オリンピック汚職事件と主犯高橋を育てた電通の思い出

急にここ一週間ほど、オリンピック汚職事件のニュースがパタリと途切れた。
どうしたのだろうか?
高橋と角川あたりで終わりにしてしまうのだろうか?
神宮外苑再開発も、地続きで汚職のマグマとなっていることがはっきりしてきた。
キーマンは、森喜朗菅義偉ではないのか、という憶測が流れている。森は既に数回検察の聴取を受けていて、ほぼ何らかの関与があったと思われる。
神宮外苑の不必要再開発も、森が住友などプロジェクト側の計画案を観て絶賛したという情報もあった。
森も高橋も角川も、昭和の利権誘導社会にどっぷりつかって、そうした仕事が仕事そのものだと倒錯して生きてきた害虫なのだ。
権力の悪を摘発する検察が弱体化し、権力悪隠蔽に回っているとも限らない。検察は内部でしばしば権力闘争をしながら、目的を果たしたり冤罪を創ってきたりした。
今の部長はやる男と定評があるようだが、注視していきたい。
ところで個人的には電通と長年、持ちつ持たれつで仕事をしてきた。モウレツ時代だから、彼らの仕事ぶりには敬意を払い、教えられることも多かったが、確かになんでも口先三寸で金に換えてしまうえげつなさや、個人商店のような社員の在り方には「たまらんな」という感想もあった。
しかし当時は官公庁の仕事自体少なく、テレビ全盛の時代のスポンサー確保、新聞雑誌広告の獲得が主で、イベントなどもまだアサツー博報堂と競合している時代だった。
電通一強時代は80年代に確立する。
電通社長は戦後すべて新聞局長から昇格した。
それが初めて他媒体から社長を出した。界隈ではひとつの「事件」であった。
新聞局長に就任すると、全国の新聞社45社から祝儀が届いた。局長個人にである。平均10~50万円だと言われていた。豪邸一軒がたつと羨まれたものである。
新聞社広告局と電通の扱い高の比率は、60年代は7対3ぐらいから90年代には3対7に逆転していただろう(あくまで個人的感覚)。
これによって、新聞社は電通にコントロールされ、親鳥が雛鳥に口移しで餌を与えるような構図となった。
外部からの祝儀を個人で受け取る風土は、個人も組織も自分で切り分けて足りるとするものであったが、高橋の普通の感覚に定着してしまったのかもしれない。
給与体系も、諸経費一括で支払われ、例えば一般的な接待費でも自分の給与から支払うことになっていた。接待費が嵩み、破産状態の社員もいたときいたこともある。
高橋はちょうど私のような団塊の世代より3歳上のようだが、全共闘運動経験者よりはるかに多く高橋のような資本の戦略による新しい時代の波を創り出した者達が多かっただろう。
新しいというのは、フォーディズムの時代から、産業資本主義がいきずまり、70年代初頭にニクソンドルショックがありアメリカは衰退に入る。
資本の運動をブラッシュアップする必要に迫られた。
人間の欲望こそが資本の再生産を保証するという消費資本主義のフェーズへ転回。
欲望を掻き立てる短期市場拡大のリニューアルの時代で、広告はもてはやされ、認知訴求から欲望創出の使命に変換した。
電通は世界的潮流にのって、資本主義の基幹産業に上った。
商業広告は決定的な欠陥をもっている。
自然と賃労働者の消耗と枯渇を再生するプロセスに関与しない。
無制限な欲望喚起と消費場面でだけである。
あとは野となり山となれーアドマンは無責任なやつが多いのはそのためだろうとーあくまで私の偏見である。