中世を旅するー望月宿・望月城址を訪ねて。

この記事は、2018年3月3日にFacebookに掲出した過去記事です。
 
久しぶりの旅。
望月城は、中山道29番目の望月宿の山城として、その痕跡をとどめる。
信濃の豪族望月氏の領地。周囲には、滋野氏、村上氏、海野氏、真田氏など中世から近世に活躍した豪族たちがひしめいていた。
月氏は、4世紀頃天皇の流れをくむ滋野氏の傘下に入り、海野氏とともに名門の誉れを得る。望月の牧として朝廷への貢馬の生産を行っていた。今でいう自動車産業のようなもので、その技術に長けていた。わが一族の伝承ではおそらく渡来人であったという。紀貫之はじめ多くの望月の駒は歌に詠まれている。
 京の都へ貢馬を届ける途中、琵琶湖の南域で一旦休めて馬をリフレッシュさせた。そこに牧場が置かれことから望月氏の支流の基となり、後の甲賀一族53家筆頭望月氏が現在に至る。
鎌倉幕府重臣となり関東武士団の中核を形成するが、後武田氏に遣え長篠の合戦で当主が討ち死に、徳川氏に武田氏とともに滅ぼされる。
真田氏は望月氏の分岐支流に出自を持つ。支流は多岐にわたるが、わか家は武田氏重臣穴山梅雪に仕えた望月彌惣兵衛を始祖とする。今川氏と武田氏が同盟を結ぶと、富士川沿いに街道が引かれ、駿河湾側から二つ目の烽火城である真篠城が築城され、その初代城主である。穴山梅雪は武田氏から徳川氏側に付いたためか、穴山梅雪領の富士川沿いから静岡清水地区に多く望月姓が残り、本家の信濃方面にはほとんど残っていない。
江戸時代に編纂された『常陸風土記』によれば、望月彌惣兵衛の名が記録されており、信州の著姓だが水戸にも家があると説明がある。なぜ水戸に家があったのか謎のままである。
元来甲斐源氏武田氏は常陸を出自としているため、何らかの人脈があったものと思われる。以上山梨県教育委員会「真篠城調査報告書」による。
(写真は望月城跡、寒林を風が吹き抜けているだけ、深閑として地元の人も滅多に登らないとのこと。400メーター程の断崖の下に鹿曲川と中山道望月宿。寺は望月氏の城光寺)
(Facebook転載、2018.3.3掲載分)

写真は捜してみつかれば後日掲載します。