県富士川沿いの寒村に生まれた。わたしの父が長男で重夫は二男である。尋常高等小学校をでると伝手を頼って大阪へ出た。地場の中堅鉄工所に勤務。兄弟のほとんどが学卒教員となった中で異例である。病弱だったときく。その後九鬼家の養子となっている。

大正末期は既に日本も大衆消費社会が進行しており、山梨県小林一三阪急電鉄の施設と沿線宅地開発に成功して、昭和四年には早くも阪急百貨店を開店している。貧しい田舎の子弟は労働力として都市へ吸引され、人口の流動化が開始された時期である。当時東京へ出ても大阪へ出る山梨県人は少ない。ほとんどが小林一三を頼るかそれに連なる人脈だったのではないか。余談だが、今でも大阪で見ず知らずの望月姓にルーツを訊くと、ほとんどが山梨か静岡である。滋賀県にも少数存在するが、これもルーツは八世紀頃信濃からの分岐支流である。

重夫の養子先九鬼家の情報も、Mさんによれば当主は米屋を営んでいて、戦後既に死亡しているとのことだった。なにしろ手掛かりは大阪府庁社会援護課から提供された「軍籍簿」のみなのだ。それは国家が兵員として必要とした限りでの情報しか必要がないことを語っていた。一人の実存は、一個の「兵器」として扱われている。どこで「製造」され、いつ「兵器」として登録されたか、その「兵器」はいつどこで損耗したか、それのみで重夫の息づかいなど窺い知る由もない。重夫の生活の痕跡は、行政区画で様変わりした反物町とともに戦後の時間のなかに流れ去っていた。

 重夫が招集されたのは、昭和一六年一〇月一四日である。輜重兵(しちょうへい)第四連隊補充部隊に応召入隊、階級は兵技二等兵兵站の技術系最下等級兵隊である。軍隊ではもっとも地味な立場だといえる。応召時の姓は九鬼姓であった。

 昭和一七年一二月二〇日、軍令陸甲第九六号四陸第三三八号により第二六野戦自動車廠に配属。年をまたいで昭和一八年一月四日ラバウルビスマルク群島ニューブリティン島)に着任。重夫の戦死への道が密林の中へ敷かれるのだった。

 

 重夫の軍歴は、厚労省社会援護局提供の「第二六野戦自動車廠略歴」(巻末添付)にわずかに覗うことができる。軍用車輌の管理と軍需品の輸送・補給にあたるいわゆる兵站である。ラバウル着任から六期に分けて簡単なメモを記している。戦場では、日本軍は軽視したが兵站を重視した米軍からは苛烈な攻撃対象とされた。

 昭和一九年の正月を目前に、重夫は大阪駅から列車で広島へ向かった。列車はブラインドで目隠しされ押し黙った兵隊たちの緊張と不安を乗せて走った。おそらく広島湾内の宇品港であったか、輸送船に乗船したと思われる。船は一万トン級の秋津丸か乾山丸であったかもしれない。船倉は三段の蚕棚様に仕切られ、足を伸ばして寝れないほどぎゅうぎゅう詰めだった。駆逐艦一隻が太平洋へ出るまで護衛につき、別れる時乗員全員が甲板に整列して「暁に祈る」を歌って見送ってくれたのではないか。乗船してしばらくして重夫ら兵隊には南方方面に行くらしいとやっと聞かされ、動揺が広がった。乗船するまで軍の機密として兵隊には教えられなかった。南下するほどに寝床は暑く蒸れてベットリとしてきた。重夫は海上で正月を迎えた。兵隊同士故郷の正月風景の会話に花が咲いただろう。正月といえども海水で炊いた、食べにくいしょっぱい飯と魚の缶詰か漬物ぐらいだっただろう。餅一個でも配給されればたいしたものだった。

途中パラオへ立ち寄ったかもしれない。ラバウルへは日本を出て六日か七日で投錨したはずだ。ラバウルマングローブの意味。

ラバウル港はビスマルク諸島ニューブリテン島の北部にある。島はニューギニア島の東に隣接し、オーストラリアの北東に位置する三万六千㎢の島である。日本軍の南太平洋の最大の基地であった。前年昭和一七年初頭には付近には既に一〇万人の将兵が駐屯していた。円形の湾を濃緑の山々が囲み、海浜一帯には広く椰子林が広がっていた。北側には大きな活火山が君臨し噴煙を上げていた。すでにこの頃米軍の戦闘機の襲撃は激しくなっており船舶に被害が出ていた。幸い重夫らは一月四日の早朝に上陸を無事できたのだろう。桟橋を出ると道の両側には巨大なガジュマロの木が土中より根を空中に押し出して異様な雰囲気に兵隊は一様に驚いたという。砂埃をもうもうと立てて重夫らは基地に到着した。

営舎を作るまでは野営である。重夫は夜中に顔に異様な感じがして飛び起きたはずだ。野ネズミが顔いっぱいにたかっている。目糞鼻糞を食べに顔にむらがるのである。ラバウルへ到着した兵隊たちは誰も野ネズミの洗礼を受けない者はいなかったといわれる。部隊の営舎といっても椰子の葉で葺いた粗末な小屋といった方がいい。毎日襲うスコールと雨季の長雨をしのぐ程度のものだ。廠の本部がどのあたりにあったかは資料だけでは解らないが、おそらく湾の北側の山中腹に置かれていた官邸山司令部本部に近いところだったのではないか。各部隊は山の周辺の平地に展開していただろう。重夫ら二等兵の初年兵はおそらく小隊単位で最も過酷な兵営設営の任務から始まった。

 以下戦闘経緯は、亀井宏の名著『ドキュメンタリー太平洋戦争全史』による。

重夫らの派兵は大本営陸軍部の大きな戦略の一環にあった。昭和一七年一一月二二日第八方面軍司令官に新補された今村均中将がラバウルに着任、防衛ラインの立て直しを図ろうとしていた。一方昭和一八年初頭、米軍は「第一任務」を完了、「第二任務」へ移ろうとしていた。すなわち、ガダルカナルニューギニア東部を制圧し、ソロモン諸島ニューギニアを占領へ向けて続々と進攻しようとしていた時期である。これに対し大本営ラバウル防衛線を、ソロモン諸島のニュージョージア、ムンダ岬の航空基地とニューギニアのサラマウアを結ぶ線とした。緒戦の敗退による戦線縮小を余儀なくされて既に敗色を濃くし始めていた。

昭和一七年六月七日 ミッドウェー海戦敗北。

      八月七日  ガダルカナル島の空港設営中を米軍に占領制圧される。

             八月二二日 ガダルカナル一木支隊一個大隊(約一〇〇〇人)全滅。

     一〇月二六日 同島川口支隊(六〇〇〇名)一夜で全滅、第二師団丸山中将全滅

   一一月五日 米軍、ラバウル大規模攻撃。三〇〇機編隊にて機動艦隊と陸上

         基地航空兵力の連合作戦。

     一一月一一日 米軍、同規模攻撃。

         一一月一二日 ガダルカナル第三師団による奪還作戦の惨劇。

          陸海協力による上陸作戦に対し米軍の猛攻により、一一輸送船

          団半日で八〇〇〇人が戦死、上陸できたのは二〇〇〇人のみ、

          食料等海没のため島は餓死者による「白骨街道」と化す。

    昭和一八年二月七日  ガダルカナル撤収完了。兵二万人上陸し、収容でき

               たのは一九七二人。

      二月二〇日 ラバウル航空隊消失。喪失機七〇九六機、戦死搭乗員七一八六

         人。  

 以上ラバウルガダルカナルを結ぶソロモン海域に二年間日米の大空海決戦の死闘が展開された。戦史上第一次~第三次ソロモン海戦という。

 重夫が着任した時点で、すでにラバウルはほとんど制空権を失っており、迎撃する戦闘機は日ごとに減っていた。世界にゼロ戦の威力を周知したのは初期の頃で、やがて一八年の半ばにはゼロ戦を上回るグラマンF6Fヘルキャットが登場し、ゼロ戦は完全に過去の遺物となった。

 「廠履歴」にある第一次~第五次ビスマルク戦とは、以上の南太平洋戦の敗北から大本営は新たな防衛ラインの構築のため「八一号作戦」を発令し、それに沿って展開された一大作戦のことである。ビスマルク海はラバウルの西、ニューギニア島の北側。

 では「八一号作戦」とはいかなるものだったのか。

ガダルカナル島が全滅を重ねようやく事の重大性に大本営はきづくが、陸軍参謀本部はその時ガダルカナルがどこにあるかも知らなかったという。もともと海軍が飛行場建設を進めていた島で、陸軍部としては海軍の奪回作戦に協力するという程度の認識しかなかった。陸軍部と海軍部では戦争開始時点で戦争の全体構想が暗黙のうちに異なっていた。陸軍参謀本部は中国大陸からインドを制圧して西から勝ち上がってくるドイツ軍と合流という構想で太平洋での戦争は考えていなかった。妄想だけは誇大だが、陸軍はこの時この地域の島嶼の地図を持たず、海軍の海図を利用している。東京から上陸を命じるのだが、現地部隊は地形さえも分からなかった。密林行軍を結果し、戦闘以外で死病する兵を増やした。一方海軍軍令部は、伝統的な戦艦決戦方式にとらわれていたから、太平洋上での防衛線を維持することしか頭になかった。ここにきてやっと陸海の参謀たちに協力して作戦にあたる意識が芽生え、重夫が着任する前日の昭和一八年一月三日「陸海軍中央協定」が結ばれた。北ソロモンは陸軍、中部ソロモンは海軍と定めて、ニューギニアについては兵力を増強する。もってニューギニアの要域を確保し、ポートモレスビーニューギニア南方にある米豪の大軍事基地)を制圧準備するというものだった。

 そして「悲劇のダンピール海峡」が起きた。重夫着任二か月後の昭和一八年二月二八日ニューギニアのラエへ上陸作戦が実施された。ラエは海軍は危険だという声が高かったが陸軍が譲らず海軍が折れた。第五一師団の乗船した八隻の輸送船と水雷戦隊八隻の駆逐艦が護衛、ラバウルを深夜出航した。重夫ら輜重部隊も、物資輸送の積み込みなどに多忙を極めたことだろう。ラエまでは三日の航海である。出航するとまもなく潜水艦に接触され、B一七が二機接触、爆撃され輸送船一隻が沈没。三日には敵機P三八戦闘機約三〇機、B一七約一〇〇機、P三八など三〇機の二群が急襲してきた。当日はゼロ戦が上空直衛についていたがあろうことか米軍に即応できなかった。それはゼロ戦が高高度を飛行していたため、米軍の開発したスキップボミング=「反跳爆撃」に対応できなかった。超低空飛行から爆弾を海面に落として一度跳ね返して戦艦の腹へ魚雷のように爆発させる方法である。日本側の証言で、魚雷攻撃を受けたかと思ったとある。この戦闘を少し詳しく解説するのは、この米軍の開発した「反跳爆撃」が初めて登場したからである。この投下術は技量が必要でかつ対空砲火のリスクを負っているが、被弾した場合の効果は大きい合理的な戦法であった。輸送船も艦船もほとんど沈没させられ、ダンピール海峡沖に藻屑となった。海中に飛び込んだ者は、救命筏、ハッチ、ボート、漂流物にすがったり体をくくりつけたりして一〇~二〇名のグループで海上を漂った。翌日四日は残存の艦船とラバウルから急派された艦船で兵らを救助についやした。運よくグッドイナフ島に漂着した者は連合国軍の俘虜となった。最終人員の損害は全乗船員六九一二名に対し、ラエに上陸は八一五名、行方不明三五〇〇名。わずか一日でこれだけの人命が失われた。物資は一五センチ榴弾砲、高射砲一一、対戦車砲四など砲多数、トラツク三四、輜重車九四、弾薬五〇〇トン、食糧その他八八〇〇立法メートル。数字を細かく述べているのは、戦争のむごたらしさを再確認したいからである。数時間のうちに数千人の死体が浮く情景を今の我々は想像できるだろうか。帳簿には損耗員数としてしか記載されないが、個々の人生と物語の終焉があったのである。

  既に南太平洋の国防ラインは連合国によって意識的に破砕され大きな穴が開いてしまっていた。にもかかわらず大本営は現地事情を正確に把握しようとせず、南方の一島嶼を失った程度であり、戦力比較もせずニューギニアにこだわった。遠い東京から命令のみを発令していた。米軍は開戦以来次々に現場を徹底的に把握し、局地戦闘での敗北を反省し次々に新しい戦法と兵器の開発を遂行しつつあった。「反跳爆撃」以外にも高性能レーダーの全艦船への装備、ブルドーザーなど大型建設重機、まもなく登場したグラマンF6Fヘルキャット。F6Fは、撃墜したが炎上しなかったゼロ戦を本国にまで運び徹底的な分解をして開発された。日本では海軍は陸軍護衛に消耗が激しいのを不満に中国大陸の陸軍戦闘機を太平洋に移動することを要請する。しかし陸軍搭乗員は海上飛行を訓練されておらず飛べない、こういう非合理をなんの検討もなしにふわふわと決めていく。そのため無駄な損害を益々大きくしていった。なによりも米軍は、日本の艦隊決戦主義を棄てており、空母を中心とした飛行戦隊の爆撃戦術へ進化していた。これも真珠湾攻撃の敗北を分析した結果、空母と爆撃機を主力とする艦隊の組織戦を日本軍に教えられた結果である。当の日本軍はこの戦果から何も学ばず日露戦争以来の伝統的艦隊決戦主義に固執した。誇大な夢想と陸海軍の確執に明け暮れている日本と比べ彼我の差がある。米軍のリアリズムが日本軍の妄想を凌駕していた。重夫はこうした大本営エリート将校たちの妄想や天皇と一体化した自尊感情の愚劣さの巨大な渦に巻き込まれていた。緒戦の現場の指揮官からは、大本営からの指令に疑問を投げ、現地での作戦変更を具申する声はあった。しかし当時の軍にあっては、大本営に意見をいうことは統帥権を侵犯する抗命罪で死刑を意味する。すべて現地司令官によって握りつぶされた。いわばエリートの集団現実放棄ともいえた。ラバウルは制空権を失い、連日米軍の爆撃を欲しいままにさせることとなった。

 「廠履歴」の第一次ビスマルク戦は、前述したように大別すれば「八一号作戦」に包摂されている。第二次ビスマルク戦以降は、敗北により大本営「絶対国防圏」設定のなかの戦闘となる。長くなるので戦闘については以下列記し、概観するにとどめる。

 昭和一八年四月三日 連合艦隊司令部、トラック島よりラバウルへ進駐山本五十六長官着任。「い」号作戦開始。四次にわたるポートモレスビーなどの攻撃。

航空兵力のほとんどを損耗する。

 四月一六日 「い」号作戦中止。

 四月一八日 山本司令長官敵機銃撃によりブーゲンビル島上空にて戦死。

 五月二一日 大本営、山本長官戦死発表。

    五月二六日 アッツ島三五〇〇名全滅、キスカ島撤退放棄。

     六月二五日 「学徒戦時動員体制確立要領」、中学生以上勤労動員を義務づる。

 九月二五日 大本営政府連絡会議「世界情勢判断」により、「絶対国防圏」を設定し

  陸海戦力の充実をはかる。

     一〇月二一日 法文系学徒壮行会(明治神宮外苑競技場)、

   東大生江橋慎四郎訣別の辞。

 山本長官発案の「い」号作戦で日本軍の海軍兵力の損耗度合いが激しく、制空制海権ともに喪失。しかし連合艦隊大本営への戦況報告は、連戦連勝の誇大報告の打電に終始していた。だが大本営は山本長官の戦死と損耗度合いに驚愕し、事態の深刻さを認めはじめた。そこで九月に大本営は「絶対国防圏」なる指針を発表。新戦略は決戦思想の消耗戦を避け、その間に軍事力の充実をはかるというもの。換言すれば、連合国との追撃的作戦に終止符をうち、敗北を続ける独伊への依存心を無くし独力で持久戦をもって戦うというものであった。従って兵器のみならず物資も欠乏し補給のないラバウル他南方の兵隊は自給自足をとる方針が下達された。そして最終防衛ラインをカムチャッカ半島南端から太平洋を跨ぎビルマに至る約七〇〇〇浬にもおよぶ長大なものだった。相変わらず現実を無視した論理性のない妄想にしかすぎない。改めて閲するに、学徒出陣には壮大な儀礼をもって遇し、重夫のような庶民は牛馬を駆り立てるように戦地へ送ったこの国のエリートの精神は、湿潤に生きる黴のように、戦後もこの国の風土に負の遺伝子として生き残っている。

 これ以降が「廠略歴」の第二次ビスマルク戦に区分される。

重夫ら兵隊は恐らく連日の戦闘機の散発的急襲や、艦隊と一体となった空爆に対応するため多忙な日々だっただろう。二等兵で初年兵であれば、古兵のピンタや無意味な暴行が日常であり、任務は過酷なうえ空腹がつきまとう。重夫はマラリアデング熱には感染していなかっただろうか。ほぼ全員が感染していたという報告もあり、配慮から戦死とされていても実際は病死が多かったともいわれる。しかし空爆がないときの南国の風景は美しく、夜は夜光虫が青く波に揺れていた。夜風に吹かれながらときには家族を想いだすこともあっただろう。そんな感傷も一夜あければ再び人間としての感情は押し殺さざるをえなかった。

 昭和一八年九月八日 イタリア無条件降伏。

   一一月二日、ブーゲンビル島沖海戦ゼロ戦一七〇機激しい空中戦。

         ラバウル米軍による空爆ゼロ戦迎撃激闘。

          同五日、 第一次ブーゲンビル島沖航空戦、一一日の第三次をもって終結

    一九年一月三〇日 米軍、マーシャル諸島占領。

       二月一七日  米軍、トラック島占領。最大の日本海軍根拠地崩壊。

     二月二〇日  ラバウル他東南方面の航空機一機も存在せず。

   日本軍、最大の航空基地ラバウルを見捨てる。

   米軍もラバウルを黙殺し、背後のアドミラルティ諸島へ上陸。

   (米軍がラバウルを黙殺した理由は、既に航空機消失、

    戦闘した場合日本軍の執拗な抵抗から割り出すと、

    兵員損耗に比して 合理的でないと判断した)

      六月二〇日、 マリアナ沖開戦大敗北

        六月二四日、 サイパン島陥落。

        七月四日、インパール作戦中止、戦死者(餓死者)三五、〇〇〇人。

一九年六月一六日重夫、ラバウル富士見台にて敵機銃撃により戦死。享年二六歳。身分は兵長であった。重夫の戦死状況は、場所が富士見台という以外は不明。理由は、「敵機銃撃ニヨリ」と記載されているのは、「第二六野戦自動車廠死亡者連名簿」(厚労省提供)のみ。富士見台はラバウルから西へとると一本の道路(現ノースト・コースト・ロード)が密林を抜け富士見湾(ビスマルク海)へ到る。その密林と湾の周辺を富士見台といった。歩兵第五三連隊の守備地域であった。。戦死日に大きな戦闘があったかどうか調べてみたが、見いだされなかった。すでに制空権を喪失していた日本軍は、日常的に戦闘機爆撃と機銃掃射をうけていただろうから、重夫は自給自足の畑仕事か、物資輸送か、戦車や自動車の修理か、何かの作業中に敵機に発見され銃撃されたものと推測できる。戦地での防空壕は兵隊用は蛸壺型の穴へ椰子の葉を被せた簡単なものだ。部隊ごとに決められていて、他人の壕には入れない。自分の壕へ辿り着けず被弾する者も当然いたようだ。うっかり他人の壕へ入ると上官から厳しい叱責があった。重夫のように後方任務の最下等の兵は、他人の壕へ逃げ込んで猛爆の最中壕を追い出されたかもしれない。

 いずれにしても、戦闘経過をつぶさにみていくならば、重夫は死ななくてもよかった死を死んだことは明白である。後世にミッドウェー海戦が敗戦のターニングポイントとされるが、ニューギニア周辺のガダルカナル島戦、ソロモン沖海戦、ビスマルク海戦、ヴーゲンヴィル島沖航空戦などが日本陸海軍の矛盾を露呈し、損耗度合に決定的な打撃を与えている。なによりも日本人の思考方法の負性を露見させ、戦争全体のなかで敗北を決定づけているからだ。わたしに言わせれば、軍事的には後の各島嶼の全滅戦は付け足しである。それゆえに全滅戦は悲惨だった。文明史的意味で南方方面の戦闘はもっと知られていい。重夫がラバウル着任した昭和一九年初頭には既に全体の戦況からみれば敗北は決定的なものであった。上陸翌月には既に航空機は一機も存在せず、大本営は防衛範囲からラバウルを見放す決定をしている。本国から棄民ならぬ棄兵をされたのだ。軍エリートは、重夫らを南方に送ることではなく、敗戦の撤収を画策をすべきだった。本土から食料補給線を断ち、現地で自給生産しながら、制空・制海権も喪失したなかで戦闘を継続させた軍エリートたちの無能と非情を七十年目に改めて指弾しておきたい。米軍がラバウルを黙殺し、結果ラバウルだけが全滅を免れた。もう半年生き延びたら重夫は無事帰還できたはずだ。いまさら言っても詮無い話ではあるが。軍エリートのあまりにも現状認識を欠いた妄想のなかで、不合理な作戦を遂行させられた兵隊を痛ましく思う。なお、重夫の戦死死亡時名は望月姓に戻っており、九鬼家との間にどのような話があったかは不明である。

わたしは身内の戦死だからというだけで書くのではない。一個の実存にとって、自分の命を自分で決定できないことの不条理に胸がうずくからである。重夫の下の弟の証言では、「戦争に行きたくない」「死にたくない」と言い残していたとのこと。庶民が招集され下等兵隊が圧倒的に多く戦死した。どのような人の死も死はただの死である。そこに意味や価値の軽重をつけるのは生き残った人間たちである。庶民の兵隊の死はただの「戦死者数」と抽象化して実存を抹消し、特攻隊の死は貴重で美しいと個々の実存を記録し再構成して讃える。この扱いの基準は、国家の意思に自ら応答させるものは尊く、従っただけの者は価値はないという判断が無意識的に意図されている。この考えは国家主義といえる。国家に命を回収され戦死した兵隊を労しく思うなら、死後にまで国家主義に回収すべきではない。わたしは、国家の意思によって、命を自分で決定できなかった者の尊さは等しく、その実存を記録し追悼すべきだと思う。巷に流通する記録の多くは将校以上のもので負け戦のくせに多くが手柄話や美化に偏っている。七〇年も経てば、下等兵隊の戦地での記録も証言もほとんど採録できない困難さはあるが、多くの人が機会あるごとに発掘し、実存の再構成を国家主義に回収されない形で造形することを望む。そして国家意思によって死を強制されたその一点において兵隊たちを等しく追悼し、永劫に記憶に留めたく思う。

 ラバウル上陸兵員 約二〇万人、

     帰還者  約一〇万人、内陸軍将兵七五、〇〇〇人。

 重夫のみならず多くの兵隊の遺骨は、無名のまま未だに島に海に散乱している。

 

 ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害におい  てついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。ひとは死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。

                          (石原吉郎『確認されない死のなかで』)

 

 土塊に魂を鎮めて夜光虫

 八月のラッパや死者の隊列来

 

(参考文献)

亀井宏『ドキュメント太平洋戦争全史』上・下 講談社 二〇一三年

角田房子『責任ラバウルの将軍今村均』 ちくま文庫 二〇〇六年

八木弥太郎『ラバウル南溟記』 光人社 二〇〇七年

羽切松雄『さらばラバウル』 山王書房 一九七二年

『別冊太平洋戦争師団史』 新人物往来社 一九九六年

『陸軍師団騒乱』 人物往来社 二〇〇一年

水木しげる『総員玉砕せよ!』 講談社文庫 二〇一四年

水木しげる『敗走記』 講談社文庫 二〇一〇年

水木しげる『カランコロン漂流記』 小学館 二〇一〇年

井本能男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』 芙蓉書房 一九七九年

『第二六野戦自動車廠剛第一〇三四八部隊留守名簿』 厚労省社会援護局援護業務課調査資料室 二〇一五年

大阪府死亡者連名簿』 同右

『第二六野戦自動車廠死亡者連名簿』 同右

『第二六野戦自動車廠死没者連名簿』 同右

山梨県連隊区死亡者連名簿』 同右

筆者不明『第二六野戦自動車廠略歴』 同右

『第二六野戦自動車廠兵籍簿』 大阪府福祉部地域推進室

(第二句文集『俳句のアジール』2015年所収)