「再建社学同」ー「SECT6」をめぐって

福井紳一(日本思想史家)さんの連載(『出版人・広告人』2020.11月号)は、当時の左翼組織の表現が多いため、何度も読み直さないと意味不明の部分が多い。
福井さんの記述が不足であるということではない。当時の左翼学生の珍妙な言い回しのことである。
再建社学同「SECT6」は、たしかに前衛主義を克服しようとか、思想的指導部などもつものではないとか、行動の自由と分裂行動是認といった、当時としては、それってマルキストの組織として成り立つのかと懐疑してしまうような「画期性」が見られる。
小生が、福井さんの「SECT6」を読み始めて、あっと声を上げて、自分が巡り巡って「SECT6」の影響を多分に受けていたことを知らされたのだが、改めて小生のリーダー(清水征樹、後同志社大法学部長)が口にしていたことと同じ内容だと思い知る。
いまになって、関西ブント=社学同(学友会執行部)一色のなかで、「非社学同」(反社学同ではない)を標榜し、行動はともにしながらも、党派的プロパガンダ闘争や、不必要な街頭闘争や、ゲバルトなどへの参加は一切しなかった。独自の情勢分析と理論を掲げていたのだ。赤ヘルをなぜ被らなかったのか。そんなものだと思い込んでいたが、政治的源流に符牒していることをうかがわせる。
不思議なことに、同郷でそれなりに親しかった望月上史(共産同赤軍派内ゲバで事故死)にもオルグされなかったし、同僚たちも社学同からはほとんどオルグされたものはいない。
赤軍派ができたときも、私たちの組織にはアンタッチャブルであり、もちろん個人参加は別にして、組織的な軋轢はなかった。小生などは赤軍派を批判していたため、上級生がいなくなると、シンパになった連中からテロ寸前の恫喝をかけられたことはあったが静かなものだった。
再建社学同の機関紙「SECT6」は、なぜ「SECT6」といったのだろう。どういう意味なのだろうか。
福井さんのご教示を待ちたいと思う。
 
後、福井さんの丁寧なご教示をいただいた、以下がその叙述である。
 
 
機関誌の名称を「SECT6」とした人物は、その機関紙から「SECT6」と通称された、一九六一年に再建された社会主義学生同盟議長となった福地茂樹さんでした。
当時、福地茂樹さんは、ラテン語読みで「セクト セックス」。そんな気分で命名し、「タイトルSECT・6は別段何の意味ももたない。単なる記号である」(SECT6 機関紙第2号 一九六二年二月一〇日 社会主義学生同盟全国事務局)と表明しています。
また、機関紙を「SECT6」とし、さらにこの時期の社学同を「SECT6」と呼ぶことにしたことについて、のちに福地茂樹さんは次のように述べています。
社学同なんてだれも知らねぇよ、という意味である。中村(光)はセクト・セックスだねとラテン語読みに発音してニコニコ笑った。
私たちは左翼を単に左欲と書き、文書はすべてラブレターのように書いた。
私は参加する学生がみな自立し組織に頼らないでも、生き残っていけるように、Sect6という宗派が、早い自然死をとげられるように、注意深くその文体を選んだ。」(福地茂樹「SECT SIXの頃」、『60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む』情況出版株式会社、二〇〇二年六月)。
六〇年安保闘争の終焉の後、その敗北と挫折の中で、共産主義者同盟は分裂していきました。しかし、そのような混迷する情況の中で、島成郎は、反国家・反前衛を掲げる若い活動家であった福地茂樹を社会主義学生同盟の議長に据えました。このことは、極めて重要な意味を持つと思います。  
この稀有とも言える事実にこそ、文章として残さなかった島成郎の真意、及び、島成郎の六〇年安保闘争の内的な総括があったことを読み取ることができるからです。それは、これまで島成郎と行動を共にしてきた共産主義者同盟の幹部たちの、例えば、「懺悔」して革命的共産主義者同盟に加入していった行動など、その後の彼らの諸所での様々な行く末を、島成郎(しましげお・故人)の在り方と比較して顧みれば類推することは可能といえましょう。
このことについての、神津陽さんの文章を以下に紹介します。
SECT NO.6(『SECT6』の創刊号は、『SECT NO.6』であったが、二号以降、『SECT6』と統一 筆者注)が全共闘の原点だというのは後世の私の比較批評の切り口で、SECT NO.6の党派主義批判・反前衛主義と私の中大闘争や叛旗派形成の経験とが同類だと考えているからです。左翼業界の常識では安保ブントが総括をめぐり東大系の革通派、学連中枢のプロ通派、労対派の戦旗派に三分解し、次に戦旗派革共同に移り、プロ通派の清水丈夫氏らが合流して全学連一七大会で革共同系のマル学同が主導権をとる。ここからマル学同内で革マルと中核が分裂し、ブントの党派再建工作が続き、三派全学連を経て、反前衛だった解放派が党派主義に転じ、七〇年代の革マルとの内ゲバに至る。だがブント内紛に辟易していた書記長の島成郎(故人)が六〇年安保後に社学同再建を委ねたのが、静岡系でSECT NO.6議長になる中大の福地茂樹氏だった事実を踏まえると、党派主義否定の全共闘がブント直系だとも評価できるのです。(「対談・小嵐九八郎×神津陽 若者世代に伝えたい全共闘体験」、『図書新聞』二九二九号、二〇〇九年八月八日、『神津陽未刊行論考集』JCA出版、二〇二〇年、所収)
 かつて全共闘の標語として、ジャーナリズムが流布させたものの一つに「マルクスなんか知らないよ」というフレーズがある。世の識者の眉をひそめさせ、「マルクス主義者」達の不快と安堵を狙ったジャーナリズムの意図とは別に、全共闘運動は「マルクス主義」に無知だったから跳び上がったのでもなく、「マルクス」主義理論を習得したから鎮静し党派運動へ吸収された訳でもない。つまり、自分達の運動に必要な限りでマルクスを引用したのであり、本音としても、思想としても「関係なかった」のである。
 問題は欲求であり、運動であり、それに必要な組織であり、真の「マルクス主義者」への道が敷かれていなかったと同様に、正しいマルクス理解への体験素材として私たちの闘いがあった訳ではない。異国の、19世紀の大思想家、革命家の文字面から伝わる精神の躍動と、理論化への情熱を除けば、他のあれこれと変わらぬ私たちの時代や闘いとは縁遠い一組のテキストだったに過ぎない。擁護の必要もなければ、否定すべき対象にも成り得なかったことは、全共闘組織と並行した如何なる「マルクス主義」を標榜する党派においても、活動家の実情ではなかったかと思うのだ。
神津陽「マルクス異説―西欧の呪縛と暗部 知の聖典化と主体の神格化を止揚する鍵となるマルクスにおける観念と生活との緊張軸の考察」(『流動』一九七九年六月、『神津陽未刊行論考集』JCA出版、二〇二〇年、所収)
 なお、福地茂樹氏はまだ健在とのこと。