コロナで自己責任にすべてをかぶせて、政府の棄民政策が展開しました。主人公は客のこなくなった居酒屋チェーン店を解雇されます。実家と折り合いの悪かったこともあり、また本人がなまじ真面目で日常の中の「正義」を貫くタイプのため損をして生きてきた。
結局路上徘徊生活に陥り、炊き出しや浮浪者の群れに混ざっても、プライドゆえに野宿の仲間には入れず、あるバス停に寝泊まりすることになった。
この辺りは、おそらく日本の下層庶民にはいたるところで起こった事実であったでしょう。
こんな解説をしていると長くなるが、幡ヶ谷バス停では実際の浮浪者狩りで、彼女は殺害されたが、高橋の映画はソフトに強烈に爆弾闘争へのいざないをもってエンディングとした、これが希望なんだと。
浮浪者の柄谷明(爆弾犯罪歴あり)が、主人公の板谷由美に昔の闘争を厚く語り、板谷が爆弾闘争をしたい、「一度くらい抵抗したい」と爆弾作りを懇願、二人で都庁に仕掛けるが、柄谷は爆発しないベルのなる目覚まし時計でお茶を濁した。板谷はがっかりしてバス停に帰る。
この時、柄谷がブルーシートの小屋の中に大事にとっておいたマニュアルが「腹腹時計」だ。なつかしいなー。
「ねえ、爆弾闘争しないー?」と笑顔で誘うのだった。
これがエンディング。
高橋は、闘争を知らない、助けを求めることも知らない、自助努力が当たり前だと思い込んでいる若者たちに、「抵抗と存在の解放」をアピールしたものだと受け取った。
自助とは、実際には、生きる力のこと。窮地を語り、自分の作った人的ネットワークを立ち上げ、フルに支援を得るという関係性の構築のことである。
教育とは、スキルと同時にこうした自助の力をつけることである。しかし、政府文科省教育は、それを全く逆に削ぐ教育をしているのだ。私はそれが許せない。
自助でできる事は限界があるとか、責任回避のいいわけだとか、そういうことではなく、ラジカルに批判しておく必要があります。本来の意味の奪還だ!
また若者だけではないよ、闘争を知りながら、集会もデモも参加しなくなった怠慢な老年にも呼び掛けているのですよ。
蛇足、
個人的には、私の好みは、ちょい役(主人公の友人)だったが、筒井真理子です。彼女のアンニュイな感じがいいですねー。大好き!!